2016年8月11日木曜日

御堂筋と堺筋

『生きた建築ミュージアム フェスティバル大阪2015』(通称:イケフェス大阪201)が、平成27年10月31日(土)、11月1日(日)の2日間を中心に開催されます。
『イケフェス大阪』は、まちを1つの大きなミュージアムと捉え、そこに存在する‘生きた建築’を通して大阪の新しい魅力を創造・発信しようとする取り組み(生きた建築ミュージアム事業)の一環として実施されるもので、参加建物数、プログラム数ともに日本最大級の建築公開イベントです。

御堂筋及びその周辺を中心とするエリア(キタ、中之島、船場、ミナミ、新世界等)で、普段はめったに入ることのできない‘生きた建築’の内部公開やツアー、トークセミナーなど、様々なプログラムが実施されます。‘生きた建築’のうちから、特に新たな都市魅力の創造・発信に資すると認められるもの50件が「生きた建築ミュージアム・大阪セレクション」として選定され、公表されています。その多くが、御堂筋、堺筋の周辺に立地しています。

また、住まい情報センターでは連続セミナー「住まいの大阪学」を毎年開催しています。今年は9月12日(日)、10月11日(日)、11月15日(日)の3回にわたって、「『大阪と建築』-大阪を華やかに彩る名建築」をテーマに開催します。また、10月31日(土)には、特別企画【建築に会いに行こうツアー】として、住まい情報センターを起点に、生きた建築ミュージアムを見に行くツアーを開催します。

そこで、御堂筋と堺筋を中心に、船場、島之内、難波周辺のまちの変遷を振り返ってみましょう。

[船場と島之内]

図は江戸時代天保年間の大坂のまちを描いた「浪華名所独案内」です。この図は、東を上に描かれており、海から眺めた大坂のまちの姿になっています。

図の横方向(南北)に水色で、上から東横堀、西横堀が、縦方向(東西)に、左から大川、長堀、道頓堀が描かれています。大川は中之島を挟んで、土佐堀川、堂島川に分かれています。西横堀から西には、江戸堀、京町堀、阿波座堀、立売堀が並んでいます。多くの橋が描かれており、水の都の様相がよく現れています。
浪華名所独案内の船場・島之内

東横堀と西横堀の間が中心市街地で、大川から長堀の間が「船場」、長堀から道頓堀の間が「島之内」と呼ばれていました。東横堀より東側の御城のある側は「上町」、西横堀よりも西側は「西船場」「堀江」と呼ばれていました。

道路を見ると、図の中央部南北(横方向)に、堺筋通り、心斎橋通りが描かれ、長堀橋、日本橋、心斎橋、戎橋の名前も見えます。この2本の道が、船場、島之内を突き抜けるメインストリートになっていた様子がよくわかります。(この図では、南北の道も「通り」と表記されています。東西の「スジ」もいくつか見られ、当時は、東西は通り、南北は筋という明確な使い分けは無かったようです。)

東西(縦方向)の通りを見ると、伏見町、道修町、淡路町、安土町、本町、久宝寺町、順ケイ町などの名前が見えます。通り名は入っていませんが、今バシ、カウライバシ(高麗橋)、シアンバシ、ノウニンバシ、安堂寺バシ、九ノ介バシ、瓦ヤバシといった橋の名前が書かれています。

今橋通に面して、平五、天五、鴻池の両替商、高麗橋通に面して、升屋岩城呉服店、三井呉服店(後の三越)、秤座、スルガヤ、玉露堂、虎屋饅頭、三井両替店などがあります。
浪華名所独案内の今橋・高麗橋付近
通の名前がそのまま町の名前になっていて、大坂城に近い東側から1丁目、2丁目・・・と呼ばれていました。大店(おおだな)は、東横堀に近い1丁目から堺筋あたりの2丁目に多くありました。
東横堀(外堀)より東は城の内側ということで、内平野町、内淡路町、内本町のように町名に内が付きます。町名と何丁目だけで大体の場所がわかる便利な仕組みになっていました。

