2016年10月31日月曜日

今週の今昔館(31) 20161031

〇今昔館のあまり知られていない展示(その21)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の11回目は、こちらの写真です。
 井原西鶴が著した「諸艶大鏡」いわゆる「好色二代男」や、喜多川守貞が著した「守貞謾稿」によると、江戸時代前期には京・大坂の庶民の間ではすでに誓文払いが定着しており、江戸では恵比寿講と呼ばれていたことがわかります。
 この誓文払いは、江戸時代から現在へ続く民間信仰と言えましょう。10月20日になると京都の人々はこぞって四条寺町東入にある冠者殿へ参詣していたといいます。普段客をだました罪を免れるようにと祈る行事です。そして京・大坂の商家では、罪滅ぼしのためと称して安売りを行っていました。冠者殿の祭神には諸説ありますが、一般的には誓詞に背いて源義経の堀川の館に夜討ちをかけて殺された土佐房昌俊を祀るといわれます。つまり起請返しの神として信仰していたのでしょう。
 大坂では、古くから呉服屋がこの誓文払いを行っていました。「浪花の梅」に見られるように、店先に棒を突き出すディスプレーを施し、端切れまでも商ったのです。普段買えない高価なものから端切れまで、何でも商うのが大坂スタイルということができます。


 現代、女性に人気の高いバーゲンセール。実はすでに江戸時代の大坂では、この誓文払いという形で展開していたのです。バーゲンの伝統は江戸時代にすでに成立していたのです。
 大阪くらしの今昔館の9階江戸時代のフロアでは、季節の移ろいに合わせて江戸時代の暦に沿った季節感のある浪花の展示を行っています。今年は11月19日が旧暦10月20日に当たります。11月2日から18日まで、呉服屋に誓文払いを復元しています。



〇資料紹介「浪花行事十二月 時雨月 誓文払」 二代貞信 作、昭和14(1939)年

 当館の所蔵資料「浪花行事十二月」には、江戸時代の浪花の年中行事風俗が旧暦の月ごとに描かれています。今月ご紹介するのは、旧暦10月(新暦11月)の行事「時雨月 誓文払」です。

 大坂の呉服屋では、11月から12月の時期に現代でいうバーゲンセール、「誓文払」を行っていました。着物を仕立てる際に余った反物の端切れを竿に吊るし、軒から通りに突き出して販売しました。色とりどりの布地がはためく軒先で、品定めをする子連れの女性と、ねじり鉢巻をして道行く女性たちに声をかける店主の姿は、年末の商家の風物詩といえるでしょう。



〇今週のイベント・ワークショップ

10月31日、11月2日、4日~5日、7日、9日~12日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

11月3日、6日、13日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


11月3日(木・祝) イベント 乙女文楽
上方の地で生まれ親しんだ芸能。磨かれた芸の技をご覧ください
出演:乙女文楽座
14時~15時

11月5日(土) ワークショップ 『ふくろうのストラップを作ろう』
各回先着10名、1人300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します
①13時30分 ②14時30分

11月6日(日) 町家衆イベント 今昔語り
大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。
あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
開催日:お茶会と同日
時 間:14:30~15:00

11月6日(日) 町家衆イベント 町の解説
江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

11月6日(日) イベント 町家でお茶会
町家の座敷で「ほっと一息」一服いかがですか
先着順50名、茶菓代300円
※当日10時30分より8階ミュージアムショップでお茶券を販売します
協力:大阪市役所茶道部
13時~15時

11月12日(土)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町で、落語をきいてみませんか
出演:桂出丸 桂文五郎
14時~15時

町家衆イベント 町の解説
江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

11月13日(日) 町家衆イベント おじゃみ(有料)
古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00~16:00

11月19日(土)、20日(日)
関西文化の日(11/19・20)は今昔館の入館料(常設展)が無料です!

町家衆イベント 楽市町家
13時~16時

ぜんざい
11時~
100円/杯(なくなり次第終了)



そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年10月26日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(3-3、3-4)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。今回は第3回の第3問と第4問を合わせて解説します。

(第3回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「しほみばし」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪高野鉄道「汐見橋駅」
B 南海電気鉄道高野線「汐見橋駅」
C 難波村の田地
D 道頓堀川

 現在は南海高野線は汐見橋から高野山まで直通とはなっていません。近年まで駅構内に「南海沿線観光案内図(昭和30年代)」が掲示されていました。詳しくはこちらの記事をどうぞ。
http://www.sankei.com/west/news/160323/wst1603230038-n1.html



(第3回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「にぎはいばし(賑橋)」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 日本国有鉄道「湊町駅」
B 西日本旅客鉄道「JR難波駅」
C 難波村の田地
D 難波入堀川

 JR関西本線(大和路線)の終着で、湊町駅からの駅名の変更に当たり、近接の地下鉄、近鉄、阪神と区別するため、JRを付加した駅名「JR難波駅」が正式名となっています。


 江戸時代の大坂三郷南組の市街地は道頓堀川の南岸までで、そこから南は難波村の田地でした。
浪華名所獨案内(天保年間)の難波村付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の難波村付近


 汐見橋駅は、明治33年(1900)に高野鉄道が大小路駅(現・堺東駅)から延伸した際の終着駅にあたる道頓堀駅として開業し、翌明治34年(1901)汐見橋駅に改称されました。明治40年(1907)、 会社合併により高野登山鉄道、大正4年(1915)社名変更により大阪高野鉄道、昭和7年(1922)、会社合併により南海鉄道の駅となりました。かつては貨物専用ヤードも併設していました。
 高野線の起点であり、昭和60年(1985)に大阪市の立体交差事業が行われる以前は、岸ノ里駅(現・岸里玉出駅)以南と直通していたため、当駅から高野線本線との一部区間運転電車が存在していましたが、立体交差事業の実施後は線路が分断されたため直接高野線本線に乗り入れることが不可能となりました。それ以後は高野線本線は難波駅から岸里玉出駅まで南海本線を経由して極楽橋駅に乗り入れる電車のみとなりました。このため当駅からは岸里玉出駅との区間運転の電車だけが運転されており、事実上は支線となっています。このため、汐見橋駅~岸里玉出駅間は汐見橋線(しおみばしせん)という通称でも呼ばれています。当駅と新大阪駅を結ぶ計画路線であるなにわ筋線の開業時には、南海は木津川駅~当駅間を地下化する予定でしたが、最近になって南海のルートについて難波駅接続が有力候補となり、当駅の存続が危ぶまれている状況です。
 道頓堀川には駅名の由来になった汐見橋が架かり、新なにわ筋(大阪府道29号線)が通っています。現在の橋は昭和39年(1964)に架け替えられたものです。開業時は「道頓堀駅」と称しましたが、江戸時代からすでに道頓堀と言えば島之内の対岸にあたる繁華街を指すことが一般的だったこともあり、翌年には汐見橋駅に改称しています。なお、当駅と道頓堀川の間には桜川(埋立てられて現在の千日前通)も流れていました。

