2016年9月26日月曜日

今週の今昔館(26) 20160926

〇今昔館のあまり知られていない展示(その16)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の6回目は、こちらの写真です。
 風呂屋にあります。何という名前でしょうか?

 また、入り口が低くなっていますが、なぜ、このような形をしているのでしょうか。


 答えは「柘榴口(ざくろぐち)」。この奥に浴槽があります。入り口が低くなっているのは、湯気が外に逃げないようにするためです。江戸時代の風呂は、今でいえばサウナのような蒸し風呂方式でした。少しの水と燃料でこと足りる蒸し風呂は効率が良く、世界各地で見られる入浴方法です。

 「柘榴口」とは変わった名前ですが、名前には由来があります。デジタル大辞泉の解説によると、《鏡磨きにザクロの酢が必要とされたところから、「鏡要る」に「屈み入る」をかけて出来た名》といわれ、江戸時代の風呂屋で、洗い場から湯ぶねへの出入り口。湯の冷めるのを防ぐために、洗い場と湯ぶねとの間に、下部をあけて板を張り、からだをかがめて出入りするようにした所。とあります。

 また、今昔館に再現された柘榴口は、唐派風のこけら屋根、朱塗りの派風板、欅(けやき)の柱に一枚板の羽目板の造りになっています。これには、ちゃんと根拠となる資料があります。「守貞謾稿」に紹介されている「大坂の浴戸」には、柘榴口の図があり、詳しく説明が書かれています。

「守貞謾稿」に紹介された「大坂の浴戸」

 次の図は、谷町糸屋町筋松尾町にあった勇湯の内部です。大坂の風呂屋を描いた数少ない資料の一つで、天保初年ごろとされています。今昔館の風呂屋は、こうした資料に基づいて再現されています。名前は「天神湯」、当主は天満屋与兵衛、家紋・店印は梅鉢、家族は5人、奉公人1人という設定になっています。

勇湯の内部(天保初年ごろ)

 今昔館の風呂屋の内部。手前が脱衣場、奥が洗い場、柘榴口を潜って浴槽に入ります。天保初年ごろ、湯銭は、大人8文、子供6文、乳飲み子4文、肌を磨く糠袋が3文でした。
今昔館の風呂屋の内部

 風呂屋は町の社交場でもありました。洗い場の壁には、芝居興行の広告、店の引き札などが張られていました。現代のポスターと同じです。
 今昔館の風呂屋「天神湯」について、お風呂アドバイザー おかきた'まりさんが、ブログ「洗いの殿堂」で紹介していただいています。



〇今週のイベント・ワークショップ

9月26日、28日~30日、10月1日、3日、5日~8日、10日、12日~15日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

10月2日、9日、16日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


10月2日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

10月8日(土)
ワークショップ 『和風マグネットを作ろう』

①13時30分 ②14時30分
各回先着10名、参加費:300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

10月9日(日)
町家衆イベント おじゃみ

古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00~16:00

10月9日(日)
イベント 子ども落語大会 於:天満天神繁昌亭
9/11(日)に開催の、第11回子ども落語大会の入賞者が天満天神繁昌亭の舞台に立ちます
10時~12時 観覧無料
場所 天満天神繁昌亭
(大阪市営地下鉄 谷町線・堺筋線南森町駅、JR東西線大阪天満宮駅④B出口から徒歩3分)

10月15日(土)
町家衆イベント 折り紙(有料)

季節に合わせてさまざまな折り紙をお教えします。
作品は持ち帰っていただきます。
開催日:偶数月の第3土曜
時 間:13:30~15:00

10月16日(日)
イベント 町家でお茶会

町家の座敷で「ほっと一息」一服いかがですか
先着順50名、茶菓代300円
※当日10時30分より8階ミュージアムショップでお茶券を販売します
協力:大阪市役所茶道部
13時~15時

10月16日(日)
町家衆イベント 今昔語り

大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。
あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
開催日:お茶会と同日
時 間:14:30~15:00

10月16日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年9月19日月曜日

今週の今昔館(25) 20160919

〇今昔館のあまり知られていない展示(その15)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の5回目は、こちらの写真です。
 大坂町3丁目では一番大きなお店です。何屋さんでしょうか?
 また、「ウルユス」という名前の由来は何でしょうか?



 答えは薬屋(合薬屋)です。名前の由来は、「体内の毒を空にする」という意味の「空ス」の「空」の字を3つに分割して「ウルユ」とし、スを付けて「ウルユス」としたもので、オランダ語めかした名前としたとされています。もともと薬の名前ですが、「ウルユス」という薬を扱う店=ウルユス店としても親しまれていたようです。

ウルユス店の店内


 合薬屋の置き看板です。漆塗りの重厚な造りとなっています。
ウルユスの置き看板
ウルユスの置き看板と「ウルユス」


 嘉永2年(1849)刊の「二千年袖鑑」に描かれた肥後屋健寿堂の店頭。ウルユスの効能書が暖簾に染め抜かれています。屋根看板も彫りを施した立派なものとなっています。大坂淡路町心斎橋西に実在し、「ウルユス」という薬を製造・販売し、江戸・京都・名古屋にも出店を持つ有名な薬屋でした。こうした資料に基づいて、町並みが再現されています。

肥後屋健寿堂の店頭
ウルユス店の暖簾と屋根看板
ウルユス店の暖簾
ウルユスの屋根看板

 ウルユス店は江戸時代に実在した店で、浪華名所獨案内にも淡路町心斎橋に描かれています。西御堂(北御堂)にも近く、モデル観光ルートにも入っています。
浪華名所獨案内のウルユス店