堺筋は和歌山へ至る紀州街道の一部にあたり、船場から堺へ出る道であったことから堺筋と呼ばれました。当時から人通りが多く、南北方向のメインストリートでしたが、大川には橋がありませんでした。西国や北摂など大川以北からの人通りは、大川に難波橋が架かっている一筋西の難波橋筋に通じていました。

現在では北御堂、南御堂と呼ばれている2つの御堂が、西御堂、東御堂となっているのは、西本願寺別院(津村御堂)、東本願寺別院(難波御堂)からの呼称のようです。方角による位置関係よりも建物の由来からそう呼ばれていたと考えられます。この地図では東が上に描かれていますから、ちょうど京都の西本願寺、東本願寺と同じような並びになっています。
浪華名所独案内の御堂筋付近
2つの御堂の前(東側)の道が御堂筋ですが、幅は3.3間(約6メートル)で、北は御霊宮まで、南はイナリ社を経て長堀までしかなく、長堀には橋はありませんでした。御堂筋と呼ばれていた区間は淡路町から博労町間のみで、御霊宮から北へは一筋東の淀屋橋筋が土佐堀まで通じていて、淀屋橋、大江橋、蜆橋を経て曽根崎新地までつながっていました。

当時の御堂筋は、淀屋橋筋とは西に少しずれており、どちらも幅6メートルほどの狭い道で、堺筋・難波橋筋・心斎橋筋などと比べて見劣りのする、人通りの少ない道でした。昭和に入り、關一市長によって、地下鉄の建設とセットで24間(43.6メートル)に大幅な道路拡張がほどこされ、一躍大阪を代表する道路へと様変わりしました。


[市電建設と道路拡幅]

明治維新前後の社会混乱や経済制度の変革、東京への遷都などにより、近代の大阪は一時衰退に陥りますが、その後我が国産業革命の発祥地となり、近代商工都市としての道を歩みはじめ、近代日本の発展に大きく貢献しました。こうした都市発展の過程で、鉄道、港湾、街路、上下水道、社会福祉をはじめとする市民サービスの充実などが実施され、近代都市づくりのパイオニアとしての役割を果たします。

大阪市電の第一期線は、明治36年(1903年)に花園橋(現在の九条新道交叉点)から 築港桟橋(現在の大阪港/天保山)の間5.1kmの築港線が開業しました。天保山に開港したばかりの大阪港へのアクセス路線でした。

続いて明治41年(1908年)の第二期線(東西線・南北線、11.1km)開業で、市街を東西南北に結ぶ骨格が形成されました。第三期線は、全13路線、総延長43.2kmに及ぶ巨大プロジェクトで、この中には、昭和8年(1933年)に当時の關一市長(第17代關淳一市長の祖父)によって地下鉄が整備されるまで大阪市の南北を走るメインストリートであった堺筋を走る堺筋線や、戦後、千日前通として整備されることになる大阪市の東西の幹線の九条高津線も含まれていました。さらに、第四期線25.2kmそして期外線と急速に延長され、最盛期は約118kmと、市電では日本有数の路線となりました(東京都電に次いで日本第2位)。市電の建設に合わせて道路の拡幅、橋の新設・架け替えが行われ、短期間に都市のインフラの整備が進みました。また、沿道の建物の更新が促進され近代都市としての発展につながりました。


[大正時代の堺筋]

江戸時代の大坂は東西方向の道路が主で4.3間幅であったのに対し、従である南北方向の道路は3.3間幅しかなく、堺筋といえども例外ではありませんでした。

明治41年(1908年)に日本橋3交差点 - 恵美須交差点間が拡幅され、大阪市電南北線が敷設され、次いで、明治45年(1912年)に北浜1交差点 - 日本橋3交差点間が12間(約21.8m)に拡幅され、大阪市電堺筋線が敷設されました。

