大阪くらしの今昔館の七夕飾り |
大阪くらしの今昔館の「夏祭りの飾り」(公式ガイドブック「逍遥指南書」より) |
〇天神祭の歴史
大阪天満宮が創祀されたのは平安時代後期の天暦3年(949)のことです。その当時、都では落雷や疫病の流行などの天変地異が度重なり、人々はこれを配所で非業の死を遂げられた道真公の怨霊によるものと考え、その霊を鎮めるために「天満大自在天神」としてお祀りしました。いわゆる「天神信仰」の成立です。
〜天神祭の始まり〜
大阪天満宮が創祀された翌々年の天暦5年(951)に鉾流神事が始まりました。鉾流神事とは、社頭の浜から大川に神鉾を流し、漂着した場所にその年の御旅所を設ける神事で、御旅所とは御神霊がご休憩される場所のことです。この御旅所の準備ができると御神霊は陸路で川岸まで出御、乗船して大川を下り御旅所へ向かうルートを辿りました。 この航行が船渡御で、天神祭の起源とされています。
当時は旧暦6月に鉾流神事が行われ、6月25日に船渡御が行われたといいます。室町時代の宝徳元年(1499)の公家、中原康富の「康富日記」には7月7日に天神祭が行われたとの記録も残っており、また、戦国時代の公家、山科言経の日記「言経卿記」では、天正十四年(1586)6月25日に天神祭が記録されています。菅原道真の生誕の日に因んで旧暦の6月25日に変更されたといわれます。(明治11年、太陽暦の採用で7月25日に変更されました。)
なお、江戸初期の御旅所の常設にともない鉾流神事は中止されましたが、昭和5年(1930)に古式にのって復活しました。現在では7月24日の朝に旧若松町浜(天満警察署前)で斎行される鉾流神事は当初と同じく、天神祭の幕開け行事となっています。
〜江戸時代の船渡御〜
大坂の陣の戦火で一時吹田に避難した大阪天満宮でしたが、江戸初期に再び天満へ還座された後、天神祭の再開にあたっては鉾流神事で御旅所の地を決めるのをやめて、雑喉場町(西区)に常設の御旅所がおかれました。これによって船渡御のコースは固定化され、祭礼の一部始終を事前に計画できるようになりました。天満宮周辺の氏子・崇敬者が境内から川辺の乗船場まで徒歩で行列を組み(陸渡御)、乗船場からは船列を仕立てて下流の御旅所へ向かっていましたが(船渡御)、御旅所の常設後は天満宮周辺の氏子・崇敬者も御迎船を仕立てて川を遡行し、神霊奉安船と合流後に反転して、御旅所まで一緒に下航するようになったのです。
御迎船と御迎人形(大阪くらしの今昔館) |
御迎船と御迎人形(大阪くらしの今昔館) |
〜幕末・維新期〜
十四代将軍徳川家茂が長州再征のために来阪した時期、世情不安を理由に天神祭の渡御列は中止となり、慶応元年から明治4年までの6年間、本殿での祭儀のみが斎行されていました。戎島付近が外国人居留地になったという理由もあり、その船渡御の復興の際には、従来の戎島の御旅所ではなく松島に移転されました。しかし、明治6年以降、再び船渡御は中止されます。維新以来、大阪の経済は沈滞したことが最大の理由で、再び土砂の堆積をとって船渡御が復興されたのは明治14年のことでした。天神祭は今も昔も大阪経済とともに歩んできたといえるのです。
大正時代の天神祭船渡御(大阪くらしの今昔館) |
大正時代の天神祭船渡御(大阪くらしの今昔館) |
〜現在の天神祭の形に〜
昭和5年には江戸時代初期から途絶えていた鉾流神事が三百余年ぶりに復活されました。そして、第二次世界大戦後まもない昭和24年に、昭和13年以来中止されていた船渡御が再開されました。 ところが長年にわたる大阪一帯の地盤沈下のために大川の水位があがり、川に架かる橋の下を神輿が通れず、下流の松島にある御旅所への航行が不可能になったため、翌年(昭和25年)にはまたもや中止となりました。
歴史ある船渡御を継続させるため、昭和28年(1953)に大川を上流に遡って航行するという、今までとは全く逆の新しいコースの船渡御が復活しました。このコースが現在の船渡御のコースです。 これによって、御旅所で行っていた神事を御鳳輦奉安船で行うようになり、両岸の大群衆が見守る中で「船上祭」を斎行するようになりました。それ以来、コースを少しづつ伸ばしながら天神祭を代表する船渡御は続いています。
〜新たな試みへ〜
平成6年5月、関西国際空港の開港を記念して、大阪天満宮の神職および氏子・崇敬者ら約1000名がオーストラリアに渡り、ブリスベン市で天神祭を斎行しました。創祀以来、初めて異国で斎行された「天神フェスティバル」はその厳粛な祭儀と、豪壮華麗な渡御列によって、人々を魅了し大きな感動を与えました。
また、当初は天神祭が7月7日に行われていたことも有り、七夕の祭り、星辰信仰との関係が深いこと、大阪天満宮の境内にある「星合池」がそのなごりを留めていることを踏まえて、平成7年(1995)に天満天神七夕祭りが復興しました。
〇御迎人形
江戸時代、大坂の淀川沿いには諸藩の蔵屋敷が立ち並び、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場と三大市場の繁栄とともに、天神祭は盛大化していきました。
その江戸時代前期、町人文化(元禄文化)が花咲く元禄期に、御旅所は常設されました。この御旅所周辺の町々では、天神祭の様々な趣向を凝らした風流人形をこしらえました。これが、御迎船人形(御迎人形)の始まりです。
当時、船渡御を迎えるため、御旅所周辺の町々が祭礼に先立ち各町で飾り付け、祭り当日に船に乗せて御旅所から大川を上り、船渡御の一行を御旅所まで導く役割を担っていました。この頃に登場した御迎人形は、七寸八寸(2.4m)ほどの大きさで、船上に立てた棒の先に高く飾られていましたが、享保期(1716〜36)頃から約一丈五尺(4.5m)の大型人形も作られたといいます。
御迎人形の多くが、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物を題材としていました。 これらの人形は船上に設けられた舞台に人形をセットし、物語性が演出されるように工夫されました。文楽人形の細工人たちが作った御迎人形には頭や手足を動かすカラクリがほどこされていました。歌舞伎の見栄を切る人形もあれば恵比寿のように鯛を釣り上げる人形もありました。また、御迎人形が必ず赤(緋)色を身につけているのは「疫病(疱瘡)祓い」という意味があります。
多いときには延べ数は50体を超えたといわれる御迎人形ですが、現在は16体しか残っていません。幕末・維新期の天神祭の中止や大戦の影響などにより人形数は減少してしまいました。人形たちを支えた町はその姿を変え、戦後は人形が船に乗せられることもなくなったのです。現在、毎年、天神祭の時期に天満宮境内と帝国ホテルのロビーなどに数体ずつ飾られています。
酒田公時の御迎人形(大阪くらしの今昔館で展示中) |
【現存する御迎人形】
三番叟・雀踊・安倍保名・与勘平・酒田公時・関羽・胡蝶舞・鬼若丸・八幡太郎義家・羽柴秀吉・猩々・素盞嗚尊・鎮西八郎・佐々木高綱・木津勘助・豆蔵・恵比寿(頭のみ)
昭和48年に、このうち14体が大阪府の有形民俗文化財に指定されました。平成23年に残る2体も追加指定され16体が指定文化財となっています。
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