第5回第9問
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 市電が通っている道路のうち南北の道路の名前は?
E この学校は、どこに移転したでしょうか?
解答と解説
A 大阪府立夕陽丘女学校
B 空き地(猫の楽園)
C 天王寺町の雑木林、一部夕陽庵
D 谷町筋
E 天王寺区北山町
大阪府立夕陽丘女学校の歴史は、明治39年(1906)に大阪府立島之内高等女学校として設立が認可されたことに始まります。大阪市南区千年町(現・大阪市中央区東心斎橋2丁目)にあった大阪市立第二高等女学校の元校舎(もとは大阪市立千年小学校(大阪市立大宝小学校分校)の元校舎)を利用して仮校舎を設置しました。
明治41年(1908)には大阪市南区天王寺夕陽丘町(現・大阪市天王寺区夕陽丘町)の校舎に移転しました。移転直後の明治42年(1909)1月に、移転先の地名をとった大阪府立夕陽丘高等女学校へと改称しています。大阪市パノラマ地図には、このころの女学校の様子が描かれています。
昭和9年(1934)大阪府女子師範学校および附属小学校・附属幼稚園の跡地(現在地)に校舎を新築し移転しました。移転後の改称は反対運動が起こったため見送られています。
学制改革により、昭和23年(1948)に大阪府立夕陽丘高等学校が発足し、全日制普通科を設置しました。大阪府立天王寺高等学校(旧制大阪府立天王寺中学校)と男女生徒および教職員を交流して男女共学となりました。生徒交流については、夕陽丘・天王寺両校とも原則として関西本線線路を境に、北部在住者は夕陽丘高校・南部在住者は天王寺高校へ振り分けられることになりました。
直後の1948年5月にはGHQの指示により、天王寺高等学校の校舎が新制中学校校舎に転用されることになりました。これに伴い、校舎を明け渡した天王寺高等学校が夕陽丘高等学校内に移転して2校同居する形となりました。夕陽丘・天王寺の2校同居は昭和26年(1951)まで続きましたが、天王寺高等学校は1951年までに元の校舎へと復帰しています。
浪華名所獨案内の夕陽丘付近 |
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の夕陽丘付近 |
明治41年、昭和7年、昭和32年、最近の地形図の夕陽丘付近(今昔マップ3より) |
第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
≫ http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html
第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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第4回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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