この際に、大川北岸の天満へ向けて、難波橋に市電を通すことに対して反対運動が起こり、そのため、大正4年(1915年)に堺筋に新・難波橋(現在の橋)が架けられ、天神橋1交差点 - 北浜1交差点間に大阪市電天神橋西筋線が敷設されました。完成後旧・難波橋は撤去され、難波橋筋の役割が加わった以降の堺筋は人通りが倍増しました。
下の地図は大正3年発行の大阪市内詳細図で、新旧の橋が両方架かっています。新橋には「大川橋」の名称が付けられています。
大阪市内詳細図(大正3(1914)年)の難波橋付近
大正6年(1917年)には三越が高麗橋に、大正10年(1921年)には白木屋が備後町に、大正11年(1922年)には高島屋が長堀橋筋に、大正14年(1925年)には松坂屋が日本橋筋に店を構えるなど、堺筋には4つの百貨店があり、大正時代から昭和初めにかけての大大阪と呼ばれた時代、堺筋は大大阪のメインストリートとして繁栄を極めていました。


[大阪市パノラマ地図に見る堺筋とその周辺]

このころの様子を、大正13年(1924年)に発行された「大阪市パノラマ地図」で見てみましょう。
南西上空から見た鳥瞰図で、主な建物や橋の姿、道路や鉄道が忠実に描かれていますので、当時の雰囲気を感じることができると思います。北から南へ見ていきましょう。

(北船場)
1枚目は、北浜から本町2丁目(現在の堺筋本町)にかけての北船場です。
大阪駅前から来た市電は淀屋橋で東に曲がり、北浜で南に曲がって進み本町、日本橋、恵美須町を結んでいます。

難波橋は、堺筋に架け替えられた新しい橋が描かれています。建設当初は旧難波橋があったため大川橋と呼ばれていましたが、旧難波橋の撤去後は、堺筋にあっても難波橋と呼ばれています。
淀屋橋から南に続く道は淀屋橋筋で、北御堂・南御堂の前(東側)の道が御堂筋、いずれも拡幅前で、幅は3.3間(約6メートル)でした。
大阪市パノラマ地図の北船場
高麗橋付近を拡大しました。この図には、4つの百貨店のうち三越が高麗橋に、白木屋が瓦町に見えます。
三越の南に小西儀助商店(コニシボンドで有名、重要文化財)があり、3階があるのがきちんと描かれています。生駒ビルヂングは昭和5年竣工ですので、まだ建っていません。
大阪市パノラマ地図の高麗橋・平野橋付近
大阪くらしの今昔館8階近代のフロアに展示している模型「住まいの大阪六景」のひとつ「北船場」の写真です。

昭和7年(1932年)、御堂筋が拡幅される前、堺筋がメインストリートとして近代化されていく昭和初期の北船場の街並みが1/100のスケールで復元されています。

伝統的な町家が建ち並んでいた江戸時代の旧大坂三郷は、近代化を進めるうえで狭い道路が障害となっていました。それは江戸時代以来、町家が軒下空間を取り込んだりして道路を狭めていたためです。そこで実施されたのが「軒切り」とよばれる都市改造で、明治の終わりから昭和の初めにかけて行われました。

この軒切りを機に大阪の都市景観は大きく変貌し、本2階建てや3階建の町家、洋風建築などの新しい形式の建物が現れてきました。また、町家の内部も、店の間を板敷きの事務所とするなど、近代化に対応して生活様式や商売の形態が改造されました。

堺筋はもともと3.3間(約6メートル)幅でしたが、拡幅によって12間(約21.8メートル)と3.6倍に拡げられました。それに合わせて町家で商売をしていた〇〇商店から、近代的なビルに建て替わるところも見られました。昭和5年(1930年)に建設され、現在も残り登録文化財に指定されている生駒ビルヂングはその一例です。


(南船場)
次のパノラマ地図は、本町2丁目から長堀橋にかけての南船場です。
堺筋の停留所は、本町2、久太郎町、博労町、長堀橋となっていて、東西に長い通り名・町名ですが、そのまま停留所名になっています。
長堀に架かる橋が長堀橋となっていることは、堺筋がメインストリートであった証しでもあります。
本町通の停留所は、本町2、本町3、本町4、長堀通の停留所は、長堀橋、三休橋、心斎橋、四ツ橋となっています。
大阪市パノラマ地図の南船場
パノラマ地図では、市電は太い線で描かれていて、国鉄や私鉄よりも目立つ表示となっています。また、車両の絵が描かれているところが停留所(電停)で、長堀橋のような大きな交差点には4台の車両が描かれていて、方面別の停留所の位置がわかります。芸の細かいところです。

