2016年8月11日木曜日

熊野街道ちょっと散歩(第3回)


 熊野街道ちょっと散歩、第1回第2回で八軒家浜から長堀通手前の榎大明神までやってきました。今回は、寄り道というか熊野街道からはちょっと脱線しますが、見どころの多い西の方を歩いてみることにします。

 今回は、昭和3年(1928年)発行の最新大大阪市街全圖を見ながらまち歩きを楽しむこととします。まず、少し広い範囲を地図で見てみることにします。
 太い赤線は当時のメインの交通手段である市電です。縦方向(南北)は右から上町筋、谷町筋、堺筋、四ツ橋筋です。御堂筋の完成は昭和12年です。横方向(東西)は上から、土佐堀通、本町通、長堀通です。本町通の南に中央大通が完成するのは昭和45年です。図の中央部を南北に流れる川が東横堀川、地図の左端四ツ橋筋の東を流れる川が西横堀川です。

昭和3年(1928年)最新大大阪市街全圖でみる東横堀周辺

 京阪・地下鉄の北浜駅を出発し、4月2日に放送が終了したNHKの朝ドラ「あさが来た」ゆかりの地を巡りながら、東横堀川に沿って散歩し、内本町を目指すことにします。

 北浜駅の構内でも、あささん、はつさん、新次郎さんがパネルで出迎えてくれました。「あさが来た」の舞台・大阪へようこそ!
北浜駅にも「あさが来た」のパネル
 地上に出ると、北浜交差点の南東角、大阪取引所前に、五代友厚氏の銅像があります。
大阪取引所前の五代友厚像
 近くにもうひとつ五代友厚像がありますので、西へ寄り道して光世証券のビルへ足を延ばしました。
光世証券ビル
五代友厚座像(握手ができます)

説明パネルもあります
 ここで引き返して、土佐堀通を東へ進みます。
 北浜交差点を過ぎると、建替えられた新しいビルの間に、かわいいビルがぽつんとあります。北浜レトロビルヂングです。生きた建築ミュージアムの「大阪セレクション」にも選ばれています。

北浜レトロビルヂング
北浜レトロビルヂング玄関
 ちょっと進むと、一軒だけ町家も残っています。
ビルに挟まれた町家
 さらに東へ進むと、建て替えが終わった花外楼のビルが見えてきます。
建替えられた花外楼のビル
 花外楼の玄関には、大阪会議開催の地の碑と銘板があります。大阪会議は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助・伊藤博文・井上馨らが大阪に集い、今後の政府の方針および参議就任等の案件について協議した会議です。五代友厚は2月11日の会議には参加していませんが、影の立役者であったようです。詳しくはこちらをどうぞ。
花外楼玄関の大阪会議開催地の石碑

花外楼命名の銘板
 隣のビルの壁面には、大阪会議に参加した5人のレリーフが掲示されています。
大阪会議に参加した5人のレリーフ
 南に進み開平小学校に向かいます。ここは平成2年に愛日小学校と集英小学校とが統合して開設された学校です。
統合記念の碑
集英小学校跡の碑
 今橋通に面したこの地は、江戸時代に有力両替商の天王寺屋と平野屋があった場所で、両家とも代々「五兵衛」を名乗っていたので、「天五」「平五」と呼ばれていたそうです。「二人の五兵衛」の豪邸が並ぶことから「十兵衛横町(よこまち)」とも呼ばれており、「天五に平五 十兵衛横町」と刻まれた石碑が、今も残っています。あさの姉のはつが嫁いだ山王寺屋のモデルはこの天王寺屋です。

天五に平五十兵衛横町(よこまち)の石碑
 また、この小学校と隣地との間には、両側町である船場ならではの2つの町の町名表示が並ぶ町境があります。小学校の門柱には旧校舎のタイルが保存され埋め込まれています。
今橋と北浜の町境(今橋が小学校側)
 土佐堀通に戻り東へ向かうと、まもなく東横堀川です。
東横堀川は大坂城の外堀であり、堀の東側は上町(内町)、西側は船場となっています。内本町、内平野町、内淡路町のように船場の町名に「内」がついて上町の町名となっているものもあります。
 東横堀川には北(上流)から順に、土佐堀通に葭屋橋(よしやばし)、今橋、高麗橋、平野橋、大手橋、本町通に本町橋、農人橋、久宝寺橋、安堂寺橋、長堀通に末吉橋が架かっています。もともと城の外堀であったことから、西横堀川と比べると橋の数が制限されています。このうち幕府が管理する公儀橋は高麗橋、本町橋、農人橋の3つだけで、残りは町人が管理する町橋でした。