〇着物体験の利用料金改定について
 2016年9月10日より、着物体験の利用料金が、お一人様1回につき500円となっています。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://konjyakukan.com/topic.html#20160827




〇今週のイベント・ワークショップ

9月22日~24日、26日、28日~30日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

9月19日、25日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


9月22日(木・祝)
町家衆イベント ワークショップ「パタパタを作ろう」

①13時~ ②14時30分~
当日先着各回10名、参加費400円
*当日10時より8階受付で参加整理券を販売します
講師:大阪くらしの今昔館 町家衆

9月24日(土)~25日(日)
イベント 彼岸の屋台

落語にある見世物小屋を再現した「見世物小屋」に「のぞきからくり」や「宝引き」など・・
お祭りは大人も子どもも楽しめます。
時 間:13:00~16:00

9月24日(土)~25日(日)
ぜんざい

11時から、100円/1杯 (無くなり次第終了)

9月24日(土)
ワークショップ 『お月見団子作り』

先着15名、参加費:300円
*当日10時より8階受付で参加整理券を販売します。
13時30分~15時

9月25日(日)
町家衆イベント 絵本で楽しい時間

むかし話などの絵本を表情豊かに読み聞かせます。
じっくりとお聞きください。
開催日:第4日曜
時 間:14:30~15:00

10月2日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

10月8日(土)
ワークショップ 『和風マグネットを作ろう』

①13時30分 ②14時30分
各回先着10名、参加費:300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

10月9日(日)
町家衆イベント おじゃみ

古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00~16:00

10月9日(日)
イベント 子ども落語大会 於:天満天神繁昌亭
9/11(日)に開催の、第11回子ども落語大会の入賞者が天満天神繁昌亭の舞台に立ちます
10時~12時 観覧無料
場所 天満天神繁昌亭
(大阪市営地下鉄 谷町線・堺筋線南森町駅、JR東西線大阪天満宮駅④B出口から徒歩3分)


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年9月12日月曜日

今週の今昔館(24) 20160912

〇展示替えについて
 9月10日(土)からは、「商家の賑わい」の展示となりました。
 江戸時代の大坂の店先を再現し、当時の賑やかな商家の様子を楽しめます。



 なお、9月10日からは通常通り、毎週火曜日と第三月曜日が休館日となります。
 9月は、13日、20日、27日の火曜日と、21日(水)が休館となります。
 第三月曜日19日は祝日のため開館しますので、21日(水)が休館となります。
 9月のカレンダーは、こちらでご確認ください。
http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=201609



〇着物体験の利用料金改定について
 2016年9月10日より、着物体験の利用料金が、お一人様1回につき500円となっています。ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
http://konjyakukan.com/topic.html#20160827




〇今昔館のあまり知られていない展示(その14)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の4回目は、こちらの写真です。
 写真のねこは今昔館のどこにいるかご存じでしょうか?
 ほかにどんな動物がいるかご存知でしょうか?



 答えは「小間物屋の屋根の上」です。ねこのほかには、犬、にわとり、ネズミ、スズメ、やもり、とんぼ、せみなどがいます。このほか、ツバメの巣や、ハチの巣などもあります。

小間物屋の屋根の上の猫
祠・裏長屋に通じる路地
「てん」ちゃんと「ろく」ちゃん

 祠と裏長屋に通じる路地(ろおじ)にいる親子の犬は、写真の撮影スポットとしても有名で、名前も「てん」ちゃん、「ろく」ちゃんと命名されました。合わせると「てんろく(天六)」となります。
 こちらはツバメの巣です。どこにあるか探してみてください。

 大阪くらしの今昔館は住まいの専門博物館というテーマ性を持っている点に加えて、知的な情報を遊び心で読み解く「知的娯楽装置=アミュージアム」という特徴を持っています。
 このため、今昔館は、学問的な裏付けをしっかり持った展示監修による本物の空間と、一般の人々の目の高さに立って読み解いた、遊び心を刺激する体感・納得型の展示装置の2つを兼ね備えています。


 今昔館では、一般向けのリーフレットのほかに、小学校低学年用と高学年用の2種類の子ども用リーフレットを用意し、楽しみながら学べる仕掛けをご用意しています。
 

 
〇今週のイベント・ワークショップ

9月12日、14日~17日、22日~24日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

9月18日、19日、25日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


9月17日(土)
イベント 上方の華と粋 座敷舞

上方の地で生まれ育った「上方舞」
山村流の立方が町家の座敷で華やかな舞を披露します
舞い方:山村若祿之 他
14時~15時


9月18日(日)
町家衆イベント 今昔語り

大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。
あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
開催日:お茶会と同日
時 間:14:30~15:00

9月18日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
時 間:13:00~16:00


9月18日(日)
町家衆イベント 連鶴

折鶴がいくつもつながった連鶴。
一枚の紙から折るところに特色があります。
作り方を詳しくお教えします。
開催日:奇数月の第3日曜
時 間:14:00~15:30

9月18日(日)
イベント 町家でお茶会

町家の座敷で「ほっと一息」一服いかがですか
先着順50名、茶菓代300円
※当日10時30分より8階ミュージアムショップでお茶券を販売します
協力:大阪市役所茶道部
時 間:13時~15時