 湊町駅は、明治22年(1889)に、大阪鉄道の湊町駅(みなとまちえき、一般駅)として開業し、同社の創業路線である湊町駅~柏原駅間の起点となりました。明治33年(1900)に関西鉄道が承継、明治40年(1907)に国有化され、明治42年(1909)に、日本国有鉄道関西本線所属の駅となりました。
 西側に貨車入換用の線路が広がり、駅操車場内の南端には蒸気機関車の転車台が設けられていました。また、道頓堀川から入堀が開削されていました。南側には留置線が広がり、夜間滞泊の車両が留置されていました。駅には町の東西を結ぶ歩行者用の跨線橋(地元の人は「たかばし」と呼んでいた)がかけられていました。駅の東側の跨線橋上り口付近には、駅職員のための厚生施設(理髪室、浴場)も設けられており、地元の人も利用できたそうです。また、車両が通行できる踏切は駅南側にあり、それも貨車入換線を横切る長さ50m近い踏切だったため、時々「開かずの踏切」となっていました。
 駅開業から平成6年(1994)まで湊町駅(みなとまちえき)と称しており、道頓堀川八丁のひとつである道頓堀湊町(駅開業時は大阪市南区湊町)に開業したことによります。ただし、当時の湊町の範囲は道頓堀川に面した狭小なもので、西成郡難波村(のち大阪市に編入され、難波東円手町)にもまたがっていました(現在の湊町の範囲は1980年に拡大されたもの)。
 1989年の駅移転によって、元来の湊町から完全に離れて難波側にのみ位置するようになり、地下駅化して難波駅や大阪難波駅(当時は近鉄難波駅)と連絡する計画もあったため、1994年9月4日の関西国際空港開港と同日にJR難波駅に改称されました。駅名に「JR」を冠したのはJRグループ各社を通して初めてで、駅名にアルファベットが入ったのも日本では初めてです。


大阪市街大地図(大正14年発行)の京橋口付近
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の汐見橋駅付近(今昔マップ3より)
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の湊町付近(今昔マップ3より)


第3回第5問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/11/blog-post_02.html
第2回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/08/blog-post_10.html
第1回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/06/blog-post_1.html

2016年10月24日月曜日

今週の今昔館(30) 20161024

〇今昔館のあまり知られていない展示(その20)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の10回目は、こちらの図面です。

 この図面は9階近世のフロアの連続平面図です。
 近世のフロアに再現された「大坂町三丁目」は架空の町ではありますが、江戸時代の船場の町のデータに基づいて再現された町です。
 大阪船場の町割は、城と港を結ぶ東西の道がメインで「通」、それと直交する南北の道は「筋」または「横町」と呼ばれ、主要道の「通」は幅4間、脇道の「筋」は幅3間で、これが格子状に交差して、方40間の街区を形づくり、中央には東西方向に背割下水(太閤下水)が走り、町境になっていました。
 宅地割は通に間口を開き、奥行きは20間と一定していました。一つの町は「通」を挟んで建ち並ぶ町家からなる「両側町」を構成していました。
 宅地割から想定される建屋の状況は、町家の正面が町並みを形づくる通と、町家の側面を見せる筋とに分かれ、空間的な階層性があったとされていました。
 「町通りと筋にははっきりと格差があって、家の正面を見せるか、側面を見せるかの差である」との説もありますが、実態について調べてみると、「通」に面しては一戸建てと表長屋の町家、「筋」に面しては通に開口した町家の側面と、筋に開口した表長屋、そして街区中央部には一戸建てと裏長屋が配置され、全体としてヒエラルキーを持った居住空間を形成していたことがわかります。
 連続平面図をよく見ると、合薬屋、呉服屋、唐高麗物屋、町会所は町家(一戸建て)であるのに対し、建具屋と小間物屋、人形屋と本屋は、表長屋となっていることが確認できます。
 街区の中央部の空間構成を見ると、各戸の裏宅地には裏長屋や土蔵のほかに前栽や空き地が配置され、街区全体から見るとオープン・スペースとして効果的に機能していました。また、土蔵が背割下水に沿って建ち並び、さらに背中合わせの隣町の土蔵群も含めると土蔵の帯が掲載されています。土蔵は厚い壁を持ち、表面は漆喰塗りで仕上げた防火建築ですから、いざ火災の時には防火帯になり、延焼を食い止める効果もありました。以上、谷直樹館長の著書「町に住まう知恵」を参考にさせていただきました。


 展示室内に再現するに当たって、「通」を挟んだ南北の敷地のうち、北側は店部分のみ、南側は店と住まい部分を切り取って再現しています。南側もすべては再現できていませんが、船場の町の構成を踏まえ、実在した店の資料に基づいて、実物大で再現されています。緑で囲った部分が今昔館で再現されている範囲です。
 近世のフロアの入り口は木戸門となっており、木戸門から表通りに沿って一街区の約半分の範囲が再現されています。通の突き当たりは鏡になっていますので、鏡に映る像を含めると一街区の長さを感じ取ることができます。「夏祭りの飾り」の展示の際は、天神丸があるためによく見えませんが、「商家の賑わい」の展示の際には、鏡に映る町並みをご確認いただくことができます。