 葭屋橋(よしやばし)は、俗に築地と呼ばれた蟹島遊廓への通路として設けられたものです。この遊廓は天明4年 (1784)、葭屋庄七らによって開発されたもので、橋も天明年間に架設されたと考えられます。蟹島の地は大川の眺望が非常によく、料理屋、旅館などが建てられ発展しました。土佐堀通が現在のように広くなったのは、市電敷設事業によるもので、葭屋橋は明治43年(1910年)7月に近代的な橋への架け替えが完成し、10月には市電が開通しています。

 葭屋橋の東詰は今橋とV字型につながっており、阪神高速道路のランプにもなっています。
 今橋は、大阪市のホームページによると、大坂の陣の様子を描いた絵図にこの橋の名が記されていることから、豊臣時代には既に存在したと考えられます。江戸時代には、橋の西側に平野屋五兵衛、天王寺屋五兵衛など大物両替商が軒を並べ、大坂の金融の中心地でした。また北浜には寛保3年(1743年)金相場会所が設けられ、明治11年(1878年)証券取引所が設立されるまで、金銀銅三貨の取引がこの地で行われました。元禄の頃の資料に、橋長75.8m、幅員5.5mと記されており、町橋としては規模の大きなものでした。橋のたもとから尼崎方面への乗合船が出ていたとの記録もあります。
江戸時代天保年間の船場・中之島・堂島付近(浪華名所獨案内)
 今橋は大正13年(1924年)に近代橋になりましたが、戦後、東横堀川に沿って阪神高速道路が建設されたときに若干の改造が加えられました。その後老朽化が進んだため、平成6年(1994年)に現在の橋に架け替えられています。
今橋
今橋の銘板

 高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9(1604)年には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていました。高麗橋という橋の名の由来には諸説ありますが、古代・朝鮮半島からの使節を迎えるために作られた迎賓館の名前に由来するというものと、豊臣秀吉の時代、朝鮮との通商の中心地であったことに由来するというものが主なものです。

 高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えませんでした。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。通りの南北に櫓屋敷がありました。

 この高麗橋は幕府が直接管理する公儀橋の中でも特に重要視されていました。京街道、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道、亀岡街道などの起点が順次高麗橋に変更されました。明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められました。
高麗橋

里程元標跡の碑
里程元標の説明

高麗橋の顕彰板

 明治3(1870)年にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていました。現在の橋は昭和4年(1929年)に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋です。欄干の擬宝珠や櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っています。
櫓屋敷を模した親柱

櫓屋敷のあった場所には日本経済新聞社

 高麗橋と平野橋の間には、平成12年に完成した東横堀川水門があり水位の調整を行っています。洪水被害を防ぐ役割、水質を改善する役割の他、道頓堀川水門と対になって船を通すための閘門となっています。船が通行する際にはパナマ運河のように閘門の役割を果たしています。
http://advice-navi.com/waterbus/aquamini/1course10.html


 まち歩きからは脱線しますが、こちらで水門の動きの動画を見ることができます。
https://www.youtube.com/watch?v=TrKA7TnZuXQ
https://www.youtube.com/watch?v=qzR6-o85tvo&nohtml5=False


 江戸時代の平野橋界隈は、東に神明神社、西に御霊神社があり、その門前の盛り場として賑わっていました。定期的に開かれる夜店は当時の大阪名物のひとつとされていました。平野町の名前の由来は定かではないが、御霊神社の祭神、早良(さわら)親王が京都の平野神社に祀られていたことからこの界隈が平野とよばれるようになったとされています。

 『地方役手鑑』などの資料によると平野橋は橋長61.8m、幅員4.1mとなっており、明治31年(1898年)の架け替え時の資料にもほぼ同規模の橋であったとの記録が残されています。
 現在の平野橋は昭和10年につくられたもので、逆ランガー桁とよばれる珍しい形式で、この形式の適用は世界で初めてであるといわれています。アーチ部材が細くスマートな印象を与える橋です。

