2016年11月24日木曜日

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。

(第3回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図中央の「阪神前」は市電の停留所名です。では、地図の右側の「崎」は何を表わしているでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 阪神電気鉄道「梅田駅」
B ハービスENT
C 曾根崎村の田地
D 曾根崎の「崎」
 阪神電気鉄道の開業当初、少し西の出入橋駅までの営業でしたが、明治39年に東へ延伸されました。現在の阪神梅田駅はさらに東へ延伸され、大阪駅前の地下駅となっています。


(第3回 第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「車庫前」は市電の停留所名です。さて何の車庫があったのでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 阪神急行電鉄梅田駅「阪急ビル」
B 阪急百貨店梅田店
C 北野村の田地
D 大阪市電の車庫

 当時は1階は阪急ではなく白木屋(大正9年~大正14年)に賃貸されていました。2階は阪急食堂が営業していました。



 江戸時代天保年間の梅田付近は、大坂三郷天満組の市街地の北の外れで、田地が拡がっていました。淀川の氾濫の多い地域でもあり、水に強い菜の花が多く植えられていたそうです。江戸時代には能勢街道の要所として、数多くの旅人が行き来して、鶴乃茶屋や萩乃茶屋といった名物茶屋が並んで賑わったという茶屋町界隈。菜の花畑が一面に広がり、それは大坂・毛馬生まれの漂泊詩人・与謝蕪村の心の故郷、原風景でもありました。菜の花を題材にした多くの句が詠まれています。今では大都会の中心部にありながらも、茶屋町界隈には、よく眺めれば、旧街道の名残がちらほら見えてきます。
 第1回大阪市パノラマ地図検定の第2問「大阪駅」のところでも触れましたが、大阪~神戸間の鉄道が引かれた際に、市街地の外れのこの地域に「梅田ステン所」が建設され、その後、現在の大阪環状線に当たる西成線と城東線の駅ができ、私鉄の阪神、阪急のターミナルもこの地域に整備されました。


浪華名所獨案内(天保年間)の梅田付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の梅田付近

 阪神電鉄は、明治32年(1899)6月に、社名を摂津電気鉄道株式会社として設立。同年7月に阪神電気鉄道株式会社に改称し、明治38年(1905)4月に神戸(三宮)~ 大阪(出入橋)間の営業を開始しました。翌明治39年(1906)12月21日に、それまでのターミナルだった出入橋駅より路線を延ばす形で梅田駅が開業しました。現在より西のハービスENTあたりにありました。パノラマ地図にはこの時の梅田駅が描かれています。その後昭和14年(1939)3月21日に、地下化され現在の梅田駅に移転しました。

 一方の阪急電鉄の梅田駅は、明治43年(1910)に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が梅田駅~宝塚駅間で営業開始した際に開業しました。このときは東海道本線南側、現在の阪急百貨店うめだ本店の場所にある地上駅でした。大正7年(1918)2月4日、社名変更により阪神急行電鉄となり、大正9年(1920)7月16日に神戸本線が開業し、神戸本線の列車が乗り入れるようになりました。パノラマ地図にはこのころの梅田駅が描かれています。
 その後、大正15年(1926)7月5日、梅田駅~十三駅間の複々線高架完成により高架駅に移転しました。この際に国有鉄道大阪駅の高架化計画が既に立てられていたため、高架駅は鉄骨の仮建築として造られました。そして、大阪駅の高架化工事が部分完成するとともに、予定通り昭和9年(1934)に再び地上駅化されました。
 昭和18年(1943)に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道の合併により京阪神急行電鉄となり、昭和34年(1959)には梅田駅~十三駅間に京都本線用の線路が増設されました。
 昭和41年(1966)から、現在地への移転高架化拡張工事に起工し、昭和42年(1967)に神戸本線ホームを高架に移転、以降順次移転を進め、昭和48年(1973)に高架化拡張工事が完成し、現在の阪急梅田駅となりました。
 阪急梅田駅の歴史については、新之介さんのブログ「十三のいま昔を歩こう」に3回シリーズでたくさんの写真や資料を使って紹介されています。詳しくはこちらをどうぞ。
≫ http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-118.html
 
大正14(1925)年発行の「大阪市街大地図」の梅田付近
明治41年、昭和7年、昭和42年、最近の地形図(今昔マップ3より)