9月22日(木・祝)
町家衆イベント ワークショップ「パタパタを作ろう」

①13時~ ②14時30分~
当日先着各回10名、参加費400円
*当日10時より8階受付で参加整理券を販売します
講師:大阪くらしの今昔館 町家衆

9月24日(土)~25日(日)
イベント 彼岸の屋台

落語にある見世物小屋を再現した「見世物小屋」に「のぞきからくり」や「宝引き」など・・
お祭りは大人も子どもも楽しめます。
時 間:13:00~16:00

ぜんざい
11時から、100円/1杯 (無くなり次第終了)

9月24日(土)
ワークショップ 『お月見団子作り』

先着15名、参加費:300円
*当日10時より8階受付で参加整理券を販売します。
13時30分~15時

9月25日(日)
町家衆イベント 絵本で楽しい時間

むかし話などの絵本を表情豊かに読み聞かせます。
じっくりとお聞きください。
開催日:第4日曜
時 間:14:30~15:00



そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年9月8日木曜日

第1回大阪市パノラマ地図検定解説編

大阪市パノラマ地図検定の解説編です。

(第1回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は 当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。

※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 昭和30年には何があったでしょうか?手前の川は現在どうなっているでしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 煙草専売局工場 

B なんばパークス
C 難波御蔵(江戸幕府直轄の米蔵)
D 昭和25(1950)年には大阪スタヂアム(大阪球場)が完成し、
  プロ野球の南海ホークスが本拠地としていました。

  手前(西側)の川は難波入堀川(難波新川)で、昭和33(1958)年 に埋め立てられました。
  現在は上部を阪神高速道路が高架で走っています。
  東側を走っている鉄道は南海鉄道(現在 の南海電気鉄道)です。


浪華名所獨案内の難波付近(上が東)
天保8年発行天保新改攝州大阪全圖の難波 付近(上が北) 
上図は天保年間発行の浪華名所獨案内と、天保8年発行の天保新改攝州大阪全 圖の難波付近。江戸時代の大坂は江戸と異なり大半が町人地で武家地は少なかった。大坂は幕府の直轄地であり、武家地は奉行所、城代屋 敷、蔵、与力・同心の住まいなどに限られていました。
そのうち、難波御蔵は、享保の大飢饉を機に享保17(1732)年に新た に設置され、翌年に道頓堀川と難波御蔵を結ぶ難波入堀川が開削されました。入堀で汚濁が激しく不衛生だったため、明治に入って鼬川( いたちがわ)まで延長開削されましたが、昭和33(1958)年に埋め立てられました。
難波御蔵の跡地は、明治37(1904 )年にたばこ製造が専売となり、煙草専売局工場が建設されました。戦災により壊滅した後に1950年からは大阪球場として利用されま した。福岡ダイエーホークスとなった1988年以降は住宅展示場などとして利用され、1998年に解体されました。現在は、再開発さ れてなんばパークスとして利用されています。江戸時代の武家地が、様々に用途転用され利用されてきた典型例と言えます。

なお、第3回大阪検定(2011年度)1級第21問に以下の問題が出題されました。
1950年(昭和25年)、大阪市内で初め ての本格的なプロ野球場である大阪球場がミナミに誕生しました。大阪球場が建設された場所は、戦争中、空襲により焼失するまで、何が あったでしょう?
 ①軍需工場 ②鉄道工場 ③たばこ工場 ④ビール工場

※正答率は63%でした。


 大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアに、大阪市パノラマ地図を拡大して床面に 展示していますので、じっくりとご確認ください。

 大阪市パノラマ地図についてはこちらをどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/08/blog- post_29.html



(第1回 第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は 当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。

※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 地図の駅舎は何代目でしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪梅田停車場

B サウスゲートビルディング(四代目大阪駅「アクティ大阪」に増築)
C 曽根崎村の田圃,菜の花畑か低湿地帯、すぐ西は梅田墓
D 地図に描かれている駅舎は二代目駅舎で、
  明治34(1901 )年から昭和10(1935)年まで利用された。


浪華名所獨案内の梅田付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の梅田付近(上が北 )
 大阪駅は、1874年(明治7年)に大阪~神戸間の鉄道開業とともに開業 しました。当時の駅舎はゴシック風の赤煉瓦造り2階建てで、現在の場所より西の大阪中央郵便局付近に当たる所にあり、周辺は民家がわ ずかにあるだけで田圃が広がっていました。駅のある場所は1889年(明治22年)の市制施行時における大阪市域にも含まれず、18 97年(明治30年)まで西成郡曽根崎村に属していました。

明治18年新版大阪細見全図の梅田ステー シヨン

 当初の計画では市街地に近い堂島付近に頭端(ターミナル)式で建設される 予定でしたが曽根崎村の梅田に変更されました。その理由は、将来東へ線路が延伸された際に京都~神戸間の直通運転に都合が良いよう、 従前の日本のターミナル駅のような頭端式を採らず、通過式の駅構造にするためだと言われています。
 開業当初、大阪駅は「梅田駅」「梅田ステーション」「梅田すてんしょ」などと呼ばれていましたが、阪神・阪急や貨物駅の梅田駅が開 業すると、次第に大阪駅のことを「梅田駅」と呼ぶことはなくなりました。

明治28年大阪市明細図の梅田停車場

 当初は貨物輸送の比重が大きく、水運の便を図るため堂島川から駅の南西まで梅田入堀川(堂島堀割川)が開削されました。しかし、旅 客輸送が次第に増大すると入堀のある狭小な駅前では手狭となり、大阪市電の乗り入れ計画に合わせて十分な駅前広場を確保すべく190 1(明治34)年7月にゴシック風石造りの二代目駅舎が完成し、最初の駅舎の位置から東の現在地に移転されました。これが、パノラマ 地図に描かれている駅舎になります。なお、貨物の取扱いに関しては1928年(昭和3年)12月1日に新設された梅田駅に全面移管さ れ、梅田入堀川も北東へ延伸されました。
明治44年大阪市街全図の大阪駅周辺
最新大大阪市街地図(昭和10年)の大阪 駅周辺