長堀に架かる橋は、板屋橋、長堀橋、藤中橋、中橋、三休橋、心斎橋、佐野屋橋、角屋橋、吉野屋橋、西長堀橋となっています。御堂筋には橋はありません。
大阪市パノラマ地図の長堀橋付近

(島之内)
次は、長堀橋から日本橋にかけての島之内付近です。
長堀橋の南に高島屋がありました。現在のなんばに店を構えるのは御堂筋が工事中の昭和7年(1932年)のことで、南海店として開店しました。

心斎橋付近を見ると、大丸が心斎橋筋に面して建っています。拡幅後に御堂筋側にも入り口ができます。そごうは、村野藤吾さん設計の建物ができる前です。漢字で「十合」と書かれています。
御堂筋には長堀と道頓堀に橋が架かっていないのもよくわかります。御堂筋の拡幅に伴い、長堀に架けられた橋が「新橋」、道頓堀にかけられた橋は「道頓堀橋」です。
どちらもそのまんまの名前です。それでも、新長堀橋よりはよかったのかもしれません。長堀橋とは場所がだいぶん離れていますから、間違うと大変ですから・・・。
大阪市パノラマ地図の島之内
道頓堀付近を拡大すると、目につく建物としては、千日前に楽天地があります。大正3年(1914年)から昭和5年(1930年)まであった劇場・演芸場・レジャーの殿堂で、大正時代の大阪を代表するハイカラな名所でした。現在のビックカメラの位置にあたります。

道頓堀には、浪花座・中座・角座・朝日座・弁天座の道頓堀五座が描かれています。道頓堀に架かる橋は、日本橋、相生橋、太左衛門橋、戎橋、新戎橋、大黒橋となっています。
大阪市パノラマ地図の道頓堀付近
(日本橋から南方面)
次は、日本橋から南、現在のでんでんタウン周辺です。
市電がクロスする大きな交差点が日本橋筋1丁目(日本一:にっぽんいち)、難波からくる市電と三叉路になっているところが日本橋筋3丁目です。日本橋筋4丁目、5丁目にも停留所があります。このあたりでは、大阪城に近い北から1丁目2丁目・・・となります。3丁目と4丁目の間に松坂屋があります。松坂屋が天満橋へ移転した後は高島屋別館になっています。

南海電車の難波駅の右手、地図の中央に赤レンガの煙草専売局の建物が目立ちますが、ここに昭和25年(1950年)に大阪球場が建設されました。現在は再開発されてなんばパークスとなっています。この地は江戸時代には幕府の米蔵(難波御蔵)が置かれていたために、新住居表示以前の町名は(難波)蔵前町という町名でした。蔵に米を運び入れるため道頓堀から水路が通じています。現在は水路は埋め立てられて、上空を阪神高速道路が通っています。
大阪市パノラマ地図の日本橋・難波付近
(恵美須町付近)
次は、日本橋筋3丁目から恵美須町、霞町にかけてです。現在のでんでんタウンの南辺りになります。
水路は、道頓堀から分かれる支流で、江戸時代は幕府の米蔵を結んでいました。

左上が日本橋筋3丁目、中央の市電がクロスする大きな交差点が恵美須町、交差点の右側(南東)が新世界、天王寺公園です。第五回内国勧業博覧会(明治36年:1903年)の跡地を、西半分を民間で、東半分を市で整備したものです。エリアの四周を市電が走っています。

