今回の地図は、第2回でも紹介しましたが、江戸時代天保年間の古地図「天保新改攝州大阪全圖」です。
天保新改攝州大阪全圖(天保8 (1837)年)の長堀通から四天王寺付近 |
第2回のゴール地点であった榎木大明神をスタートして、安堂寺通を東へ向かうこととしますが、地下鉄長堀鶴見緑地線松屋町駅から榎木大明神に向かう途中で面白いものを見つけました。
長堀通の上に橋がかかっています。歩道橋ではなさそうです。橋の下まで行ってみました。上に上がる階段は付いていません。
長堀通の上に橋がかかっています。歩道橋ではなさそうです。橋の下まで行ってみました。上に上がる階段は付いていません。
長堀通の上に橋が架かっている |
橋の下から見上げたところ |
松屋町の交差点まで引き返すと、交差点から東に向かって石段があります。これを登るとさっきの橋の上に出れそうです。正面には再生町家で有名な「練」が見えています。
松屋町交差点の石段、正面に「練」 |
再生町家「練」の門 |
再生町家「練」 |
再生町家「練」の玄関 |
「練」を見たのち、北へ向かうとさっきの橋に出ます。高津原橋(たかつはらばし)となっています。「練」の前の道路が長堀通を跨いでいます。通行が多いのか車道の脇に歩道が付いています。北側へ渡ったのちに振り返ってみると、橋の中央がかまぼこ状に盛り上がっているのがよくわかります。
高津原橋(たかつはらばし) |
高津原橋から長堀通を見る |
高津原橋 |
高津原橋を北側から見る |
車道が車道を跨ぐ「高津原橋(たかつはらばし)」は大阪では珍しいですが、いつごろからあるのでしょうか?長堀通は市電の敷設に合わせて拡幅された道路ですから、その時に架けられたのだと思われます。そこで、いつもの大阪市パノラマ地図で確認してみましょう。大正13年発行の地図です。
大阪市パノラマ地図の高津原橋付近 |
末吉橋を渡った市電は、真東よりもやや北へ向きを変えて斜めに上町台地を登ります。長堀通の南北にはよく見ると石段が描かれています。市電が登れる勾配となるように切通しが作られて、これだけの大きな段差ができたので、上に高津原橋(たかつはらばし)が架けられたようです。
高津原橋で寄り道をしてしまいました。今回のスタート地点の榎木大明神へと向かいます。長堀通から榎木大明神にあがる石段です。20段以上あります。石段を登り最初の角が安堂寺通です。この道が熊野街道と推定されています。東へ向かうと、歩道に熊野街道のプレートが埋め込まれていました。間違いありません。
高津原橋で寄り道をしてしまいました。今回のスタート地点の榎木大明神へと向かいます。長堀通から榎木大明神にあがる石段です。20段以上あります。石段を登り最初の角が安堂寺通です。この道が熊野街道と推定されています。東へ向かうと、歩道に熊野街道のプレートが埋め込まれていました。間違いありません。
榎木大明神の石段 |
榎木大明神 |
安堂寺通の歩道に埋められたプレート |
さらに東へ進むと、通りの南北に町家が残っています。戦災を受けていないエリアですので以前は町家が軒を連ねていましたが、多くがマンションに建て替えられて、点々と残っている感じです。3階建ての立派な町家もあり、お蕎麦屋さんになっていました。
安堂寺通の町家 |
安堂寺通の三階建て町家(蕎麦屋) |
熊野街道の案内碑 |
谷町筋との交差点には熊野街道の案内碑がありました。谷町筋を東へ渡ります。横断歩道から右手(南)を見ると、正面にあべのハルカスが見えています。さらに東へ進むと、防火対策のためにスクラッチタイルでおおわれた町家が残っていました。昭和初めの建物でしょうか?
谷町筋を東へ渡る |
谷町筋の南を望む、正面にハルカス |
内安堂寺町の町家(スクラッチタイル) |
熊野街道は次の角で右に曲がり南へと向かいます。長堀通との交差点の北側には、案内碑と歴史の散歩道のつたい石がありました。間違いありません。長堀通りを南へ渡ります。
熊野街道の案内碑と歴史の散歩道のつたい石 |
長堀通を南へ渡る |
長堀通を南へ渡り、五十軒筋を南へ進みます。渡ってすぐの右手にある町家です。2階の軒裏が銅で覆われています。うだつが上がり、防火対策がされています。
さらに南へ進むと、左手に「かえでギャラリー」があります。
熊野街道(五十軒筋)の町家 |
かえでギャラリー |
かえでギャラリーの南側に路地があるので、入ってみます。路地の南北に長屋が建っていて、再生されて活用されている様子でした。
かえでギャラリー裏の長屋 |
かえでギャラリー裏の長屋 |
五十軒筋に戻り、南へと進みます。右手に2階の壁面と軒裏が全面銅で覆われた立派な町家がありました。五十軒筋は空堀通りで付き当たりになっています。熊野街道はここで左に曲がり、一筋東を南へ向かいます。角に案内碑が建っていました。間違いありません。
五十軒筋の町家(銅板で覆われている) |
五十軒筋は空堀通に突き当たる |
熊野街道の案内碑 |
空堀通の東を望む |
熊野街道は次の角で右に曲がり南へと向かいます。急な坂道を下っていきます。地元では温泉坂と呼ばれているようです。坂を下りると右手に銭湯「桃谷湯」がありましたが、廃業してガレージになっていました。残念。さらに進むと左手に中学校、右手には立派な町家があります。町家の奥には洋館もあり、大きな敷地です。門の脇にはソーマ化粧品株式会社の表札があり、想真観音と書かれた石碑がありました。工場は移転したそうですが、創業の地に本社を残しているとのことでした。
空堀通から温泉坂を下る |
銭湯が廃業してガレージになっている |
町家の奥には洋館もある |
想真観音 |
上町中学校の地は、大阪市パノラマ地図で確認すると、盲唖学校となっています。前の道には「モモダニ丁」と書かれていて、このあたりの町名が桃谷町であったことがわかります。銭湯が桃谷湯であったことも納得できます。
盲唖学校の左上には名前は書かれていませんが桃谷小学校も描かれています。統廃合になって現在は公園や福祉施設等になっています。空堀に桃谷があるので不思議に思われる方もあると思います。詳しくはこちらをどうぞ。
石段も描かれていて急な坂であったことがわかります。冒頭の地図を見ると、このあたりは瓦土取り場となっていて、土が掘られた跡が窪地になったものと考えられます。
大阪市立上町中学校 |
上町中学校付近を大阪市パノラマ地図で見る(盲唖学校の左上には桃谷小学校もある、左には桃谷湯の煙突もある。) |
中学校の前から坂道を上がると楠通りに出ました。角から右手(西)をみると道路の真ん中に楠木大明神の御神木が立っています。パノラマ地図にもそれらしき木が描かれていて、道路の拡幅の際に道の真ん中に御神木が残されることになったようです。たぶん崇りを恐れて切ることができなかったのでしょう。
中学校から南へ坂道を登る |
道路の真ん中に御神木 |
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第1回はこちらからどうぞ。
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