 1935年(昭和10年)に二代目駅舎が解体され、仮駅舎が建設されました。1940年(昭和15年)6月に三代目駅舎が2階まで 完成し供用が開始されました。当初の予定では5階建てのビルで、中央に5階分の高さの吹き抜けを設け、上層階は1940年東京オリン ピックに合わせて鉄道ホテルとして供用される予定でした。1943年(昭和18年)に三代目駅舎(3階建てコンクリート造り)が完成 しました。中央の吹き抜け部分を除き、4・5階部分の鉄骨は切断し軍に供出されました。

 その後1983年(昭和58年)4月27日に四代目駅舎となる大阪ターミナルビル「アクティ大阪」が開業しました。さらに、201 1年(平成23年)5月4日に五代目駅舎と大阪ステーションシティ(サウスゲートビル、ノースゲートビル)が開業しました。

 大阪市パノラマ地図はちずぶらりさんから、浪華名所獨案内は二つ井戸津の清さんから、その他の地図は国際日本文化研究セン ターさんからお借りしました。



(第1回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は 当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。

※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 地図の塔はその後どうなったでしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 初代通天閣 

B 少し北に二代目通天閣 (1956年(昭和31年)に完成) 
C 明治36年(1903年)の第5回内国博覧会以前は荒地
D 初代通天閣は1912年(明治45年)から1943年(昭和18年)ま で。
  火事になったのちに、鉄材は戦時中に軍に供出となった。


浪華 名所獨案内の天王寺・今宮付近(上が北) 
天保新改攝州大阪全圖の天王寺・今宮付近 (上が北)

 上の2枚の地図は江戸時代天保年間の天王寺・今宮付近ですが、このあたり は明治36年に第5回内国博覧会が開催される以前は大阪の市街地南部に広がる荒地でした。
 当時の大阪商業会議所会頭・土居通 夫は、1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会誘致において、東京との激しい招致合戦に勝利し、パリに飛びパリ万国博の仕組 みを詳細に調査して成功に導きました。土居はこの博覧会の終了後、跡地に新世界ルナパーク、パリのエッフェル塔を真似た通天閣の建設 を構想しました。周囲の猛反対を押し切って、パリの凱旋門にエッフェル塔の上半分を乗せたような初代通天閣が1912年(明治45年 )7月3日にルナパークと共に建設されました。設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、入場料は10銭。300尺(91メー トル)という触れ込み(実際は250尺/約75メートル)で、その当時東洋一の高さを誇っていました。「通天閣」とは、「天に通じる高 い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳です。
 通天閣は、ルナパークのホワイトタワーと「ロープ・ウエィ」で結ばれており、人々に親しまれていました。大阪で2番目(非貨物専用 としては最初)の昇降機が設置され評判となりました。現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期があり(1920 年(大正9年)に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」でした。
 太平洋戦争中の1943年(昭和18年)1月16日に直下にあった映画館・大橋座の火災で通天閣の脚部が加熱により強度不足となり ました。そのため、鉄材を軍需資材として供出するという名目で同年2月13日から塔は解体され、初代通天閣は姿を消しました。
 現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完成しました。避雷針を含めた高さは103m(塔自体の高さは100m)。設 計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔、東京タワーなどを手がけた内藤多仲。建設を施工したのは奥村組です。
 二代目の通天閣は、入場ゲートや展示スペースなどを設けた低層階(地下1階~2階)と、展望台などのある高層階(3階~5階)で本 体を構成。入口と2階を往復するエレベーター(低層エレベーター)と、展望台のある4・5階と2階を往復するエレベーター(展望エレ ベーター)を別々に稼働させています。このような構造のため、入場者が入口から展望台へ向かう場合には、基本として2階で低層エレベ ーターから展望エレベーターに乗り換える仕組みになっています。
 2014年10月から2015年6月まで免震工法による耐震改修工事(免震化工事)を実施。2015年7月3日には、エントランスで竣工式が開催されました。耐震化工 事では、脚部の基壇部に耐震装置とオイルダンパーを埋め込んでから、基壇部の上部(地上約12m)にある八角形状のエントランス大天 井に、初代通天閣のエントランスに掲出されていた地元の化粧品メーカー・中山太陽堂(現在のクラブコスメチックス)のクジャクの天井 画の広告を再現した「花園に遊ぶクジャク図」を設置し、竣工式の際に初めて一般に公開されました。



(第1回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は 当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の
天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。

※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 地図の五重塔は木造?鉄筋コンクリート?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 四天王寺五重塔(1812年(文化9年)再建の 木造)

B 四天王寺五重塔(1959年(昭和34年)再建の鉄筋コンクリート造)
C 大阪市パノラマ地図の五重塔と同じ五重塔があった
D 1812年(文化9年)再建の五重塔は1934年(昭和9年)の室戸台 風で倒壊、
  1941年(昭和16年)に再建されるが、1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。


浪華 名所獨案内の四天王寺付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の四天王寺付近(上 が北)

 四天王寺は、推古天皇元年(593年)に建立されました。今から1400 年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の 不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する 」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
 その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形 式で、日本では最も古い建築様式の一つです。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6~7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様 式とされています。

空から見た四天王寺(国土地理院)