 こちらの図面は、8階近代のフロアの住まいの六景のうち「北船場~旧大坂三郷の近代化」の模型を制作する際に作成された図面です。
 堺筋は、明治45年(1912年)に市電が敷設される際に3.3間(約6m)から、12間(21.8m)へと拡幅されました。江戸時代の大坂は東西方向の道路が主で4.3間幅であったのに対し、従である南北方向の道路は3.3間幅しかなく、堺筋といえども例外ではありませんでした。
 まず、明治41年(1908年)に南側の日本橋3交差点~恵美須交差点間が12間(約21.8m)に拡幅され、大阪市電南北線が敷設されました。次いで、北浜1交差点~日本橋3交差点間が拡幅され、大阪市電堺筋線が敷設されました。この図面は拡幅後の堺筋を描いています。
 一方、東西方向の通については、昭和5(1930)年、平野町のうち堺筋から西側が道幅13mに拡げられて町並みが一新されました。「軒切り」と呼ばれています。一方、東側は、まだ江戸時代とあまり変わらない町並みが続いていました。東側も昭和8年に拡幅されることになります。



〇今週のイベント・ワークショップ

10月24日、26日~29日、31日、11月2日~5日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

10月30日、11月6日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


10月29日(土)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町で、落語をきいてみませんか
出演:桂出丸 桂りょうば
14時~15時

10月29日(土)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

11月3日(木・祝) イベント 乙女文楽
上方の地で生まれ親しんだ芸能。磨かれた芸の技をご覧ください
出演:乙女文楽座
14時~15時

11月5日(土) ワークショップ 『ふくろうのストラップを作ろう』
各回先着10名、1人300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します
①13時30分 ②14時30分

11月6日(日) 町家衆イベント 今昔語り
大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。
あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
開催日:お茶会と同日
時 間:14:30~15:00

11月6日(日) 町家衆イベント 町の解説
江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

11月6日(日) イベント 町家でお茶会
町家の座敷で「ほっと一息」一服いかがですか
先着順50名、茶菓代300円
※当日10時30分より8階ミュージアムショップでお茶券を販売します
協力:大阪市役所茶道部
13時~15時



そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年10月19日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(3-1、3-2)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。今回は第3回の第1問と第2問を合わせて解説します。

(第3回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図中央の「阪神前」は市電の停留所名です。では、地図の右側の「崎」は何を表わしているでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 阪神電気鉄道「梅田駅」
B ハービスENT
C 曾根崎村の田地
D 曾根崎の「崎」
 阪神電気鉄道の開業当初、少し西の出入橋駅までの営業でしたが、明治39年に東へ延伸されました。現在の阪神梅田駅はさらに東へ延伸され、大阪駅前の地下駅となっています。


(第3回 第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「車庫前」は市電の停留所名です。さて何の車庫があったのでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 阪神急行電鉄梅田駅「阪急ビル」
B 阪急百貨店梅田店
C 北野村の田地
D 大阪市電の車庫

 当時は1階は阪急ではなく白木屋(大正9年~大正14年)に賃貸されていました。2階は阪急食堂が営業していました。



 江戸時代天保年間の梅田付近は、大坂三郷天満組の市街地の北の外れで、田地が拡がっていました。淀川の氾濫の多い地域でもあり、水に強い菜の花が多く植えられていたそうです。江戸時代には能勢街道の要所として、数多くの旅人が行き来して、鶴乃茶屋や萩乃茶屋といった名物茶屋が並んで賑わったという茶屋町界隈。菜の花畑が一面に広がり、それは大坂・毛馬生まれの漂泊詩人・与謝蕪村の心の故郷、原風景でもありました。菜の花を題材にした多くの句が詠まれています。今では大都会の中心部にありながらも、茶屋町界隈には、よく眺めれば、旧街道の名残がちらほら見えてきます。
 第1回大阪市パノラマ地図検定の第2問「大阪駅」のところでも触れましたが、大阪~神戸間の鉄道が引かれた際に、市街地の外れのこの地域に「梅田ステン所」が建設され、その後、大阪~京都間の鉄道が敷設され、現在の大阪環状線に当たる西成線と城東線の駅ができ、私鉄の阪神、阪急のターミナルもこの地域に整備されました。



浪華名所獨案内(天保年間)の梅田付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の梅田付近

 阪神電鉄は、明治32年(1899)6月に、社名を摂津電気鉄道株式会社として設立。同年7月に阪神電気鉄道株式会社に改称し、明治38年(1905)4月に神戸(三宮)~ 大阪(出入橋)間の営業を開始しました。翌明治39年(1906)12月21日に、それまでのターミナルだった出入橋駅より路線を延ばす形で梅田駅が開業しました。現在より西のハービスENTあたりにありました。パノラマ地図にはこの時の梅田駅が描かれています。その後昭和14年(1939)3月21日に、地下化され現在の梅田駅に移転しました。

 一方の阪急電鉄の梅田駅は、明治43年(1910)に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が梅田駅~宝塚駅間で営業開始した際に開業しました。このときは東海道本線南側、現在の阪急百貨店うめだ本店の場所にある地上駅でした。大正7年(1918)2月4日、社名変更により阪神急行電鉄となり、大正9年(1920)7月16日に神戸本線が開業し、神戸本線の列車が乗り入れるようになりました。パノラマ地図にはこのころの梅田駅が描かれています。
 その後、大正15年(1926)7月5日、梅田駅~十三駅間の複々線高架完成により高架駅に移転しました。この際に国有鉄道大阪駅の高架化計画が既に立てられていたため、高架駅は鉄骨の仮建築として造られました。そして、大阪駅の高架化工事が部分完成するとともに、予定通り昭和9年(1934)に再び地上駅化されました。
 昭和18年(1943)に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道の合併により京阪神急行電鉄となり、昭和34年(1959)には梅田駅~十三駅間に京都本線用の線路が増設されました。
 昭和41年(1966)から、現在地への移転高架化拡張工事に起工し、昭和42年(1967)に神戸本線ホームを高架に移転、以降順次移転を進め、昭和48年(1973)に高架化拡張工事が完成し、現在の阪急梅田駅となりました。
 阪急梅田駅の歴史については、新之介さんのブログ「十三のいま昔を歩こう」に3回シリーズでたくさんの写真や資料を使って紹介されています。詳しくはこちらをどうぞ。
http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-118.html
 
大正14(1925)年発行の「大阪市街大地図」の梅田付近
明治41年、昭和7年、昭和42年、最近の地形図(今昔マップ3より)


第3回第3問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/10/blog-post_26.html
第2回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/08/blog-post_10.html
第1回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/06/blog-post_1.html