平野橋(遠景)
平野橋の桁とアーチ

平野橋の桁とアーチ

 大手橋は、古くは思案橋と呼ばれていました。大阪城の大手門に通じる大手通にあたりますが、橋の西側は行き止りになっています。橋を渡って左右どちらに行くか迷うために思案橋と呼ばれるようになったとされます。(他の説もあります。)
大手橋西詰は行き止まりとなっている

大手橋を東へ進むと大阪城の大手門に通じる
 大手通という町名が付いたのは明治以降のことで、大手橋と名付けられたのは大正時代になってからです。大手橋が近代橋になったのは大正15年、第一次都市計画事業によってです。三径間のコンクリートアーチが採用されています。


大手橋のアーチ

大手橋のアーチ
 東横堀川の橋はアーチが多く、鋼とコンクリート製がほぼ交互に並んでいます。デザインもそれぞれ違っていて、独自の景観を作り出しています。偶然こうなったのではなく、設計担当者の意図が働いていたものと考えられます。
 建設後60年以上経ち、床版や橋面の損傷が著しくなっていたため、平成元年度に改修工事が行われ、これに合わせて顕彰碑が設置されました。

大手橋の欄干
大手橋の顕彰碑
 大手橋から南へしばらくは橋がなく、次の橋は本町通に架かる本町橋となります。本町橋は、豊臣秀吉が大坂城築城に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられており、江戸時代には公儀橋の一つとして幕府が直轄管理する橋でした。橋の東側は商業地となり、今のシティプラザ大阪の前には石畳が敷かれ荷揚場になっていました。

 天明7年(1787年)の調査によれば、橋長約54m、幅員5.9mの木橋であったとされています。現在の橋は、本町通が市電道路として拡幅された大正2年(1913年)5月に架け替えられたもので、現役の橋としては大阪市内で最古の橋です。3連の鋼アーチが、ルネサンス風のデザインをもつ石造りの橋脚に支えられた重厚な構造の橋となっています。平成24年2月に大阪市指定文化財として指定されました。
本町橋のアーチ

本町橋は大正2年架橋(大阪市内最古)


船着場から本町橋のアーチを見る
 平成27(2015)年5月に本町橋東詰北側に東横堀川で初めての本町橋船着場が完成し、新しい舟運時代の幕開けとなりました。
本町橋船着場の案内板
本町橋船着場
本町橋船着場からのシティプラザ大阪
 本町橋の橋詰の北東側には享保9年(1724年)の大火事以降に西町奉行所が設置され、行政の中心地ともなりました。西町奉行所の跡には、明治以降、大阪府庁、博物場、商品陳列所、貿易館がおかれました。昭和3年の地図には「商品陳列」と赤地に白抜きの目立つ表示があります。現在は、シティプラザ大阪、大阪商工会議所、マイドームおおさかが建っています。
マイドームおおさか前
西町奉行所跡の碑

大阪府立貿易館跡、貿易専門学校発祥の地

大阪府庁跡の顕彰版
 大阪商工会議所ビルの前には、初代会頭である五代友厚氏はじめ、3体の銅像があります。戦争で供出となり戦後再建されたものです。
大阪商工会議所ビル
初代、七代、十代会頭の像が並ぶ
土台の側面に刻まれた文字

五代友厚君像

昭和28年の再建を示す銘文
 銅像の奥には商売繁昌を願って、稲荷神社が祀られています。
大阪商工会議所の稲荷神社
 松屋町筋を北へ進み、大手通を東へ向かい上町台地の西側斜面を登ります。一筋目の角の歩道上に石碑が立っています。これも、五代友厚氏ゆかりの大阪活版所跡の石碑です。
大阪活版所跡の碑

側面の説明文(五代友厚ゆかり)
 熊野街道の通る内本町1丁目に向かう途中、中大江公園の脇を通ると桜が満開で、お花見の場所取りが始まっていました。
中大江公園

中大江公園の桜
 第3回脱線の巻はここまでとします。
 地図は国際日本文化研究センターさん、ちずぶらりさんからお借りしました。
 橋の説明については、大阪市のホームページを参考にさせていただきました。

 続きはこちらからどうぞ。
 第1回からご覧になる方は、こちらからどうぞ。

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