2016年11月9日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(3-6)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。今回は第3回の第6問を解説します。


(第3回 第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「のだばし」が架かっている川の名前は?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 日本国有鉄道「片町駅」

B 西日本旅客鉄道JR東西線敷地
C 大坂三郷北組相生西ノ町および東ノ町の町家
D 鯰江川

 片町駅(かたまちえき)は、大阪市都島区にあった駅で、鯰江川(現在は埋立)に架かっていた野田橋を挟んで西日本旅客鉄道(JR西日本)片町線(学研都市線)の終点駅と、京阪電気鉄道京阪本線の天満橋駅~京橋駅間の駅の2つの駅がありましたが、京阪の駅は複々線高架化工事の際に、JRの駅は東西線の開業に伴い、いずれも廃止されました。また、大阪市電天満橋善源寺町線片町停留場も近くにありました。

浪華名所獨案内(天保年間)の片ハラ町(片原町)付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の片丁(片町)付近
 JR西日本の片町駅は、明治28年(1895)に浪速鉄道の四条畷駅~当駅間の開業と同時に、都心側のターミナルとして、東成郡鯰江村大字新喜多新田(当時)に建設された駅です。当時の大阪市街の北東端であった相生町にできる限り近接させた駅で、駅名の「片町」は、相生町が1708年まで京街道の北側にしか家屋がない片側町「京橋片原町」だったことに由来します。
 江戸時代の地図には、片ハラ町、片丁の記載がみられます。
 鯰江川と寝屋川に挟まれた狭小な土地で駅前が非常に狭かったため、関西鉄道への合併後、一時は放出駅から路線を分岐させる形で近隣に設けられた網島駅へ旅客扱いを譲り、貨物駅となったこともありましたが、国有化後に城東線(現在の大阪環状線)の京橋駅に隣接するようにして設けられた片町駅京橋口を京橋駅として分離し、それと入れ替わる形で網島駅を廃止したことによって、片町線の起点駅としての地位に落ち着きました。
 しかし、京橋駅まで営業キロが0.5kmと短く、京橋駅が城東線や京阪本線との乗り換え駅として栄える反面、利用者が少なく、接続もない当駅の地位は低下したため、平成9年(1997)のJR東西線開業に伴い廃止となりました。同時に片町駅と入れ替わるようにしてJR東西線に大阪城北詰駅が近くに開業しています(同駅の仮称は「片町駅」でした)。
 廃止後も路線名(片町線)にその名を残していますが、JR西日本では「学研都市線」の愛称で案内しています。
 廃止から10年以上が経ちますが、「片町」という地名への愛着から、大阪城北詰駅を「片町」や「片町」を含む駅名に改称してほしいという意見もなお存在しています。

 京阪電気鉄道の片町駅は、京阪本線が、明治43年(1910)に天満橋駅~五条駅間で開業した際に設置された中間駅です。当初は片町交差点東側で野田橋駅と称し、区間急行と普通が停車していました。線路敷は寝屋川橋梁東側から片町交差点まで道路併用軌道でしたが、これを専用軌道化した昭和30年(1955)に片町交差点西側に移転し、「片町駅」と改称しました。この片町交差点では、大阪市電が廃止された昭和43年(1968)まで平面交差を行っていました。
 その後、天満橋駅~旧蒲生信号所間の高架複々線化工事のために京都方に移転、国鉄駅とは若干離れるようになりました。さらに、新高架線では駅の設置が困難で、高架線の京橋駅が地上線の京橋駅より片町駅寄りに設置されることになったため、昭和44年(1969)に廃止されました。代替として高架線京橋駅西側に片町口が設置されています。

大阪市街大地図(大正14年発行)の片町付近
明治41年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の片町付近(今昔マップ3より)
第3回第7問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/11/blog-post_16.html
第2回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/08/blog-post_10.html
第1回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/06/blog-post_1.html


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