2016年10月17日月曜日

今週の今昔館(29) 20161017

〇今昔館のあまり知られていない展示(その19)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の8回目は、こちらの写真です。

 近世のフロアの入り口にある「木戸門」です。
 大坂町三丁目の木戸門です。町の入り口に立っています。門の正面右側には町名の「大坂町三丁目」、左側には「張札堅無用」と書かれた木札が打ち付けられています。

 木戸門については、元禄4年(1691)に来阪したケンペルの見聞録に「どの通りにも頑丈な門があり、夜にはみな閉ざされ、町年寄りの通行証がなければ誰も通れない」と記されています。曲亭馬琴も「羈旅漫録」で、「大坂は一町一町に木戸ありて、木戸の柱にふだをうちつけ、是へ町名をしるしておく」と記しています。町の境には木戸門が立てられ、夜間は四つ(午後10時ころ)に門を閉じていました。夜は傍らの番小屋に不寝番が詰め、通行人が通るたびに門を開け、人数分の拍子木を打って次の門番に知らせていました。木戸門は町の裏側を流れている背割り下水とともに、隣町との共同管理の都市施設でした。(谷直樹氏著の「町に住まう知恵」より)



 町木戸から町内に入る地車(だんじり)。町家の軒先には幔幕が張られ、店の間には屏風が立てられています。地車よけの柵には高張り提灯も見えます。大坂の夏祭りの名物は地車で、「特に東掘十二浜の地車は錦繍を引きはえ美麗を尽くし」た作りだったといわれます。「摂津名所図会」より。


 大阪くらしの今昔館の町並みや木戸門、祭りの際のしつらえなどは、こうした資料に基づいて制作されています。


〇今週のイベント・ワークショップ

10月19日~22日、24日、26~29日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

10月23日、30日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


10月22日(土)
イベント 狂言

上方の地で生まれ親しんだ芸能。磨かれた芸の技をご覧ください
14時~14時40分

10月22日(土)
ワークショップ 『バランスとんぼを作ろう』

①13時30分 ②14時30分
各回先着10名、参加費:200円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

10月23日(日)
町家衆イベント 絵本で楽しい時間

むかし話などの絵本を表情豊かに読み聞かせます。
じっくりとお聞きください。
開催日: 第4日曜
時 間: 14:30~15:00

10月29日(土)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町で、落語をきいてみませんか
出演:桂出丸 桂りょうば
14時~15時

10月29日(土)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年10月10日月曜日

今週の今昔館(28) 20161010

〇第11回子ども落語大会(於:天満天神繁昌亭)が開催されました

 「第11回子ども落語大会」の入賞者大会が10月9日に天満天神繁昌亭で開催されました。
 平成18年より開催しています「子ども落語大会」も今年で11回目を迎えました。天満天神繁昌亭は先月9月15日に開場10周年を記念して、天神橋筋商店街で「お練り」が実施されたばかりですから、子ども落語大会は「目指せ!天満天神繁昌亭!!」をキーワードに、繁昌亭開場の年から毎年開催してきたことになります。
 9月11日(日)12時~17時に、大阪くらしの今昔館9階常設展示室の薬屋座敷において開催された予選において入賞された8名の皆さんが、天満天神繁昌亭の舞台に立ちました。



〇今昔館のあまり知られていない展示(その18)

 近世のフロアのあまり知られていない展示の8回目は、こちらの写真です。
 裏長屋の4軒のうち、一番右の家の写真です。
 さて、この家には、誰が住んでいるでしょうか?もちろん、ミュージアムですから、実際には住んでいませんが、誰が住んでいるという想定で家財道具などが置かれているでしょうか?



 前回ご紹介しましたが、江戸時代の大坂の借家は現代とは異なり、家の中の畳や障子や襖、流しやかまどといった設備は、入居する店子がすべて自分で用意するという仕組みでした。これを「裸貸し」と呼んでいました。裸とは構造体の部分だけで貸すという意味で、今風にいうと「スケルトン賃貸」のことです。4軒長屋の一番右手の路地口に近い家は空き家で「かしや」の張り紙がありました。

 残る3軒には、それぞれ住人が想定されており、それに合わせて家財道具が置かれています。
 一番右手の共同井戸に近い家は、義太夫節の師匠である松太夫の独り住まいです。部屋には三味線が置かれ、家紋の入った正装の羽織が掛けられています。義太夫節の稽古を付けに行くときに着て出かけます。裏長屋には押入れがありませんので、部屋の隅には布団がたたんで置かれています。行灯もあります。
 松太夫は、昔は油問屋を家業としていましたが店が逼塞し、今は若いころに打ち込んだ義太夫節の師匠として余生を送っています。


 松太夫の部屋には引き札風のデザインをした裏長屋の案内チラシが置かれています。裏長屋の住人の紹介や、へっつい、縁・裏前栽、走り・水壷、行灯などの解説があります。大阪くらしの今昔館の図録「住まいのかたち 暮らしのならい」の97ページには住人設定の表があり、住人と職業の想定が紹介されています。


 残る2軒の住人もご紹介しておきましょう。
 空き家の隣は、大工の作兵衛さんご夫婦、という設定で、大工道具が置かれ、七輪がかまど代わりに置かれています。作兵衛は若いが腕のいい大工で、脇棟梁を勤めることもあります。

大工の作兵衛さんご夫婦の家

 その隣は、青物の振り売り(行商)を生業としている伝吉さん夫婦とお子さんが一人の3人住まい。部屋には野菜を入れる籠がいくつも置かれ、土間には籠を下げる天秤棒が置かれています。子どもがいる設定ですので、七輪ではなくかまどが置かれています。


青物の振り売りの伝吉さんご夫婦の家
 このように、4軒長屋のうち1軒は空き家、残る3軒には住人が想定されています。畳も障子もない「裸貸し」の空き家に、実際に人が住むとどのようになるかが、比較できるようになっています。


〇今週のイベント・ワークショップ

10月10日、12日~15日、19日~22日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

10月16日、23日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


10月15日(土)
町家衆イベント 折り紙(有料)

季節に合わせてさまざまな折り紙をお教えします。
作品は持ち帰っていただきます。
開催日:偶数月の第3土曜
時 間:13:30~15:00

10月16日(日)
イベント 町家でお茶会

町家の座敷で「ほっと一息」一服いかがですか
先着順50名、茶菓代300円
※当日10時30分より8階ミュージアムショップでお茶券を販売します
協力:大阪市役所茶道部
13時~15時