(第3回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「しほみばし」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪高野鉄道「汐見橋駅」
B 南海電気鉄道高野線「汐見橋駅」
C 難波村の田地
D 道頓堀川

 現在は南海高野線は汐見橋から高野山まで直通とはなっていません。近年まで駅構内に「南海沿線観光案内図(昭和30年代)」が掲示されていました。詳しくはこちらの記事をどうぞ。
http://www.sankei.com/west/news/160323/wst1603230038-n1.html



(第3回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「にぎはいばし(賑橋)」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 日本国有鉄道「湊町駅」
B 西日本旅客鉄道「JR難波駅」
C 難波村の田地
D 難波入堀川

 JR関西本線(大和路線)の終着で、湊町駅からの駅名の変更に当たり、近接の地下鉄、近鉄、阪神と区別するため、JRを付加した駅名「JR難波駅」が正式名となっています。


 江戸時代の大坂三郷南組の市街地は道頓堀川の南岸までで、そこから南は難波村の田地でした。
浪華名所獨案内(天保年間)の難波村付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の難波村付近


 汐見橋駅は、明治33年(1900)に高野鉄道が大小路駅(現・堺東駅)から延伸した際の終着駅にあたる道頓堀駅として開業し、翌明治34年(1901)汐見橋駅に改称されました。明治40年(1907)、 会社合併により高野登山鉄道、大正4年(1915)社名変更により大阪高野鉄道、昭和7年(1922)、会社合併により南海鉄道の駅となりました。かつては貨物専用ヤードも併設していました。
 高野線の起点であり、昭和60年(1985)に大阪市の立体交差事業が行われる以前は、岸ノ里駅(現・岸里玉出駅)以南と直通していたため、当駅から高野線本線との一部区間運転電車が存在していましたが、立体交差事業の実施後は線路が分断されたため直接高野線本線に乗り入れることが不可能となりました。それ以後は高野線本線は難波駅から岸里玉出駅まで南海本線を経由して極楽橋駅に乗り入れる電車のみとなりました。このため当駅からは岸里玉出駅との区間運転の電車だけが運転されており、事実上は支線となっています。このため、汐見橋駅~岸里玉出駅間は汐見橋線(しおみばしせん)という通称でも呼ばれています。当駅と新大阪駅を結ぶ計画路線であるなにわ筋線の開業時には、南海は木津川駅~当駅間を地下化する予定でしたが、最近になって南海のルートについて難波駅接続が有力候補となり、当駅の存続が危ぶまれている状況です。
 道頓堀川には駅名の由来になった汐見橋が架かり、新なにわ筋(大阪府道29号線)が通っています。現在の橋は昭和39年(1964)に架け替えられたものです。開業時は「道頓堀駅」と称しましたが、江戸時代からすでに道頓堀と言えば島之内の対岸にあたる繁華街を指すことが一般的だったこともあり、翌年には汐見橋駅に改称しています。なお、当駅と道頓堀川の間には桜川(埋立てられて現在の千日前通)も流れていました。

 湊町駅は、明治22年(1889)に、大阪鉄道の湊町駅(みなとまちえき、一般駅)として開業し、同社の創業路線である湊町駅~柏原駅間の起点となりました。明治33年(1900)に関西鉄道が承継、明治40年(1907)に国有化され、明治42年(1909)に、日本国有鉄道関西本線所属の駅となりました。
 西側に貨車入換用の線路が広がり、駅操車場内の南端には蒸気機関車の転車台が設けられていました。また、道頓堀川から入堀が開削されていました。南側には留置線が広がり、夜間滞泊の車両が留置されていました。駅には町の東西を結ぶ歩行者用の跨線橋(地元の人は「たかばし」と呼んでいた)がかけられていました。駅の東側の跨線橋上り口付近には、駅職員のための厚生施設(理髪室、浴場)も設けられており、地元の人も利用できたそうです。また、車両が通行できる踏切は駅南側にあり、それも貨車入換線を横切る長さ50m近い踏切だったため、時々「開かずの踏切」となっていました。
 駅開業から平成6年(1994)まで湊町駅(みなとまちえき)と称しており、道頓堀川八丁のひとつである道頓堀湊町(駅開業時は大阪市南区湊町)に開業したことによります。ただし、当時の湊町の範囲は道頓堀川に面した狭小なもので、西成郡難波村(のち大阪市に編入され、難波東円手町)にもまたがっていました(現在の湊町の範囲は1980年に拡大されたもの)。
 1989年の駅移転によって、元来の湊町から完全に離れて難波側にのみ位置するようになり、地下駅化して難波駅や大阪難波駅(当時は近鉄難波駅)と連絡する計画もあったため、1994年9月4日の関西国際空港開港と同日にJR難波駅に改称されました。駅名に「JR」を冠したのはJRグループ各社を通して初めてで、駅名にアルファベットが入ったのも日本では初めてです。


