2016年8月11日木曜日

熊野街道ちょっと散歩(第1回)

 熊野街道・熊野古道と言うと、中辺路や大辺路など和歌山県内の古道が世界遺産にも指定されていて有名ですが、もともとは、京から大坂を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称をいいます。

 京から大坂までは淀川を舟で下ることが多く、大坂渡辺津・八軒家に上陸し、そこを起点にして徒歩で四天王寺(大阪市天王寺区)、住吉大社(大阪市住吉区)、紀州田辺を経て、中辺路または大辺路を通って熊野三山へと向かう道筋でした。熊野街道は、大阪市内では並行して走る紀州街道よりも東側の上町台地上の稜線部を通っていました。この熊野街道沿いの地域を、寄り道しながらちょっとずつ訪ねてみることにしましょう。

熊野街道(八軒家浜~四天王寺)
 第1回は起点である八軒家浜からスタートすることにします。
京阪電車天満橋駅から北側へ出ると大川に面して八軒家浜船着場があります。平安時代から室町時代にかけて摂津国の旧淀川左岸の河口近く、現在の天満橋から天神橋の間くらいの位置に渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれる港がありました。摂津国の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大社、高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として、海陸交通の要地として栄えました。
 江戸時代には、船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」が到着し、淀川舟運の要衝として栄えました。
 NHK朝のドラマ「あさが来た」では、主人公のあさと姉のはつは、京都の今井家(史実は三井家)から、大坂の加野屋(加島屋)と山王寺屋(天王寺屋)に嫁ぎました。当時は鉄道のない時代、ドラマでは京都を舟で発つところしか映されませんでしたが、おそらく、伏見から三十石船で淀川を下り八軒家浜に上陸して船場へ向かったものと思われます。
八軒家浜説明板(浪花百景)
浪華名所獨案内 天保年間1840年頃

大阪市中地區甼名改正繪圖 明治5(1872)年

 平成20(2008)年に往時の八軒家浜の賑わいを水都大阪の再生の拠点とするため、八軒家浜船着場が開港し、大阪水上バス(アクアライナー)、遊覧観光船、屋形船が発着しています。平成21(2009)年には観光船案内所、情報発信スペース、レストランからなる「『川の駅』はちけんや」がオープンし、大川沿いに、天神橋まで続く遊歩道が整備されています。
『川の駅』はちけんや
渡辺津から世界遺産熊野古道への碑
石碑の裏面は英語表記

 八軒家浜に「小楠公義戦の碑」が建てられています。小楠公は楠木正成の長男・正行で1347年に南朝の武将として足利軍と対峙した際に敵の援軍として住吉に出張った山名軍を破って京都まで敗走させました。この合戦の時に渡辺橋でおぼれる多数の敵兵を救い、手当てをして衣服を与えて敵陣に送り返したという話が残っており、これが義戦と称えられています。
小楠公義戦の碑
碑文(藤澤 章 誌す) 

 「『川の駅』はちけんや」の大川側にはレストランや観光船案内所が並んでいて、建物の前には、常夜鐙が復元されています。
『川の駅』はちけんや
常夜鐙
常夜鐙、背景に天神橋と噴水(放水?)

 西へ少し寄り道して天神橋まで足をのばしました。天満橋、難波橋と並んで三大橋と呼ばれる大阪を代表する橋です。江戸時代の大坂には幕府が管理する公儀橋は12しかなく、ほとんどの橋は町人が管理する町橋でした。三大橋はいずれも公儀橋となっていました。
天神橋遠景
天神橋近景~かっこいい~
天神橋南詰の橋歴碑

 熊野街道は八軒家浜から南へ御祓筋を進みます。土佐堀通との交差点には熊野街道の石碑があり、ここから緩やかな坂道で上町台地に上ってゆきます。
土佐堀通と御祓筋の交差点
熊野かいどう石碑
上町台地への坂道

 御祓筋からちょっと東へ寄り道して、永田屋昆布本店へ向かいます。ここには、八軒家船着場の跡石碑や顕彰板があり、運が良ければ「八軒家の今昔~熊野街道のはじまり」というカラー写真入りのおしゃれな小冊子がもらえます。
永田屋昆布本店
八軒家船着場の跡石碑
石碑と顕彰板
顕彰版

 熊野街道へと戻ることにします。御祓筋までの途中、南側に石段があります。御祓筋は緩やかな坂道でしたが、こちらはかなり急な石段になっています。行く先には緑も見えています。これは登ってみないといけません。上にあがってみると北大江公園に出ました。
北大江公園への石段
北大江公園

 公園を抜けて御祓筋に戻り、南へ進みます。地図は明治18年のものですが、北から順に石町、島町、釣鐘町、船越町、内平野町、内淡路町、大手通が、東西の通をはさんで細長い町を形成しています。船場と同様、典型的な両側町で、大坂城に近いほうから、1丁目、2丁目・・・となっています。かつて大坂城の外堀であった東横堀川より内側ですので、「内」の付く名前も見られます。
 通をはさんで同じ町ということは、うなぎの寝床の細長い敷地の裏側にある太閤下水をまたぐと隣町になります。南北の筋を歩いていると、路地をはさんで左右に違う名前の町名表示板を見かけることがあります。両方がそろっているところはなかなか少ないですが、大阪ならではの珍しい風景となっています。
實地踏測大阪市街全圖 明治44(1911)年
島町と釣鐘町の町境となる路地

 御祓筋を南へ進み、釣鐘町で西へちょっと寄り道すると、町の名前の由来となった釣鐘が現存しています。3代将軍徳川家光によって大坂町中の地子銀(現在で言うと固定資産税)が永代赦免された恩恵に感謝し、惣年寄達が協議した結果、釣鐘をつくって町中に時を知らせることとしました。
 鐘楼は江戸時代を通じて、4度の火災(万治、宝永、享保、天保)に見舞われましたが、これを何とかくぐり抜けました。その後釣鐘は1870年(明治3年)に撤去され幾度か場所を移動します。 1926年(大正15年)以降は大阪府庁屋上に「大阪町中時報鐘」として保存されていました。1985年(昭和60年)に地元有志の努力によって、再び元の釣鐘屋敷地へ戻され、現在に至っています。
釣鐘屋敷跡全景
釣鐘
釣鐘屋敷跡の碑

 第1回から西へ東へ寄り道して、なかなか前へ進みませんが、今回はここまでとします。
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 本ブログで使用した地図は、ルートラボさん、二つ井戸津の清さん、国際日本文化研究センターさんからお借りしました。


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1 件のコメント:

  1. 歴史好きの隠居爺さんです。昔の地図と今を比較しながら楽しんでいます。

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