10月16日(日)
町家衆イベント 今昔語り

大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。
あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
開催日:お茶会と同日
時 間:14:30~15:00

10月16日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

10月22日(土)
イベント 狂言

上方の地で生まれ親しんだ芸能。磨かれた芸の技をご覧ください
14時~14時40分

10月22日(土)
ワークショップ 『バランスとんぼを作ろう』

①13時30分 ②14時30分
各回先着10名、参加費:200円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

10月23日(日)
町家衆イベント 絵本で楽しい時間

むかし話などの絵本を表情豊かに読み聞かせます。
じっくりとお聞きください。
開催日: 第4日曜
時 間: 14:30~15:00


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年10月5日水曜日

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。

(第2回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 左側の川の名前は?現在はどうなっていますか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大学病院(大阪大学医学部附属病院)
B ほたるまち
C 富山、中津、延岡、久留米、秋田、上田、長岡、名古屋の各藩の蔵屋敷
D 曽根崎川(蜆川ともいう)。明治42(1909)年にキタの大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、大正13(1924)には下流側も埋め立てられて消滅した。

 天保年間発行の浪華名所獨案内は当時の観光マップで、堂島は描かれているものの、米市場と大丸呉服店が描かれているだけで、蔵屋敷の藩名は書かれていません。

 天保8(1837)年発行の天保新改攝州大阪全圖には、藩の名前が書かれています。藩名が解答例と一部異なっていますが、解答例は大阪市発行の「新修大阪市史第10巻」付録「図5 天保期の大坂三郷」を参考にしました。

浪華名所獨案内(天保年間)の堂島
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の堂島西部

 こちらは、大阪市パノラマ地図とほぼ同時期の實地踏測大阪市街圖です。大学病院の文字があり、北側には曽根崎川(蜆川)が書かれています。道路拡幅の計画線も入っています。これから大大阪の時代に入っていきます。
實地踏測大阪市街圖(大正14(1925)年発行)の堂島西部

 今昔マップ3を使って、明治42年、昭和7年、昭和30年の各時期の地形図と、最近の航空写真の堂島付近を示しました。明治42年の地形図には「北の大火」の焼失エリアが、昭和30年の地形図には戦災による傷跡が残っています。
 昭和7年と30年の地形図には大学病院の建物も描かれています。右下の航空写真には「ほたるまち」が写っています。
明治42年、昭和7年、昭和30年の地形図、最近の航空写真の堂島付近(今昔マップ3)



(第2回 第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の中央上部に「島」とありますが、何という島でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪商業会議所
B NTTテレパーク堂島
C 庭瀬、三日月、久留米、桑名、大村の各藩の蔵屋敷
D 堂島。パノラマ地図では大正13年に曽根崎川(蜆川)の東半分が埋め立てられた姿が描かれているが、それ以前は、堂島川と曽根崎川によって囲まれたまさに「島」となっていた。



 大阪市パノラマ地図に商業会議所が描かれているこの辺りはどのように変化してきたのでしょうか。第1問で紹介した地図では、江戸時代には各藩の蔵屋敷があったことがわかりましたが、その後どのように変わってきたのか見てみましょう。
 明治15年の地図には、堂島の西寄りに「五代氏藍製造場」とあり、この地に五代友厚氏が設立した朝陽館があったことがわかります。

明治15(1882)年発行の「改正新版大坂明細全図」の堂島

 明治33年の地図では、朝陽館の敷地には、北半分に商業学校と測候所、南東に商業會議所、南西に商品陳列所、と敷地が分けられています。藍製造所の朝陽館が廃止された跡地に、五代友厚氏が初代会頭を務めた商業会議所が置かれたほか、これも五代氏が関わったと考えられる商業学校や商品陳列所などの公的機関が立地しています。西隣の大学病院の敷地には明治33年には第一高等中学校がありました。

明治33(1900)年発行の「改正新町名入大阪市新地図」の堂島

 明治44年発行の「実地踏測大阪市街全図」をみると、朝陽館の地には、北側に※、南側に「會議」と※と、赤字で知事官舎とあります。「會議」は商業會議所を略したものです。
 ※の意味は凡例にもなく不明ですが、商業学校は上福島へ、測候所は西区築港へ、商品陳列所は博物場の地である本町橋詰に移転しました。これらの移転にも明治42年の北の大火による被害が影響しているようです。西隣の第一高等中学校も一部被災し、北野の地へ移転しました。

明治44(1911)年発行の「実地踏測大阪市街全図」の堂島


 大阪市パノラマ地図では、「商業會議所」と書かれた赤レンガの建物と、その手前(西側)には緑の中に白っぽい建物が描かれています。知事官舎でしょうか。また、左側の北半分には、赤レンガの大きな建物と、2階建てくらいの複数の小さい建物が描かれています。
 パノラマ地図と近い時期の地図として、大正14年発行の「大阪市街大地図」を見ると、朝陽館の地は、南側は会議所と知事官舎になっていて明治33年から変化はありません。北側は空白になっていますが、大正10年に中之島の市庁舎が竣工して市役所が移転した後のようです。西隣には、大学病院が立地しています。

大正14(1925)年発行の「大阪市街大地図」の堂島

 昭和10年発行の「最新大大阪市街地図」を見ると、大正14年の第二次市域拡張から10年、大大阪の時代の都市改造が動き始めています。地下鉄の完成。市電「阪急前」の左下に、赤地白抜き文字で「地下鐡」とあります。そのほか、堂ビル、新大阪ホテル、大阪ビル(ダイビル)、大阪帝大など、このエリアだけを見ても、いろんな変化が現れてきたことが分かります。
 商業会議所は「商工會議所」と名称が変更されています。新たに、北側に中央電話局、福島電話局が、南側には中央電信局が誕生しています。当時のニューメディアの拠点がこの地に集約されたようです。現在NTT関連のビルがあるのも、この頃の名残と考えられます。

昭和10(1935)年発行の「最新大大阪市街地図」の堂島

このように、パノラマ地図に商業会議所が描かれている土地の使われ方を定点観測してみると、堂島が大阪のまちづくりに大きな影響を与えてきたことがわかります。詳しくは、こちらに「古地図探偵 五代氏藍製造所「朝陽館」のその後」としてまとめています。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/08/blog-post_91.html
 