大阪市街大地図(大正14年発行)の京橋口付近
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の汐見橋駅付近(今昔マップ3より)
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の湊町付近(今昔マップ3より)



(第3回 第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 扇橋の架かっている川の名前は?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 日本国有鉄道「天満駅」
B 西日本旅客鉄道「天満駅」
C 大坂三郷天満組池田町および夫婦町の町家と川崎村
D 天満堀川


 当時は現在のJR大阪環状線は環状になっておらず、大阪駅から東側は城東線と呼ばれており、地上を走っていました。このため、天神橋筋商店街の一筋西側に市電の敷設と合わせて天神橋西筋ができる際に、跨線橋によって国鉄を跨いでいました。パノラマ地図にその姿が描かれています。昭和8年(1933)に高架化され現在の天満駅が建設されました。
 ガード下のアーケードの天神橋筋商店街は自称「日本一長い商店街」で、古称は十丁目筋商店街。浪華名所獨案内にも、「十丁目筋と云う」と記されています。
 北側には天満市場があり、天満市場と天神橋筋商店街の間に商店が密集しており、駅周辺は大規模な商店街となっています。また、飲食店も数多く存在しており、庶民的な市場・盛り場となっています。


 天満駅周辺は江戸時代には大阪三郷天満組の北のはずれでした。浪華名所獨案内を見ると、東寺町より北には町の名前がなく、天保新改攝州大阪全圖を見ると、丁与力、丁同心より北には夫婦池があり、天神橋筋に沿って弁天丁・池田丁の文字がありますが、その東西には町の表示はなく農地が広がっていたと想定されます。
浪華名所獨案内(天保年間)の天満付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の天満付近

 現在の大阪環状線の東半分となる区間は、大阪鉄道 (初代) の本線(現在の関西本線)と官設鉄道東海道本線の間を結ぶために建設されましたが、その玉造駅 - 梅田駅(現在の大阪駅)間の開業時(明治28年)に、京橋駅と共に設置されたのが天満駅でした。駅名は、駅南方一帯の地名「天満」(大阪天満宮に由来・大阪三郷の天満組)に因んだものです。
 その後明治33年に関西鉄道が大阪鉄道の路線を承継し関西鉄道の駅となり、明治40年に関西鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となりました。昭和8年(1933)に高架化され、昭和42年には現在の1番のりばが増設されました。
 「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、2015年3月22日から発車メロディにaikoの「花火」を導入している。大阪天満宮で夏に開かれる天神祭にちなんでおり、大阪出身のaikoの曲です。
 京阪電鉄の天満橋と名前が似ているためによく間違えられますが、約2km離れています。

大阪市街大地図(大正14年発行)の天満付近
明治41年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の天満駅付近(今昔マップ3より)


(第3回 第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「のだばし」が架かっている川の名前は?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 日本国有鉄道「片町駅」

B 西日本旅客鉄道JR東西線敷地
C 大坂三郷北組相生西ノ町および東ノ町の町家
D 鯰江川

 片町駅(かたまちえき)は、大阪市都島区にあった駅で、鯰江川(現在は埋立)に架かっていた野田橋を挟んで西日本旅客鉄道(JR西日本)片町線(学研都市線)の終点駅と、京阪電気鉄道京阪本線の天満橋駅~京橋駅間の駅の2つの駅がありましたが、京阪の駅は複々線高架化工事の際に、JRの駅は東西線の開業に伴い、いずれも廃止されました。また、大阪市電天満橋善源寺町線片町停留場も近くにありました。

