2016年8月11日木曜日

船場の通と筋の名前についての考察と提案

〇船場(せんば)とは
 船場は、大阪市中央区の地域名で、大阪市の中心業務地区にあたります。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていました。

 船場は河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域であり、範囲は
東端 - 東横堀川 (阪神高速1号環状線南行き)
西端 - 西横堀川 (阪神高速1号環状線北行き。1962年埋立)
南端 - 長堀川 (長堀通。1964年埋立)
北端 - 土佐堀川
の東西1km、南北2kmのエリアです。江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもあります。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接しています。
現在ではまれですが、上町を東船場、下船場を西船場とみなして、船場を中船場と称することもあります。
明治39(1906)年発行の大阪市街精密地圖 舟場之部(東が上)

〇船場の通と筋の名前

 船場のまちは、大阪城と港を結ぶ東西の通(メインストリートで4間幅)とそれに直行する南北の筋(サブストリートで3間幅)とで構成され、東西の通りを挟んで北と南で1つの町を形成しています。両側町と呼ばれる形態で、町の名前は通の名前と一致していました。
 明治時代になって梅田、難波、天王寺に鉄道駅ができ、南北の交通量が増えたことから、市電の敷設と合わせて堺筋と四つ橋筋が拡幅され、さらに、昭和時代になって地下鉄の建設と合わせて御堂筋が整備されたことから、現在では南北の筋のほうがメインストリートとなっています。

 東西の通りでは、土佐堀通と本町通、末吉橋通(現在の長堀通)が市電の敷設と合わせて拡幅されて幹線となっていました。戦後になって、中央大通の整備と長堀の埋め立てによる長堀通の拡幅が行われ、新たな幹線となっています。

◆北船場の通(とおり)の名前(北から南へ)

土佐堀通 - 古くは北浜通、あるいは土佐堀浜通と呼ばれた。町名は北浜であるが、現在では北浜といえば堺筋と交わる北浜駅周辺を呼ぶことが多い。大阪取引所がある金融街。一方、御堂筋と交わる淀屋橋駅周辺は淀屋橋と呼ばれる。大阪を代表するオフィス街で、御堂筋の西側が住友村として知られるほか、淀屋の碑がある。

内北浜(うちきたはま)通 - 古くは梶木町通と呼ばれた。町名は北浜。適塾、大阪市立愛珠幼稚園がある。

淀屋小路(よどやしょうじ) - 心斎橋筋 - 御霊筋間にのみ敷かれた小路。もとは渡辺筋まであった。淀屋の屋敷に由来する。

今橋(いまばし)通 - 御堂筋に面して東側に日本生命、西側に淀屋橋odona、大阪倶楽部がある。

浮世小路(うきよしょうじ) - 今橋と高麗橋の間の通り。京都でいう突抜に相当する。本来は背割下水(太閤下水)の位置であるが、幅の狭い通りとなっている。

高麗橋(こうらいばし)通 - 2005年5月まで堺筋に面して三越大阪店があった。江戸時代、高麗橋の東詰には里程元標が置かれた。

伏見町(ふしみまち)通 - 芝川ビルが有名。御堂筋を挟んで西側に阪和興業、東側にKISCOがある。

道修町通 - 武田薬品や塩野義製薬をはじめとする製薬会社のオフィスが集中する、日本を代表する薬品街。神農(しんのう)さんとして知られる少彦名(すくなひこな)神社があり、11月22日から23日の神農祭にあたっては賑わいを見せる。境内には春琴抄の碑が、隣接してくすりの道修町資料館がある。

平野町(ひらのまち)通 - イトーキ資料館、湯木美術館があるほか、御堂筋に面してガスビル(大阪ガス本社)が、堺筋に面して生駒ビルヂングがある。

大阪市街精密地圖 舟場之部(部分、東が上)

淡路町(あわじまち)通 - 御堂筋を挟んで西側に御霊神社が、2丁目には船場ビルディングがある。

瓦町(かわらまち)通 - 江戸時代に角細工商や戸棚商、湯風呂細工職人、戸障子商、襖骨商など建築関係の商工業者が多かったという。

備後町(びんごまち)通 - 堺筋に面してりそな銀行本店、御堂筋に面して北御堂として知られる津村別院(住所は本町)がある。

安土町(あづちまち)通 - 近江安土から町人が移住してきたからという説と、当地で弓術の修練が行われ射場の「あづち(積み土)」があったからという説がある。

本町通 - 北船場と南船場の境界。丸紅大阪本社、大阪産業創造館(大阪企業家ミュージアム)、御堂筋に面して竹中工務店本社がある。


◆南船場の通りの名前(北から南へ)