(第2回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の中央下に「崎」とありますが、何という地名でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 造幣局
B 独立行政法人造幣局
C 幕府米蔵、木材蔵、津藩蔵屋敷、岸和田藩蔵屋敷
D 川崎の崎

 造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。
 その頃我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、大型の機械設備は輸入するとしても、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足するよりほかなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました。また事務面でも自製インクを使い、我が国はじめての複式簿記を採用し、さらに風俗面では断髪、廃刀、洋服の着用などを率先して実行しました。
 このように、造幣局は、明治初年における欧米文化移植の先駆者として、我が国の近代工業及び文化の興隆に重要な役割を果たしたので、大阪市が今日我が国商工業の中心として隆盛を見るようになったのも、造幣局に負うところが少なくないといわれています。
 その後、造幣局は、貨幣の製造のほか、時代の要請にこたえて勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業も行っています。
 平成15年4月1日から、独立行政法人造幣局となりました。
 以上、独立行政法人造幣局さんのホームページから引用しました。


浪華名所獨案内の天満付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の東天満付近
明治41年、昭和4年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の東天満付近(今昔マップ3)


(第2回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 府庁はここへ移転する前はどこにあったでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 二代目大阪府庁
B 中之島リバーサイドハイツ、マンション「阿波座ライズタワーズ」など
C 大坂三郷北組江ノ子島西ノ町の町屋
D 初代大阪府庁舎は本町橋東詰の大坂西町奉行所跡にありました。明治7(1874)年7月に、西大組江之子島上之町(現・西区江之子島2丁目)に二代目庁舎が完成し移転しました。江之子島移転後は大阪府立博物場、大阪府立商品陳列所などを経て、現在はマイドームおおさかなどになっています。


 江之子島の府庁舎の正面が西にあった川口居留地の方向であり、東側に背を向けていたため、市民からは皮肉を込めて、「江之子島政府」と呼ばれていたそうです。

 大正15(1926)年11月に、東区大手前之町(現・中央区大手前2丁目)に三代目庁舎(現在の府庁舎本館)が完成し移転しました。大手前移転後は工業奨励館・後の産業技術総合研究所として使用されました。戦災で庁舎が焼失。現在の大阪府庁舎正面玄関内には旧庁舎の模型が展示されています。現在はマンション「阿波座ライズタワーズ」などとなっています。

浪華名所獨案内の江之子島付近(東が上)
天保新改攝州大阪全圖(天保8年発行)の江之子島付近(北が上)
明治42年、昭和7年、昭和30年の地形図と最近の航空写真の江之子島付近(今昔マップ3)


(第2回 第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当 時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか ?
C 江戸時代天保年間には何があった でしょうか?
市庁はここへ移転する前はどこにあったでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、 Cは各3点とします。

解答と解説
A 三代目大阪市庁舎
B 四 代目大阪市庁舎
C 唐津藩の蔵屋敷
D 二代目の庁舎は北区堂島浜通2丁目にあり ました。


 二代目の市庁舎は北区堂島浜通2丁目にあった木造2階建ての議事堂を持つ仮庁舎で、明治45(1912)年5月に竣工し、5月18日に江之子島の旧庁舎から移転しました。

 明治44(1911)年2月、大阪市会では大阪・中之島公園の地に新庁舎を建設するの議を定めました。市はその設計案を懸賞募集とすることで一般の案を募り、大正元年(1912年)9月に行われた審査の結果、応募された65案中3案が優秀案に選定され、この3案を参考に設計されることとなりました。優秀作の第1席は台湾総督府技師小川陽吉の案でした。


 計画は大阪市の財政事情により延期されながらも、大正6(1917)年6月、片岡安により実施設計が行われた後、大正7(1918)年6月に着工し、大正10(1921)年5月に竣工しました。この三代目庁舎落成を記念して大阪市歌が制定されました。
 三代目庁舎は、御堂筋を挟んで片岡安の師・辰野金吾設計の日本銀行が向かい合っていました。

 昭和57(1982)年1月、三代目庁舎の東側に四代目の新庁舎の第1期工事が完工した後、同年5月7日に閉庁式が執り行われ、同年6月11日より取り壊しに着手されました。跡地に新庁舎の第2期工事が昭和61(1986)年1月27日に完工しました。

浪華名所獨案内の中之島付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8年発行)の中之島付近
明治41年、昭和4年、昭和32年地形図、最近の航空写真の中之島付近(今昔マップ3)



(第2回 第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 天守閣が再建されたのはいつでしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪城天守台

B 昭和復興大阪城天守閣
C 江戸期大坂城天守台
D パノラマ地図に描かれている天守台は江戸期の徳川天守のもので、
  この上に豊臣期の天守を模した昭和復興天守閣が昭和6年に再建された。


浪華名所獨案内の大坂城付近(上が東)
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の大坂城付近

 上町台地は大阪のルーツともいえるところで、かつては、上町半島という形でせり出し、西は大阪湾、東は河内湖となっていました。半島の先端部には難波の宮がありました。同じ場所に中世には大坂本願寺(石山御坊)が立地、織田信長に攻められて撤退し、その後、豊臣秀吉が大坂城を築城しました。豊臣大坂城の天守は、地図で貯水池となっている場所にありましたが、夏の陣の後、徳川氏の盛り土によって地中に埋められました。
 徳川氏による大坂城修築工事は3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しました。その後1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城でした。
 「大阪市パノラマ地図」には、天守台はありますが、天守閣がありません。この天守台は徳川大坂城の天守台です。現在の天守閣は、豊臣時代の大坂城をモデルにした鉄筋コンクリート造の建物で、徳川大坂城の天守台の上に昭和6(1931)年に再建されたものです。地図の発行の7年後に再建されたことになります。
 大正時代に城周辺の公園整備計画が持ち上がり、1928年(昭和3年)、当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し、昭和天皇の即位記念事業として整備が進められました。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と天守閣の建設がすすめられました。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、大林組の施工で、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成しました。
 当時お城の周辺はほとんど軍の施設で、市民の入れないところでした。天守閣の再建と合わせて、大阪城公園として市民に開放されるようになったとのことです。同時に師団司令部も建て替えられましたが、こちらのほうが天守閣よりもお金がかかったそうです。
 パノラマ地図中の師団司令部となっている木造の建物は、明治18(1885)年に和歌山城から移築された紀州御殿で、司令部庁舎として利用されていました。師団司令部の建て替え後は天臨閣と改称され、戦災には生き残りましたが、昭和22(1947)年、米軍の失火により焼失しました。残っていれば重要文化財級の建築物であったと思われ、残念です。
 現在、初代豊臣期大坂城の石垣を掘り起こして公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」が進められています。募金の方もよろしくお願いします。
 昭和6年建設の師団司令部は、戦後、市立博物館として活用されていましたが、大阪歴史博物館の開館に合わせて閉鎖され、現在に至っています。 平成27(2015)年4月1日より大阪城公園は「大阪城パークマネジメント株式会社」が管理することになり、この建物も改修の上でレストラン等の複合施設として使用することとなっています。