浪華名所獨案内(天保年間)の片ハラ町(片原町)付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の片丁(片町)付近
 JR西日本の片町駅は、明治28年(1895)に浪速鉄道の四条畷駅~当駅間の開業と同時に、都心側のターミナルとして、東成郡鯰江村大字新喜多新田(当時)に建設された駅です。当時の大阪市街の北東端であった相生町にできる限り近接させた駅で、駅名の「片町」は、相生町が1708年まで京街道の北側にしか家屋がない片側町「京橋片原町」だったことに由来します。
 江戸時代の地図には、片ハラ町、片丁の記載がみられます。
 鯰江川と寝屋川に挟まれた狭小な土地で駅前が非常に狭かったため、関西鉄道への合併後、一時は放出駅から路線を分岐させる形で近隣に設けられた網島駅へ旅客扱いを譲り、貨物駅となったこともありましたが、国有化後に城東線(現在の大阪環状線)の京橋駅に隣接するようにして設けられた片町駅京橋口を京橋駅として分離し、それと入れ替わる形で網島駅を廃止したことによって、片町線の起点駅としての地位に落ち着きました。
 しかし、京橋駅まで営業キロが0.5kmと短く、京橋駅が城東線や京阪本線との乗り換え駅として栄える反面、利用者が少なく、接続もない当駅の地位は低下したため、平成9年(1997)のJR東西線開業に伴い廃止となりました。同時に片町駅と入れ替わるようにしてJR東西線に大阪城北詰駅が近くに開業しています(同駅の仮称は「片町駅」でした)。
 廃止後も路線名(片町線)にその名を残していますが、JR西日本では「学研都市線」の愛称で案内しています。
 廃止から10年以上が経ちますが、「片町」という地名への愛着から、大阪城北詰駅を「片町」や「片町」を含む駅名に改称してほしいという意見もなお存在しています。

 京阪電気鉄道の片町駅は、京阪本線が、明治43年(1910)に天満橋駅~五条駅間で開業した際に設置された中間駅です。当初は片町交差点東側で野田橋駅と称し、区間急行と普通が停車していました。線路敷は寝屋川橋梁東側から片町交差点まで道路併用軌道でしたが、これを専用軌道化した昭和30年(1955)に片町交差点西側に移転し、「片町駅」と改称しました。この片町交差点では、大阪市電が廃止された昭和43年(1968)まで平面交差を行っていました。
 その後、天満橋駅~旧蒲生信号所間の高架複々線化工事のために京都方に移転、国鉄駅とは若干離れるようになりました。さらに、新高架線では駅の設置が困難で、高架線の京橋駅が地上線の京橋駅より片町駅寄りに設置されることになったため、昭和44年(1969)に廃止されました。代替として高架線京橋駅西側に片町口が設置されています。

大阪市街大地図(大正14年発行)の片町付近
明治41年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の片町付近(今昔マップ3より)



(第3回 第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「わたなべばし」が架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 朝日新聞社
B 中之島フェスティバルタワー・ウエスト(工事中)
C 宇和島藩および大洲藩大坂蔵屋敷
D 堂島川

 宇和島藩蔵屋敷に祭祀の稲荷社は向かいの中之島フェスティバルタワー13Fに遷座(朝日稲荷大明神)されました。


(第3回 第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「さいこくばし」が架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 郵便本局(大阪中央郵便局)
B 中之島フェスティバルタワー
C 平戸藩大坂蔵屋敷
D 西横堀川