天王寺公園には動物園、植物園、市民博物館、美術館、公会堂、勧業館があります。現在の市立美術館は赤いラベルの「天王寺公園」の文字の下の広場に建っています。

図の右手が天王寺駅、天王寺公園の右上の道路は谷町筋です。四天王寺の北までしか拡幅できていないため、市電は一筋東の上町筋に迂回して走っていました。
大阪市パノラマ地図の日本橋・新世界付近
拡大してみると、恵美須町交差点の角には戎警察があります。交差点の北西、地図では左下に戎神社、水路を挟んで北側に廣田神社が見えます。
交差点の南東、右側には新世界があり、初代通天閣と、その南にルナパークとホワイトタワー、ロープウェイも見えます。さらに南に国技館、市電天王寺車庫があります。
大阪市パノラマ地図の恵美須町付近

[地下鉄の建設と御堂筋の拡幅]

大阪市助役から市長となった關一市長の都市計画により、昭和元年(1926年)から地下鉄御堂筋線建設と合わせて御堂筋を24間(43.6メートル)幅へ拡幅する工事が行われました。

淀屋橋交差点以北は先に整備されていた梅田新道がベースとなっており、明治44年(1911年)の大阪市電敷設の際に12間幅に拡幅されていたこともあって、大江橋北詰交差点以北の拡幅工事は昭和2年(1927年)に早々と竣工しました。一方、淀屋橋交差点以南は近世以来の3間幅からの拡幅工事となり、用地買収に時間がかかって昭和4年(1929年)にようやく着工することができました。

工事はまず地下鉄の建設から始まり、昭和8年(1933年)5月20日に梅田駅(仮駅)から心斎橋駅間(3.1 km)が開業しました。次いで、昭和10年(1935年)10月6日に梅田駅本駅が開業し、10月30日に心斎橋駅から難波駅間(0.9 km)が開業しました。

最初に開業した梅田駅から心斎橋駅の各駅のホームはドーム状の高い天井とシャンデリア風の蛍光灯照明を有していました(本町駅のみ支柱のある天井)。御堂筋線の特徴でしたが、混雑緩和のためホームと天井の間に中二階のコンコースが作られ、現在では高いドーム天井のまま残っている部分が少なくなっています。

開業当初、御堂筋線はわずか1両編成での運転だったにも関わらず、当時からすべての駅のホームが、将来を見越して17m級車による8両編成に対応するように建設されていました。当初は17m級車の12両対応で建設が進められましたが、あまりに過剰投資が過ぎるとして中津以北および大国町以南については8両対応に計画変更されました。このため現在でも、地下設備についてはほとんど手直しなしで当時よりやや大型の18m級車による10両編成で運行を行っています。

こうして地下鉄を先に開業させた後、地上の道路の整備が行われ、昭和12年(1937年)5月11日に竣工しました。新橋(長堀川)、道頓堀橋(道頓堀川)が架橋されたのはこの時でした。北御堂と南御堂とがともに沿道に並ぶ形になったため、全線が「御堂筋」と名付けられ、淀屋橋以南の街路樹はイチョウで、軌道がない一直線の目抜き通りとなりました。

商業施設はいち早く、一般企業の多くも戦後御堂筋へ移転し、メインストリートとしての地位も堺筋から御堂筋へ移ることとなりました。
現在の北御堂
現在の南御堂
古地図と写真を見ながら御堂筋と堺筋周辺のまちの変遷をたどってきました。江戸時代の大坂のまちは東西の通りを中心にした構造でしたが、南北の筋の中では堺筋と心斎橋筋がメインストリートとして栄えていたこと、大正時代には道路の拡幅と市電の建設によって堺筋が優位となり、4つの百貨店をはじめ多くの近代建築が建てられて繁栄したこと、昭和に入り地下鉄の建設と堺筋の2倍の24間という大幅な拡幅によってメインストリートの地位が御堂筋に移ったことが確認できました。
今年2015年は、大大阪発展のきっかけともなった大正14年(1925年)の第2次市域拡張からちょうど90周年になります。こうした重層的なまちの歴史を頭の片隅に置きながら、「イケフェス大阪2015」、「住まいの大阪学」に参加していただければと思います。
大阪市パノラマ地図と大阪市内詳細図は国際日本文化研究センターさんから、浪華名所独案内はちずぶらりさんからお借りしました。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
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