第5回第7問
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名、道路名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 市電「東雲町」停留所のある道路の名前は?
E この学校の発祥の地はどこでしょうか?
解答と解説
A ウヰルミナ女学校
B 大阪女学院中・高・短大・大学
C 禰宜町(畑)吉右衛門肝煎地
D 長堀通
E 川口居留地22番地
1884(明治17)年「ウヰルミナ女学校」開校
大阪女学院のルーツであるウヰルミナ女学校(Wilmina Girls’School、維耳美那女学校)が、米国カンバーランド長老教会外国宣教局(mission)のミッションスクールとして創設されました。
創設者は外国宣教局の教育事業責任者A.D.ヘール(Alexander D.Hail)宣教師で、弟のJ.B.ヘール宣教師と協力して大阪市西区にあった川口外国人居留地19番Aとその隣接地22番(計約370坪)で開校しました。
校名は最初の寄付者 William Saunders のWilと、その妻 Ermina の mina を組合わせ、「ウヰルミナ女学校」と名付けました。
1886(明治19)年「大阪一致女学校」開校
大阪女学院のいまひとつのルーツである大阪一致女学校が、米国北長老教会宣教局のミッションスクールとして、教育宣教師のAnn E.Garvin校長を創設者として、川口外国人居留地16番(258.5坪)の宣教師館で開校しました。
校名は、宣教局が大阪で創設した教会を一致教会と称したので、「大阪一致女学校」と名付けられました。
翌1887(明治20)年に西区土佐堀3丁目の旅館を借り、改装してそこに移転し、さらに1888(明治21)年には西成群清堀村(現在の校地で、地名は幾度か変更した)に土地約2,400坪を購入し、校舎を新築して移りました。
1892(明治25)年、大阪一致女学校の校名を「浪華女学校」と改称しました。
1899(明治32)年文部省「訓令12号」発令
文部省は、訓令12号を発令し、法令による学校においては特定の宗教に基づいて教育を行うことを禁止しました。
ウヰルミナ女学校、浪華女学校はともに上級学校への入学資格を失う不利のなか、しかし建学の精神を守り、毎日礼拝を続け、キリスト教教育を続けました。
そのため、1889(明治22)年頃から始まった反外国人キャンペーンとも重なって両校の入学者が激減しましたが、その後、その風潮もゆるみ、1903(明治36)年からは、生徒数は増加していきました。
1904(明治37)年ウヰルミナ女学校と浪華女学校が合併
ウヰルミナ女学校の関係教会であるカンバーランド長老教会と、浪華女学校の関係教会である日本基督教会が1889(明治22)年10月に合同しました。
そこで同じ教育方針を持つ大阪の二つの学校を合併し、校名は「ウヰルミナ女学校」を継承、校地校舎は浪華女学校に統合しました。
1939(昭和14)年からの皇民化政策で、異民族の人々に日本風の名前を用いる創氏改名を迫った政府が、外国人の名前に由来する校名の変更を強制することが必至となり、やむなく校名を大阪女学院高等女学部と改称しました。
1947(昭和22)年、学制改革で「大阪女学院中学校」設置。
1948(昭和23)年「大阪女学院高等学校」設置。
1968(昭和43)年「大阪女学院短期大学英語科」開学
2004(平成16)年「大阪女学院大学 国際・英語学部」開学
2009(平成21)年、大阪女学院大学大学院「21世紀国際共生研究科」開設
以上、大阪女学院のホームページから抜粋しました。
浪華名所獨案内の玉造付近 |
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の玉造付近 |
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の玉造付近(今昔マップ3より) |
第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
≫ http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html
第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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第4回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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