 江戸時代の中之島は、浪華名所獨案内に記されているように諸藩の蔵屋敷が多く立地していました。天保新改攝州大阪全圖を見ると、現在の四ツ橋筋を挟んで西側には宇和島藩および大洲藩、東側には平戸藩の蔵屋敷がありました。
浪華名所獨案内(天保年間)の肥後橋付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の肥後橋付近
 明治28年(1895)発行の大阪市明細地圖を見ると、西側に朝日新聞社、東側に郵便電信局が立地しています。大阪市パノラマ地図と同様です。
 大正14年(1925)発行の大阪市街大地図では、西側は朝日新聞社、東側は中央郵便局となっています。
大阪市街大地図(大正14年発行)の肥後橋付近
明治42年、昭和7年、昭和42年、最近の地形図の肥後橋付近(今昔マップ3より)
 朝日会館は昭和元年(1926)から昭和37年(1962)まで大阪の中之島に存在していた総合文化施設です。朝日新聞社を経営母体とする会館は、内部に展覧会場やホールをそなえ、映画上映、舞踊公演、演劇公演、音楽会、講演会に美術展、さらには雑誌出版など 多彩な文化事業を行っていました。川沿いにそびえる地下一階、地上六階の建物は、全体が黒色に覆われていたこともあり、ひときわ目を引くものだったといいます。朝日会館が会館する際におこなわれた談話の中で、当時の大阪市長である関一はこんなふうに述べています。
 「この壮麗で『文化の殿堂』として申分のない建築物は大阪市民の多年熱望していたものです。(中略)その建築様式も異彩を放ち海外に誇るに足るべきものでシヴィック・センターの同所を中心として都市計画の完成とともにその偉観に接することのできるのは私の最も欣幸とするところであります。」(『朝日會館史』より)
 この時期、関はみずからが掲げる「大大阪」理念のもとに大阪を近代都市へと変貌させようと目論んでいましたが、この談話はそのなかで文化施設としての朝日会館に期待がかけられていたことを示しています。実際に会館はさまざまな 文化領域において主導的な役割をはたし、「ここが大阪文化の中心」(『まぼろしの大阪」』より、坪内氏との対談のなかでの谷沢永一氏の発言)とまで評される存在となりました。(以上、朝日会館・会館芸術研究会さんのホームページより)

 大阪朝日ビルは、朝日新聞大阪本社社屋として、昭和6年(1931)に竣工しました。北東部分にはダイビル(初代、2009年解体)と同様に客船をイメージしたアールがつけられ、朝日新聞の題字ロゴが取り付けられていました。内部にはガラス張りの階段室、屋上には艦橋を連想させる航空標識塔が設けられています。DOCOMOMO JAPAN選定の日本におけるモダン・ムーブメントの建築にも選ばれました。
 朝日新聞ビル(あさひしんぶんビル)は昭和43年(1968)に竣工し、大阪朝日ビル(1931年竣工、10階建)の西側および南側に設置され、朝日新聞大阪本社の編集・発行部門のほか、関連会社、外部のテナントなどが入居していました。建物は地上13階、地下5階。建物は、大阪朝日ビルの西側と南側をL字型に覆うような形になっており、四ツ橋筋に面した南東側は同じく四ツ橋筋に面する大阪朝日ビルの北東側と同様に湾曲したデザインとなっていて、大阪朝日ビルとの一体感を持たせるようになっていました。また建物の西側は、阪神高速11号池田線が通っており、建物が橋脚の一部となっています。

 昭和33年(1958)には、大阪朝日ビルの東向かいの郵便本局のあった敷地に、フェスティバルホール、リサイタルホール、大阪グランドホテル、日刊スポーツ大阪本社等が入っている新朝日ビルディングがオープンしました。ビルディング建設前は昭和27年(1952)から31年(1956)までスケートリンク・アサヒアリーナがありました。屋上には昭和37年(1962)から平成6年(1994)まで公共ヘリポートである朝日ヘリポートが設置されていました。
 大阪グランドホテルの開業当時は東洋一のホテルとも呼ばれ、フェスティバルホールで演奏会を開いたカラヤンやバーンスタインなど多くの世界的な音楽家や文化人も利用しました。
しかし、新朝日ビルは老朽化を理由に平成21(2009)年度中に解体され、高さ200mの超高層ビル(中之島フェスティバルタワー)に建替えられることとなり、ホテルも平成20年(2008)3月31日に閉館することとなりました。
 平成24年(2012)11月に新しいフェスティバルホール(2013年4月開業)などを含んだ中之島フェスティバルタワー(東地区)が完成しました。
 平成26年(2014)、朝日新聞社は向かい側の旧朝日新聞ビル・大阪朝日ビル跡に建設される「中之島フェルティバルタワーウエスト」内に、ロイヤルホテル運営の新しいホテルを2017年に開業させることを発表しました。新ホテルは同タワーの33~40階に170室を設置、全室が面積50平方メートル以上の高級ホテルとなる予定です。