 明治以後の四天王寺は、まず、明治維新の神仏分離令により、それまで四天 王寺に所属していた神社が離され、厳しい状況に置かれましたが、人々からは依然として庶民信仰の寺・お太子さまの寺として深い信仰を 受け、諸行事は従来どおり行われました。
 昭和9年(1934年)9月21日、近畿一円を襲った室戸台風によって五重塔が倒壊、金堂は傾斜破損、仁王門(中門)も壊滅するな ど、境内全域が相当な被害を被りました。昭和15年(1940年)、努力のすえに五重塔が再建されましたが、それも束の間、昭和20 年(1945年)の大阪大空襲により、六時堂や五智光院、本坊方丈など伽藍の北の一部の建物を残し、境内のほぼ全域が灰燼に帰してし まいました。
 しかしこの時も、各方面の人々の協力を得て復興への努力がなされ、昭和38年(1963年)には伽藍が、昭和54年(1979)に は聖霊院奥殿・絵堂・経堂が再建、その他の建物も次々に再興され現在ではほぼ旧観に復しています。さらに、戦後間もなく太子創建の寺 であることから天台宗から独立し、和宗を創立。四天王寺はその総本山として、仏法興隆と太子精神の高揚を本願とする寺として再生いた しました。
 聖徳太子が四天王寺を建てられるにあたって、「四箇院の制」をとられたことが『四天王寺縁起』に示されています。四箇院とは、敬田 院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)の4つのことで、敬田院は寺院その ものであり、施薬院と療病院は薬局・病院にあたり、悲田院は病者や身寄りのない老人などのための社会福祉施設にあたります。
 たび重なる戦火や災害に見舞われ、多くが焼失しましたが、現在の建物は創建当時(飛鳥時代)の様式を忠実に再現しており、古代の建 築様式が今に残るのは貴重といえます。
 総面積3万3千坪(約11万平方メートル)。甲子園球場の三倍の広さを有する境内には四天王寺式伽藍のほか、聖徳太子の御霊を崇る 聖霊院(太子殿)があり、創建当時の品々など500点あまりの国宝・重要文化財を所蔵する宝物館もあります。日本庭園の「極楽浄土の 庭」にたたずむと、都会にありながら喧騒とは無縁の世界が広がります。新西国三十三観音霊場第一番など多くの札所にもなっています。 お太子さまをしのんで毎年4月22日に催される聖霊会舞楽大法要では、重要無形民俗文化財の天王寺舞楽が披露されます。毎月21日の 大師会と22日の太子会は四天王寺の縁日で、露店も多く並び庶民の太子信仰の寺としての姿勢を貫いています。(四天王寺ホームページ より)



(第1回 第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は 当時 何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があった でしょうか?

D この地図について、自由にコメントしてください。

※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 4つの橋にはそれぞれ名前があります。

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 四ツ橋

B 長堀通(旧長堀川)と阪神高速1号環状線(旧西横堀川)の交差点
C 木橋の四ツ橋が架かっていた。
D 4つの橋は北に上繋橋、南に下繋橋、東に炭屋橋、西に吉野屋橋。
  地下鉄路線名は「四つ橋筋」、駅名は「四ツ橋」。
  四ツ橋交差点にはミニ四ツ橋(モニュメント)が作られている。


浪華 名所獨案内の四ツ橋付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の四ツ橋付近(上が 北)

 四ツ橋(よつばし)は、「堀川の十字交差部(大阪市内に唯一存在した)」 に、架橋されていた4つの橋を一括して称した名称、およびその周辺の地域の通称。その後、堀川は埋め立てられたため現在は交差点名や 駅名として残存しています。
 四ツ橋は、昔から、建物が建て込んだ都心部の中の貴重な開けた部分だったので、よく散歩コースとして市民に親しまれ、また大阪名所 ・観光名所として写真が絵はがきにも多く用いられました。

 もともとは、長堀川と西横堀川(両方とも埋め立てられた)が交差する地点に「ロ」の字型に架けられていた4つの橋の愛称です。道路 、水路、市電にとっての重要な交通の要所でした。
・上繋橋(かみつなぎばし)西横堀川に架かる北の橋。1964年(昭和39年)撤去。
・下繋橋(しもつなぎばし)西横堀川に架かる南の橋。1964年(昭和39年)撤去。
・炭屋橋(すみやばし)長堀川に架かる東の橋。1970年(昭和45年)撤去。島之内西端の旧町名「炭屋町」に由来。
・吉野屋橋(よしのやばし)長堀川に架かる西の橋。1970年(昭和45年)撤去。北堀江東端の旧町名「吉野屋町」に由来。

摂津名所図会の四ツ橋

 現在「四ツ橋」は長堀通と四つ橋筋の交差点名となっています。本来の四ツ橋は、長堀川と西横堀川の交差部、つまり、長堀通と阪神高 速1号環状線北行きの交差部なので、四ツ橋交差点は本来の四ツ橋の位置より少し西側にずれている事になります。なお、四ツ橋交差点の 位置で長堀川に架けられていた橋は「西長堀橋」です。
 交差点の東側、長堀通の中央分離帯にはミニ四ツ橋のモニュメントと案内板があります。長堀通の中央部、阪神高速道路の東側には、江 戸時代中期の俳人小西来山と上島鬼貫が詠んだ句碑が建っています。上島鬼貫の句は「後の月 入て貌よし 星の空」で、小西来山の句は「 涼しさに 四ツ橋を四ツ わたりけり」となっています。