明治41年、昭和4年、昭和22年地形図、最近の航空写真の大阪城付近


(第2回 第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 三越はここでいつまで営業していたでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 三越呉服店(百貨店)
B ザ・北浜タワー&プラザ
C 三井越後屋(呉服店)
 1690年以来三井越後屋として長い歴史があったが阪神淡路大震災で被災し規模を縮小した。平成17(2005)年5月5日に閉店し、315年の歴史に幕を下ろした。

 高級呉服店の越後屋(現三越)が店を構えた堺筋は江戸時代、大きな商店が軒を連ねる大阪随一の繁華街だった。三越によると、越後屋はこの当時、京都で仕入れた高級呉服を直送販売して、大いに繁盛しました。
 三越が江戸日本橋と大坂高麗橋に店を構えたのは、東海道五十七次の両端(まちの中心地)を押さえるためという説があります。三井・三越のホームページをみると、
1673(延宝元)年8月 三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を開業。店頭現銀売りを始めた。
1683(天和3)年5月 本町から駿河町(現在地)に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置。「店前現銀掛け値なし」、「小裂いかほどにても売ります」のスローガンを掲げるが、これは世界初の正札販売だった。
1691(元禄4)年 春 大阪高麗橋一丁目に呉服店と両替店を開設
とあります。

 江戸進出に当たり、当初から江戸随一の呉服店街である江戸本町1丁目に店を借り受けさせ、その後、掛売・掛値の廃止、店先売り(たなさきうり)、反物の切り売りといった新機軸の展開に合わせて現在地の駿河町(日本橋の袂で、正面に江戸城とそのバックに富士山が望めることから駿河町と呼ばれた)に移転し、大店(おおだな)に発展していったそうです。
 大坂への出店に当たっても初めから高麗橋1丁目(1丁目は大坂城に最も近い)に店を構えています。ブランドへのこだわりは事実だったようです。詳しくは、三井広報委員会のHPをご覧ください。
http://www.mitsuipr.com/history/column/08/
http://www.mitsuipr.com/history/column/09/

 堺筋の繁栄は、明治維新後も続きました。大正期、第一次世界大戦などを契機に資本を蓄積した企業や資産家が数多く現れ、勤労者の所得水準の向上や人口の急増も追い風となって、東京、大阪では本格的な消費文化の時代が到来します。ビジネス街としても発展した堺筋には、三越以外にも高島屋、松坂屋、白木屋が相次ぎ出店。昭和の初めにかけて洋風の高層建築物を競って建て、堺筋は「百貨店通り」と称されるほどのにぎわいを見せました。
 しかし、1937年、第7代の大阪市長、関一氏が手掛けた都市大改造計画によって現在の御堂筋が完成し、梅田と難波の鉄道ターミナルが直結されると、街の様相は一変します。人の流れは堺筋から御堂筋へと移り、三越以外の百貨店は続々と撤退していきました。

 三越が堺筋に踏みとどまったのは、旧三井財閥の祖としてのプライドに加え、他の百貨店と違って「顧客に資産家や商家など富裕層を多く抱えていた」(鈴木伸之店長)事情もありました。太平洋戦争後、高度成長期を経て大阪近郊の人口が急増すると三越は攻めに出て、68年には枚方に分店を出店。74年には大阪店に新館(現本館)を建て、大幅増床しました。
 しかし、三越大阪店の業績は、その後20年間で急速に悪化していった。最初の契機は84年、閉鎖した旧神戸店の従業員を引き取る受け皿となったことでした。売り上げが増えないのに人件費だけが増え、店は一気に赤字体質へと変化しました。
 そして、95年に発生した阪神大震災は、三越大阪店を危機に追い込みました。旧本館は外壁に亀裂が入り、内部も各階で水漏れや破損の被害を受けて、三越は旧本館の取り壊しを決定。その跡地に96年5月、現在の新館をオープンさせますが、売り場面積は被災前の約2万3000平方メートルから、半分以下の約1万平方メートルへと減少しました。
 大阪店の売上高は94年から95年にかけて一気に約90億円減少。ピーク時の90年に526億円あった売上高は、95年には6割弱の309億円まで減少していました。

 そんな三越にとってさらに致命的だったのが、97年3月に行われた旧国鉄大阪鉄道管理局跡地の競争入札の敗退。現JR大阪駅の北側に隣接する同跡地に、三越は真っ先に進出を表明、阪神大震災の被災前から、大阪店の移転に強い意欲を示していました。
 被災で取り壊した旧本館は地下1階、地上8階の重厚な洋風建築でしたが、その跡地に建てた現新館は地上2階建ての、中途半端な作り。その理由は、鉄道管理局跡地の入札では下馬評で三越が最も有力視され、三越自身も「どうせ数年すれば梅田に店を移転できる」と受け止めており、本格的な修復投資を行わなかったためでした。
 この誤算によって、新規顧客の獲得もままならない三越大阪店は、さらに窮地に追い込まれていきます。00年には、閉鎖・売却予定だった心斎橋のそごう大阪店の用地取得に動きます。しかし、そごうが売却を撤回、同地で再建することを決め、この計画も立ち消えになりました。
 大阪店の累積損失は84年から03年度末までの20年間で600億円を超え、三越は04年9月、ついに閉鎖と土地の売却を決断しました。315年の歴史を刻んだ堺筋・高麗橋の地を離れる三越は、6年間の空白を経て11年、JR西日本がJR大阪駅北側に建設する大阪駅北ビルに再出店する方針でした。 (以上、2005年5月5日毎日新聞より)