本町通 - 御堂筋に面して東側にセントレジスホテル大阪がある。

南本町通 - 古くは米屋町通と呼ばれた。御堂筋に面してヨドコウ本社がある。

中央大通 - 船場の区間は1970年に完成。唐物町(からものまち)通と北久太郎町(きたきゅうたろうまち)通の2本の通りとその間の街区が道路用地に充てられている。唐物町通が東行き、北久太郎町通が西行きの平面道路に拡幅され、平面道路の間に繊維問屋が集まる船場センタービルが建ち、その上を高架道路と阪神高速13号東大阪線が走っている。地下には地下鉄中央線が走る。町名は1970年より船場センタービルが船場中央となり、1989年より唐物町残余が南本町に編入、北久太郎町残余が南久太郎町と統合されて久太郎町となった。中央区役所がある。

久太郎町通 - 中央大通の整備までは南久太郎町通と呼ばれた。御堂筋に面して大阪センタービル(伊藤忠商事旧本社・阪神高速道路本社など)、南御堂として知られる真宗大谷派難波別院がある。


大阪市街精密地圖 舟場之部(部分、東が上)

北久宝寺町(きたきゅうほうじまち)通 - かつて久宝寺という寺院が存在したという説と道頓らが地元の河内久宝寺から住人を呼び寄せたという説がある。

南久宝寺町通 - 南久宝寺町問屋街として知られる。

博労町(ばくろうまち)通 - 御堂筋に面して西側に難波神社がある。この通りまでは旧東区に属し、現在も町名として残っている。

順慶町(じゅんけいまち)通 - この通りから南は旧南区に属し、現在の町名は南船場。三休橋筋との交差付近は宝石貴金属卸が集まる宝飾問屋街となっている。

安堂寺橋(あんどうじばし)通 - 現在の町名は南船場。

塩町(しおまち)通 - 現在の町名は南船場。

長堀通 - 1964年、長堀川が埋め立てられるまでは末吉橋(すえよしばし)通と呼ばれた。現在の町名は南船場。


◆船場の筋の名前(東から西へ)

東横堀筋 - 東横堀川沿い。

箒屋町(ほうきやまち)筋 - 「本町の曲り」で東へ追加される筋へ東横堀筋が移るため、同所以南で箒屋町筋と名称を変える。

板屋橋(いたやばし)筋 - 壱丁目筋と呼ばれることもある。

八百屋町(やおやまち)筋 - 今橋通から北は、平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛にちなんで、十兵衛横町(よこまち)と呼ばれた。

堺筋 - 市電が通っていた筋で、御堂筋の拡幅までは大阪を代表する通りであった。今なお、御堂筋に次いで重要な通り。

難波橋(なにわばし)筋 - 藤中橋(ふじなかばし)筋とも呼ぶ。かつては大川に難波橋が架橋され、中国街道に接続する往来の多い道路で、隣の堺筋と繁栄を二分していた。しかし、1911年の市電敷設計画に反対したことが明暗を分け、1915年にはシンボルだった難波橋が堺筋に架け替えられた。その7年前の1908年に長堀川に藤中橋が架橋され、難波橋を失った難波橋筋は藤中橋筋とも呼ばれるようになった。

中橋(なかばし)筋 - 長堀川に架かる橋の名前から。

三休橋筋 - 栴檀木橋(せんだんのきばし)筋とも呼ぶ。大阪市の道路整備計画により歩道幅が確保され、大阪ガスなどから寄贈されたガス灯が並び、風情のある景観となっている。

大阪市街精密地圖 舟場之部(部分、北が上)
丼池(どぶいけ)筋 - 繊維問屋街。大阪で最初にアーケードが出来たのが丼池筋である。1993年老朽化により大阪最古のアーケードは撤廃された。現在は丼池ストリートとも呼ばれている。

心斎橋筋 - 南船場側は心斎橋筋北商店街として賑わう。

御堂筋 - 1937年の拡幅までは淡路町通との交点で屈折していたため、同所以南の北御堂・南御堂のある区間を御堂筋、以北を淀屋橋筋と称した。大阪の象徴ともいえる目抜き通り。

