2016年8月11日木曜日

古地図探偵 五代氏藍製造所「朝陽館」のその後(その1) 20160511

NHKの朝ドラが火付け役となって、実業家・五代友厚氏の生涯や業績が改めて注目されています。
五代氏は慶応4(1868)年に大阪へ来られた後、明治18(1885)年に亡くなる直前まで大阪の発展に尽力しました。その業績は大阪株式取引所や大阪商法会議所の設立をはじめ多数ありますが、その一つに藍製造所「朝陽館」の開設があります。

朝陽館は明治9(1876)年に現在の大阪市北区堂島、ほたるまち(旧阪大病院)の東側の敷地に開設されました。現在はNTTグループの一大拠点であるテレパーク堂島が立地しています。東西150m、南北200m、約3haにおよぶ広大な敷地です。
敷地の南側の駐車場の脇に、石碑が3基建っています。左から順に、五代友厚精藍所西朝陽館跡、明治天皇聖躅、大村藩蔵屋敷跡です。石碑に西朝陽館とあるのは東にもあったからです。
テレパーク堂島にある石碑
西朝陽館跡と明治天皇聖躅の石碑

大村藩蔵屋敷跡の石碑

NTTテレパーク堂島

NTTテレパーク堂島の配置図

江戸時代に大村藩の蔵屋敷があった地に、明治9年に朝陽館が建ち、そこに明治天皇が天覧されたということです。
また、テレパーク堂島の北東角には、大阪市役所堂島庁舎跡の石碑があります。調べてみるとこの辺りは久留米藩の蔵屋敷があったようです。
NTTテレパーク堂島の北東角にある広場

大阪市役所堂島庁舎跡の石碑

今回は「朝陽館」のあった地が、江戸時代から明治、大正、昭和、平成と、どのように利用されてきたのかを、古地図を手掛かりにして探偵してみようと思います。
地図は、主に国際日本文化研究センター(日文研)さんが、Webで公開されている資料を利用させていただきます。各地図の表題をクリックすると、日文研さんの公開地図を見ることができます。

まずは、元禄4(1691)年の「新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図」を見てみます。この地図は、江戸時代の大坂の地図に多くみられますが、東を上に描かれています。中之島には大名の名前が見え各藩の蔵屋敷が林立していた様子がわかりますが、堂島川と曽根崎川に囲まれた堂島には、新地という地名と〇丁目の文字が見える程度です。明治42年の北の大火の後に埋め立てられた曽根崎川(蜆川ともいう)がまだあった時代で、堂島は文字通り島となっています。朝陽館の地は、たみの(田蓑)橋と梅田橋の位置から判断すると新地の5丁目となっています。
新撰増補堂社仏閣絵入諸大名御屋敷新校正大坂大絵図元禄4(1691)年)

次は天保年間の「浪華名所獨案内」です。堂島には堂島米市場、中之島には蔵屋敷多しと書かれています。タミノ橋から判断すると、大丸北店の西側辺りになりますが、特に何も書かれていません。俗に蜆川と云うとあり、蜆川の北には曽根崎新地の文字があります。市街地が北へ広がっていっています。この地図も東が上に描かれています。この地図は、二ツ井戸津の清さんからお借りしました。
浪華名所獨案内天保年間)

3枚目は、同じく天保年間、天保8(1837)年の「天保新改攝州大阪全圖」です。この地図は珍しく南が上に描かれていますが、ここでは、他との比較がしやすいように北を上に置いてあります。朝陽館の地には、北側には丸岡、久留米、三日月の各藩、南側には大村、足守(?)、唐津の各藩の名前があり、蔵屋敷が建っていたことがわかります。大村藩蔵屋敷跡の石碑は、正しい位置に建てられていることがわかります。
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年)

4枚目は、明治時代に入り明治5(1872)年の、「大阪市中地區甼名改正繪圖」です。朝陽館の地は色が濃くて読みにくいですが、第十四区に含まれています。名称はありません。西隣の現在ほたるまちとして再開発された阪大病院の土地は、北野高校や大手前女学校の前身が立地していたことがある土地ですが、この地図には鉄道寮とあります。
大阪市中地區甼名改正繪圖明治5(1872)年)

5枚目は、同じく明治5(1872)年の「大阪圖」。朝陽館の地はこちらでは第十五区となっています。ほたるまちの地は大阪出張鐡道掛となっています。 
東側の第十三区には、米会所があり、赤字で「六年三月、米油相場会所」と注記されています。
大阪圖明治5(1872)年)

6枚目は、明治12(1879)年発行の「大阪之圖」。それらしき敷地はありますが、朝陽館は明治9年の開設ですが、この地図には名称の記載はありません。この地図は、江戸時代の地図の流れを受けて、東が上に描かれています。
明治12(1879)年発行の大阪之圖

7枚目は、明治15(1882)年発行の「改正新版大坂明細全図」です。梅田ステーションから並木道を南に進み、緑バシを渡ったところに「五代氏藍製造場」と記載があります。この地図は絵地図風のユニークな表現になっています。大阪の版本、編集人による地図です。
凡例によると、黄色は北区を示していますので、梅田ステーシヨンは北区に含まれていない郡部に位置していたことになります。
明治15(1882)年発行の改正新版大坂明細全図

8枚目は、 明治17(1884)年発行の「大阪府区分新細図」です。梅田ステンショから南に進み緑バシと柳ハシを渡ったところが、南北に2つの敷地に分かれていて、南側に「藍製造」の文字があります。朝陽館が南半分に縮小されたのでしょうか?この地図は、京都の版本、編集者によるもので、東が上に描かれている点と、この時期には珍しく大阪府全体を表した地図となっています。
明治17(1884)年発行の大阪府区分新細図

9枚目は、明治18(1885)年発行の「新版大阪細見全圖」です。
地図の中央あたりに「五代氏藍製造所」という大きな敷地があります。
藍製造所の東にある堀には、「明治11年新堀」という名前が付いています。全国から鐡道で大阪に届いた荷物を水運によって市内各地の市場まで運ぶために掘られた堀川です。現在では、堀は埋め立てられて、上を阪神高速道路が通っています。出入り橋という橋の跡と地名だけが残っています。おいしいきんつば屋さんがあることで有名な所です。
渡邊橋から北へ延びる道路には、「ステーション道」という名前が付いています。この道を北上すると西側に「梅田ステーシヨン」があります。「梅田ステン所」とも呼ばれていたそうです。現在の大阪駅よりもだいぶん西になります。鉄道路線には「神戸行鐡道」、「西京行鐡道」の名前が付いています。京都が東京に対して西京と呼ばれているのも面白いと思います。
西隣のほたるまちの地は、この地図では「鐡道局」となっています。
明治18(1885)年発行の新版大阪細見全圖

淀川の改修工事の前で、中津川の文字が見えます。(「中」は切れてしまっていますが。)このように、この地図には明治維新後の文明開化で変貌したところと、江戸時代の面影を残しているところが描かれていて、いろいろと見どころが多い地図だと思います。

大阪市のホームページによると、朝陽館で作られた藍は欧米各地に輸出され、明治10~11年ごろ最盛期を迎えましたが、明治16年には、輸入品におされ閉鎖されたとあります。明治18年の地図に藍製造所が記載されていますので、朝陽館の実情と地図上での表記とが2年程度ずれています。


やっと明治18年まで来ましたが、長くなりましたので「その1」はここまでとします。
「その2」はこちらからどうぞ。 



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