 また、日本初の国産ダイヤモンドクロッシング(軌道の交差点)が設置されたのもこの交差点です。大阪市電の東西線と南北線と いう2つの重要路線がクロスしていましたが、昭和36(1961)年に東西線、昭和38(1963)年に南北線が廃止されたことによ り撤去されました。

四ツ橋電車交叉点(大阪府写真帖)

 橋の北西角、交差点の北東角には、東洋初のプラネタリウムが置かれた大阪市立電気科学館が昭和12年(1937年)に完成し、四ツ 橋のシンボルとなっていましたが平成元年に廃止となり、取り壊されて、現在はヴィアイン心斎橋長堀通を主テナントとする大阪市交通局 所有の複合ビル「ホワイトドームプラザ」となっています。ビルの外観は、屋上部分がドーム状に造られるなど、大阪市立電気科学館を模 しています。
 昭和40年(1965年)には、大阪市営地下鉄四つ橋線の四ツ橋駅が完成します。名前の表記について、「四ツ橋」と「四つ橋」が使 い分けられています。地名(橋名・交差点名・駅名)は、「四ツ橋」「四ツ橋駅」とカタカナの「ツ」、線名(道路名・地下鉄路線名)は 「四つ橋筋」「四つ橋線」とひらがなの「つ」となっています。これは、道路を管理していた市の土木局(当時)と、交通事業(市電に四 ツ橋の電停があった)を管理していた電気局(当時)が、監督官庁に別の表記で届け出たことに原因があると言われています。さらに、地 下鉄路線名は通過する街路の名前(四つ橋筋)に合わせたのに対して、駅名は地名を採用したという結果、「地下鉄四つ橋線の四ツ橋駅」 のような表記になっています。
四ツ橋の今昔については、こちらもご覧ください。



(第1回 第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。


※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 本町の南で川が曲がっているのはなぜでしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪府立商品陳列所

B マイドームおおさか、大阪商工会議所、シティプラザ大阪
C 大坂西町奉行所
D 1724年(享保9年)の妙知焼けにより京橋口にあった東西両奉行所の うち
  西町奉行所のみが当地に移転した。
  東横堀川は本町橋~農人橋 間でS字にカーブを描き、
  一区画分(約40間)東へ折れ曲がっている。
  これは開削時にあった浄国寺という寺院を 避けたためと言われている。
  水流が急になるために水難事故が絶えなかったことから、
  付近の住民らで水難よけの曲 り淵地蔵尊を祀った。現在でも小さな祠が残っている 。
  また、この「本町の曲り」は上方落語「饅頭こわい」にも登場する。


浪華 名所獨案内の内本町付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の内本町付近(上が 北)

 商品陳列所のあったこの場所(本町橋の東詰)は、大阪にとって由緒のある 土地です。
 豊臣秀吉の時代には東横堀川が大坂城の外堀であり、この地は惣構(そうがまえ)の一画でした。江戸時代に入ると、 このあたりは幕府の米蔵屋敷のひとつとなり、「浜の御蔵」と呼ばれました。大坂城に運ばれる米の一部は東横堀川を遡って、ここへ運ば れたといいます。江戸時代中期には、米蔵から塩や味噌を貯蔵する「御塩噌蔵」となりましたが、1724年(享保9年)の大火(妙知焼 け)で焼失してしまいます。
 西町奉行所は、現大手前合同庁舎の位置に東町奉行所と並んで1619年(元和5年)に設置されて いましたが、妙知焼けにより焼失したため、西町奉行所のみがこの地に移転しました。敷地面積は、9,600平方メートルにも及びまし た。以降、1868年(明治元年)に廃止されるまでの約140年にわたり、西町奉行所がこの地にありました。


 1868年(明治元年)の明治維新により、奉行所は廃止され、大阪裁判所となりました。その後、同年5月、初代大阪府庁が置 かれました。庁舎は、西町奉行所の建物がそのまま使用されました。


 1874年(明治7年)に大阪府庁が江之子島へ移転した跡地に、「大阪博物場」が1875年(明治8年)設立されました。
 その後の1878年(明治11年)には、府立教育博物館を併合し、産業見本市、図書館、博物館、美術館、動物園、植物園、舞台、 公園がミックスした総合産業文化施設となりました。
府立大阪博物場案内図

 大阪府立商品陳列所は、1890年(明治23年)に北区堂島に創立されましたが、1909年(明治42年)の北区の大火災「 北の大火」により、陳列所が類焼してしまいます。商品陳列所を再建するにあたり、1917年(大正6年)3月15日に堂島から本町橋 東詰のこの地へ移転しました。大阪市パノラマ地図には、このときの商品陳列所が描かれています。
大阪府立大阪商品陳列所 外観

 1930年(昭和5年)1月1日 大阪府の産業行政機関整備・強化のため、「大阪府立商品陳列所」は名称を「大阪府立貿易館 」と改められました。
 その後の1943年(昭和18年)3月には、戦時体制の下、大阪府立貿易館・大阪市貿易課・大阪商工会 議所貿易課が行ってきたすべての貿易関係業務を集約し、南方資源調査などに当たることとなり、「大阪南方院」と改称されます。
 戦後の1945年(昭和20年)12月31日、大阪南方院は解散され、翌1946年(昭和21年)1月1日、大阪府立貿易館が復活 しました。商品陳列所以来97年の歴史を持つ大阪府立貿易館は、1987年(昭和62年)11月、廃止されました。
 また、1948年(昭和23年)から1985年(昭和60年)にかけては、貿易館に附設された大阪高等貿易講習所、改称され て大阪府立貿易専門学校としても利用されました。