 当初は三越が直営で出店する予定でしたが、三越と伊勢丹の経営統合に伴う三越伊勢丹ホールディングスの誕生に伴い、ジェイアール西日本伊勢丹が運営することになりました。運営会社は異なりますが、事実上2005年に閉店した三越大阪店(大阪市中央区高麗橋一丁目7番5号)の後継店舗です。
 “ファッションの伊勢丹”の独自色を強く打ち出すため、「イセタンメンズ」や「イセタンガール」など、百貨店が独自に商品の品揃えや売場作りを手掛ける「自主編集売り場」の比率を売り場面積の3割にまで高めた異例の構成としていました。
 同じジェイアール西日本伊勢丹が運営するジェイアール京都伊勢丹が好調なのに対して、すぐ近くに強力なライバル店がひしめく同店は、開業初年度500億の売上目標に対して約6割の334億しかあげられず、その後も不振が続いていたため、5万平方メートルから半分程度に縮小する再建策を発表。2014年7月に10階と地下2階以外のフロアが閉店しました。
 2015年4月、建物自体が「ルクア1100(イーレ)」としてリニューアルするのに伴い、ロゴをセレクト感を強調した小文字に変更し、8つの「isetan」ショップとして新たに入居する形となりました。これにより「JR」「三越」の入った「JR大阪三越伊勢丹」の名称は消滅しました。(以上、ウィキペディアより)

 大阪から「三越」の名前が消えてしまったことは寂しいような気もします。

浪華名所獨案内(天保年間)の北船場
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の北船場
明治41年、昭和4年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の北船場(今昔マップ3)


(第2回 第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D その後松坂屋はどこへ移転したでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 松坂屋
B 高島屋東別館
C 日本橋筋沿いの長町
D 松坂屋は昭和41(1966)年に天満橋に移転し、その後は高島屋東別館となる。
 
堺筋にあった4つの百貨店の建物で唯一残ったもので朝ドラ「カーネーション」で効果的にロケされていた。


 松坂屋は、大正12(1923)年に南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店しました。昭和13(1938)年に大阪店増改築工事が竣工(現・高島屋東別館)しました。
 1960年代前半、市電の廃止と引き換えに地下鉄整備が進むようになったものの、堺筋の市電路線が廃止されたことに加え近辺に地下鉄駅も開設されないなど大阪店周辺の交通環境の悪化で業績を好転させるのは不可能と判断し、新大阪店の候補地を大阪城の北西部に当たる京阪天満橋駅の地下化および駅ビル建設に伴う鉄道利用客の需要を見込み、移転することとしました。1964年4月、京阪電鉄、松坂屋、竹中工務店の3社の出資による京阪ビル(株)を設立、京阪天満橋駅の上部と隣接地に地下4階、地上8階の京阪ビルディングの建設を発表。
 1966年10月1日、東区京橋2丁目(現・中央区天満橋京町)に移転。「桜の通り抜け」や天神祭でも有名な大川沿いに位置し、ガラス張りの休憩室や飲食店からの展望を売りとし、結婚式場をはじめ海外旅行サロン・文化催事場・スポーツ用品センターなどを導入しながら他店との差別化を図りました。しかし梅田を中心とするキタ、心斎橋・なんばを中心としたミナミの大阪市内二大商業地域に人口が集中していた上、天満橋周辺が商業地域というよりもオフィス街という性格上、周辺に人をよびこむことができませんでした。総面積も市内の主要百貨店と比べ狭く、川沿いの立地が災いし売場の増床も事実上不可能でした。
 1973年、1976年にそれぞれ、ファッション部門を強化。1986年から1988年にかけても全館を改装、食品フロア「グルメ館」として再編。1996年、長堀鶴見緑地線の京橋~心斎橋間の開通により、多くの人が心斎橋に流れました。1997年から1999年にかけ食料品フロアを「食彩館」として展開。全館のうち5フロアを女性ファッションフロアに特化して改装、1998年4月8日に新装開店。若者向けの改装のほか人気テナントの導入や業態転換などの方針がとられたが、失敗に終わったとされます。

 以前より松坂屋より京阪側に撤退を含めて検討したいとの要望が出されていたのをきっかけに、岡田邦彦社長(当時)が「競合店が次々とでき、今後、商圏を大きく奪われる。投資しても回収が見込めない状況だ」と述べ、閉店が正式に決定し、2004年5月5日閉店。移転後ただの一度も黒字化を果たせない店舗となりました。移転後には幾多の改装などを行うなどの努力をしてきたにも関わらず、実を結ぶことはできず、閉店後、この京阪ビルディングのうち松坂屋が所有している土地、建物を京阪側に売却。京阪による大規模な改装工事が行われたのち、2004年11月25日に地下2階の食品売り場である「デリスタ」が先行オープンし、その後2005年5月27日に「京阪シティモール」がオープンしました。(以上ウィキペディアより)
浪華名所獨案内(天保年間)の日本橋
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の日本橋
明治41年、昭和7年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の堂島付近(今昔マップ3)


(第2回 第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D この地図の左上の水面は何でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪陸軍衛戍病院
B 大手前病院
C 大坂東町奉行所と大坂代官所
D 水面は寝屋川。少し下流で大川に合流する。



 衛戍病院は、明治 3(1870)年に開院した最初の陸軍病院で昭和に入り「大阪陸軍病院」に改称、各地に分院が出来「第一陸軍病院」となって終戦。衛戍(えいじゅ)とは、大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久に一つの地に配備駐屯することをいい、その土地を衛戍地と称しました。

浪華名所獨案内(天保年間)の京橋付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の京橋付近
明治41年、昭和4年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の京橋付近(今昔マップ3)


(第2回 第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D この地図の右下の水面は何でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪陸軍偕行社
B 追手門学院
C 京橋口曲輪(篠の丸)
D 右下の水面は大阪城の堀


 偕行社は陸軍将校の将校倶楽部で付属小学校を併設していた。戦後も軍人の親睦組織「偕行社」として存続している。

大阪市街大地図(大 正14年発行)の京橋口付近

明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図(今昔マップ3より)


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html