御霊(ごりょう)筋 - 南御堂より南は佐野屋橋筋と呼ばれる。

渡辺(わたなべ)筋 - 御霊神社より北は魚(うお)の棚筋と呼ばれる。

西横堀筋 - 西横堀川沿い。かつて「横堀」という町名だったことから単に横堀筋とも呼ばれる。


 以上、通と筋の名前について主としてウィキペディアから引用し若干の加筆を行いました。
 明治39(1906)年発行の大阪市街精密地圖は国際日本文化研究センターさんのホームページからお借りしました。

 以下は個人的な考察と提案です。

〇通と筋の名前の考察と提案
 通の名前は旧東区では町名として残っているため、よく知られている名前が多いですが、筋の名前は堺筋、三休橋筋、丼池筋、心斎橋筋、御堂筋以外は、あまり知られていないのが実情です。

 京都の四条烏丸、河原町三条のように、東西・南北の通りの名前を組み合わせた地名だと、両方の名前が覚えやすくなります。交差点にも両方の通り名の案内表示があります。

 名古屋では、町名は新住居表示で「丸の内」、「錦」、「栄」のように大くくりの名前に変更になっていますが、東西・南北の両方の通り名が「長者町通」、「長島町通」、「広小路通」のように交差点に案内表示されていて、観光客にもわかりやすくなっています。

 大阪では、江戸時代以来の伝統で、東西の通がメイン、南北の筋がサブという位置づけで、町名は通名と同じで、大阪城に近い方から1丁目、2丁目・・・と呼ばれてきました。これもわかりやすく合理的な表示ではありますが、1丁目といっても広いですから、地点を特定するには不便な面もあります。

 そこで、例えば「道修町三休橋」のように通と筋の交差点の名前で位置を表すようにすると、外から来た観光客にもわかりやすくなると思われます。忘れられている筋の名前を呼び起こし、例えば、「道修町八百屋町」、「道修町中橋」、「道修町丼池」のように、通を歩いていると交差点ごとに筋の名前が表示されるように、逆に筋を歩いているときには通の名前がわかるようにすると、便利になると思われます。

 船場センタービルが平成25年に外壁改修をされた際に交差点ごとに筋を強調したデザインとして筋の名前を表示しています。ビル10棟が東西約1kmにわたり横に連なっていますから、筋をアクセントとして活用し旧地名を復活させている点は面白い試みと思います。

外壁全面改修工事後の船場センタービル(パース)
(株式会社大阪市開発公社ホームページより)
船場センタービルの堺筋本町
中橋筋
八百屋町筋(ゾーンごとにテーマカラー)
八百屋町筋(拡大)
中橋筋(拡大)
丼池筋(どぶいけすじ)

 南船場に位置している心斎橋筋北商店街(しんきた)のホームページを見ると、「ようこそ心斎橋筋の発祥地へ」というキャッチフレーズがあったり、 住居表示が南船場に変わって町名が廃止された順慶町、安堂寺町、塩町の名前がマップに表示されていたり、心斎橋今昔のページがあったり、知名度の高い心斎橋を前面に出して、いろいろと工夫されています。


心斎橋筋北商店街のトップページ
交通アクセスマップには、順慶町通、安堂寺通、塩町通が表示されている
心斎橋今昔のページ
心斎橋今昔のページ(続き)


 北船場に戻りますが、三休橋筋には、船場HOPEゾーン事業の一環で、交差点ごとにその四隅に、通り名がわかるイラスト入りのタイルが埋め込まれていて、現在位置がわかりやすくなっています。

道修町三休橋(三休橋筋道修町通)


高麗橋三休橋(三休橋筋高麗橋通)

 タイルではなく標識でもいいと思いますが、これを船場全体に拡げて各交差点で通りと筋がわかるようにしてはどうでしょうか。南船場の順慶町通、安堂寺橋通、塩町通といった通り名も復活させて交差点の名前などに活用してはどうでしょうか。


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


 大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアに、大阪市パノラマ地図を拡大して床面に展示しています。パノラマ地図には通や筋の名前がきっちりと書かれていますので、じっくりとご確認ください。



 大阪市パノラマ地図についてはこちらをどうぞ。

 御堂筋と堺筋についてはこちらをどうぞ。

 島之内についての考察はこちらからどうぞ。

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