 現在、商品陳列所のあった地には、大阪商工会議所、マイドームおおさか、シティプラザ大阪が立地 しています。
左から、大阪商工会議所、マイドームおお さか
シティプラザ大阪
 今回の解説は、マイドームおおさかの管理運営を行っておられる公益財団法人 大阪産業振興機構さん のホームページを参考にさせていただきました。


(第1回 第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。


※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 タンクの左の川は現在どうなっているでしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪瓦斯会社(大阪ガス岩崎町工場)

B 大阪ドームシティおよびドームシティーガスビル
C 九条村に属する寺嶋田地、岩崎新田
D 大阪ガスの発祥の地でここから大阪市内(3200戸余)へガス供給を開 始したのは、
  1905年(明治38年)。
  発電所との間の川は尻無川で、現在は埋め立てられ、その上に大阪ドーム シティが建っています。
  この川を挟んで東西に瓦斯と電気の発祥の地があり、大阪の近代産業のルーツとなっている点は
  興味深いです。


浪華 名所獨案内の九条付近(上が東)
天保新改攝州大阪全圖の九条付近(上が北 )
明治42年、昭和30年、昭和42年地形 図と地理院地図に見る千代崎付近(今昔マップ3)

 大阪ガスさんのHPによると、設立は、明治30(1897)年4月10日 、資本金35万円をもって大阪市西区に設立。明治38(1905)年10月19日、ガスの供給を開始。お客さま数は3,351戸。
 創業の地・大阪市西区には記念碑が建立されており、また京セラドーム大阪そばにドームシティーガスビルが建設されています。

 「発祥の地コレクション」によると、大阪市西区千代崎3丁目の地下鉄長堀鶴見緑地線・大阪ドーム千代崎駅の南100m、大阪 ドームのメインエントランスに通じる通路の角に自然石に「大阪ガス発祥の地」と刻まれた記念碑が建つ。ここは 都市ガスを大阪市内に初め て供給した 大阪ガス発祥の地。
 1997(平成9)年にオープンした“大阪ドーム”は, 都市ガスの天然ガス化の流れの中で, 余 剰となったガス工場(岩崎町工場)の土地を転用して造られた。


 碑文には、大阪ガス発祥の地 明治38年(1905年)10月19日 この地に建設された「岩崎町工場」から大阪市内の3200戸余 のお客さまに初めてガスの 供給が開始された。この当社発祥の地が今や大阪の文化 情報の発信拠点として大きく生まれ変わることを記念 しこの石碑を建立する。平成9年3月 大阪ガス株式会社 とあります。


(第1回 第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。


※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 手前の川の名前は?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。



解答と解説
A 
大阪 控訴院(大正5年(1916年)に完成、「赤煉瓦」と呼ばれた三代目)
B 大阪高等地方簡易裁判所
C 佐賀(鍋島)藩大坂蔵屋敷
D パノラマ地図には、大正5(1916)年に完成、「赤煉瓦」と呼ばれて 親しまれた三代目庁舎が描かれ
  ている。手前の川は大川が中之島によって2つに分かれ、北側の堂島川。


浪華 名所獨案内の西天満付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の西天満付近(上が 北)
明治41年、昭和4年、昭和42年の地形 図、地理院地図に見る西天満付近(今昔マップ3)

 1875年(明治8年)東京・大阪・長崎・福島に上等裁判所が設置されま した。大阪上等裁判所は土佐堀4丁目に設置されました。1881年(明治14年)控訴裁判所に、1886年(明治19年)には控訴院 に改称されました。
 1890年(明治23年)4月、大阪市北区絹笠町・真砂町・若松町合併地(鍋島・津軽両藩蔵屋敷跡)に、 れんが造り3階建ての大阪控訴院・大阪始審裁判所合同庁舎が完工しました。


 初代赤れんがの合同庁舎は、1896年(明治29年)、大阪控訴院から出火して焼失し、1900年(明治33年)4月、焼失 した庁舎跡に新庁舎が落成したものの、この2代目庁舎も、1909年(明治42年)7月のいわゆる北の大火災(天満焼け)により、類 焼して焼失しました。

 1916年(大正5年)5月、焼失した庁舎跡に、れんが造り銅板葺きで、中央に高さ36メートルの青銅ドームをいただく高塔 建物である3代目の庁舎が竣工し、「赤れんが」の愛称とともに、大阪の代表的点景として市民に親しまれました。大阪市パノラマ地図に 描かれている控訴院はこの建物です。

 写真は大阪地方検察庁さんのHPからお借りしました。


(第1回 第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。


※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 高等工業学校は現在どういう学校になっていますか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 
高等 工業学校(大阪工業学校)
B 大阪市立東高等学校およびNTT西日本大阪研修センター等NTT関連施 設
C 網島村の近郊農村
D 高等工業学校は昭和4年に大阪工業大学、昭和8年に大阪帝国大学工学部 、
  昭和22年に大阪大学工学部、昭和45年に吹田キャンパスに移転。


浪華 名所獨案内の桜ノ宮付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の桜ノ宮付近(上が 北)

 大阪大学が地域と深い係わりを持ちながら発展してきたように、工学部もそ の母体である大阪工業学校以来、大阪の地域社会や地場産業とともに発展・拡充してきました。
 本学部の歴史は、明治29年(1 896)大阪市北区玉江町に大阪工業学校が創設されたことに始まります。商業はもちろん、紡績・造船などの工業においても急速な発展 を遂げつつあった大阪は、官民あげて工業学校の設立に取り組みました。この時から数えて、平成8年(1996)には創立100周年を 迎えました。
 明治34年(1901)大阪高等工業学校と改称、大正11年(1922)大阪市都島区東野田に移転完了。昭和4 年(1929)には、大阪工業大学として発足。昭和6年(1931)に大阪帝国大学が発足したのを機に、2年後には大阪工業大学も大 阪帝国大学に編入され、大阪帝国大学工学部になりました。当時は6学科でのスタートでしたが、その後も産業界の要求と将来の発展性を 見越して、精密、通信、溶接など他の帝国大学にない学科を次々に設置し、現在の工学部の基礎を固めてきました。
 第二次世界大 戦で校舎の大部分を焼失したものの、昭和22年(1947)に大阪大学工学部に名称を変更、昭和24年には新制大学のもとに再スター トを切りました。以降、組織や施設の拡充を行い、昭和45年(1970)に、現在の吹田市山田丘の吹田キャンパスに移転を完了しまし た。吹田キャンパスは、今も国立大学の中でも有数の教育環境だと評価されています。以上、大阪大学工学部のホームページより引用させ ていただきました。写真3点と地図1点もお借りしました。
 大阪市パノラマ地図には、大正11年に東野田への移転が完了した直 後の様子が描かれていることになります。



(第1回 第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所は当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図について、自由にコメントしてください。


※Dの自由なコメントが浮かばない方は、下記のヒントにお答えください。
 市電廃止の後にできた地下鉄は何線と何線?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 
北市 民館(当初大阪市立市民館)
B 住まい情報センタービル
  (大阪市立住まい情報センター、大阪くらしの今昔館、 三井住友銀行天六支店等)
C 天神橋筋の北のはずれの農地等
D 北市民館はツタで覆われていた 。このツタは、初代の志賀館長が淀川善燐館の館長S・F・モラン
  から贈られたツタで「愛のツタ 」と呼ばれた。
  地下鉄谷町線と堺筋線、阪急千里線が利用できる便利な土地です。
  地図の左上の「豊」は、豊崎町の「豊」です。

浪華 名所獨案内の天神橋筋付近(上が北)
天保新改攝州大阪全圖の天神橋筋付近(上 が北)
實地踏測大阪市街圖(大正14年)の天神 橋筋六丁目付近
明治41年・昭和4年・平成7年の地形図 、最近の航空写真の天六付近(今昔マップ3)
 天神橋筋六丁目付近を地図で見ると、江戸時代は天神橋から天神橋筋を北へ 進むと寺町があり、その北側には与力・同心の住まいがありました。市街地はこの辺りまでで、これより北は亀岡街道が通る農村でした。 明治時代になって市街地が北へ広がり、明治41年の地図では天神橋筋七丁目付近まで、昭和4年の地図では、長柄墓地を除いてびっしり と市街地化しています。市電網や新京阪電車、阪神電車の北大阪線も通っています。

 大正10年(1921年)に天六の交 差点の南東に大阪市立市民館(のちに北市民館)が建設されました。昭和57年(1982年)12月に閉館を迎えるまで62年間にわた って、大阪ばかりでなく全国の社会福祉界に歴史的シンボルとして存在しました。
 平成11年(1999年)に北市民館、北保育 所、三井住友銀行天六支店の敷地を一体に利用して住まい情報センタービルが竣工しました。民間と公共の合築のビルで、地下1階で地下 鉄・阪急電車の天神橋筋六丁目駅と直結しています。11月6日には住まい情報センター(住情報プラザ)がオープンしました。

 その後、ミュージアム内の町家の建設や展示の工事が進められ、平成13年(2001年)4月26日に大阪市立住まいのミュージア ムが開館しました。翌年、愛称として「大阪くらしの今昔館」が使用されるようになりました。今昔館は今年(2016年)4月に開館1 5周年を迎えました。

北市民館
蔦に覆われた北市民館

 新京阪鉄道が完成させた天神橋駅(現天神橋筋六丁目駅)の駅舎(後の「天六阪急ビル」:2010年に解体)はアメリカのパシフィッ ク電鉄などのインターアーバンのターミナルに範を取った、プラットホームを2階に設ける電鉄駅内蔵型高層ビルの日本における嚆矢とな る、当時としては破格の高層建築物でした。このビルと、ここから新淀川橋梁直前まで続く鉄筋コンクリート造の高架橋のコンセプトや基 本設計は、以後日本で開業することになる第2世代の都市間高速電車群の路線計画に多大な影響を与えました。
 また、京都側では地下線によって市内に乗り入れる予定でしたが、工事には時間と多大な費用を要すること、そして昭和天皇即位大典が 京都御所で催されることになっていたことから、暫定的に市の外れ、当時葛野郡西院村(1931年に京都市右京区へ編入)に駅を設置し 、ここから京都市電・市バスなどで市街地へアクセスさせることにしました。
 1925年(大正14年)10月15日 天神橋~淡路間を開業させ、
1928年(昭和3年)に、天神橋~西院間を開業させましたが、
ほどなく1930年(昭和5年)には京阪に吸収合併されました。(以上ウィキペディアより)
 大正14年発行の實地踏測大阪市街圖には新京阪の天神橋駅や線路が書かれていますが、大正13年1月発行の大阪市パノラマ地図には 、工事はすでに始まっていたと思われますが、わずかの時間差のため描かれていません。

新京阪鉄道天神橋ビル


 大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアに、大阪市パノラマ地図を拡大して床面に展示してい ますので、じっくりとご確認ください。

 大阪市パノラマ地図についてはこちらをどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2015/08/blog-post_29.html



 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイ ベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し 込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
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