 フェスティバルホールのあった旧「新朝日ビル」の南壁面のレリーフ「牧神、音楽を楽しむの図」が、建替えに当たって再現されています。新レリーフ6体はすべて旧レリーフと同じ大きさで製作されましたが、建物の大きさは旧ビルと新ビルでは大きく異なっており、特に新レリーフを設置する壁面は旧ビルの壁面に比べて広いスペースが確保されています。また、旧レリーフの最高高さは20mでしたが、新レリーフは最高40mと高い位置にあります。そのため、旧レリーフの配置を基本としながら、ビル全体の形状も考慮した上、旧レリーフの配置よりも「太陽」を高く、「牧神(鳥)」を低く配置し、バランスをとっています。また、旧レリーフは建物に埋め込まれていましたが、新レリーフは壁面から10cm浮いて取り付けられていることにより影が出て、それが、レリーフのシルエットをより強調しています。
 レリーフの再現については、大塚オーミ陶業株式会社さんのホームページに詳しいレポートがあります。
http://www.ohmi.co.jp/report/index.php?topics2_category_pk=1464062648



(第3回 第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「なにはばし」が架かっている川は堂島川ともう1つの川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪ホテル
B 東洋陶磁美術館
C 大川(旧淀川)の河川内
D 土佐堀川

 江戸時代後期になっても中之島は現大阪市中央公会堂の少し東まででその上流は大川でした。

 ロイヤルホテル新館の開業を記念して出版された随筆集「大阪讃歌」の中に宮本又次先生が書かれた「大阪ホテル」があります。60人の執筆者のうち何人かはロイヤルホテルの前身である新大阪ホテルの想い出などを綴っておられますが、大阪ホテルについて詳しく書かれているのは、この一編だけでした。
 宮本先生によると、大阪におけるホテルらしいものの最初は明治21年開業の自由亭で、その前身は西区本田にあった欧風亭という川口居留地の外国人専門の欧食料亭で旅館も兼業していました。明治21年に市有地であった中之島公園の地にホテルとして新たに自由亭が建てられました。和洋両様の二棟を有し、日本館の方を「洗身亭」となづけた。鉾流橋の南詰め東手で、木村重成の碑の西、のち大阪銀行協会があったあたり、今は関市長の銅像の建っている所と思われるとあります。
 明治32年に株式会社大阪倶楽部が組織され、自由亭の西館洋式の部の業務を受け継いで、大阪倶楽部ホテルと称しました。ところが、このホテルは明治34年11月に出火し、全館を焼いてしまいました。 その跡地には、明治35年8月、木造で外壁はコンクリート塗り、客室30を有する純洋式の大阪ホテルが新築されました。明治36年開催の第5回内国勧業博覧会に間に合うよう小路を急いだそうです。火災を免れた隣の日本料亭(旧洗身亭)をも買収してそれを大阪ホテル東店としました。
 当時、日本の五大ホテルとして、東京の帝国ホテル、箱根宮の下の富士屋、京都の都ホテル、日光の金谷ホテルと並び称されたそうです。
 大正8年には名古屋ホテルを買収して支店とし、大正9年には今橋西詰めにあった浪速ホテルを合併して支店とし、大正10年には今橋ホテルと改称しました。
 しかし、大正13年11月、中之島のホテル本店より出火、再度全焼するの悲運に見舞われます。しかもこの敷地は公園地帯になっていたので再築の許可を受けることができず、今橋ホテルを本店にして、中之島から消え去る運命になりました。今橋ホテルを改称した大阪ホテルは昭和16年2月まで営業を続けました。

 大阪市パノラマ地図は、大正12年12月印刷、13年1月発行ですので、地図に描かれている大阪ホテルは、その年の11月に消失したことになります。

 その後、真に大阪を代表するにふさわしい大ホテルの計画が進められ、大阪財界の要望を結集して、ついに昭和10年に豪華なる新大阪ホテルが出現することになります。そして、戦後に大阪グランドホテル、大阪ロイヤルホテルなど中之島の地に超一流のホテルがあらわれますが、これはかつて明治大正期に中之島の地にあってきわめて異色ある役割をはたしていた旧大阪ホテルと直接の関係はないにしても、非連続の連続と考えらるべきもので、その先駆と考えてよいであろう。と宮本先生は書いておられます。


(第3回 第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 豊國神社はその後どこに遷座されたでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 豊国神社
B 4代目大阪市庁舎第1期部分
C 唐津藩大坂蔵屋敷
D 大阪城内


 豊国神社は当初、中之島の最東端にあり、大阪市中央公会堂の建設の際にパノラマ地図の位置に移転、4代目市役所で大阪城内に再移転しました。

 豊国神社は、明治12年(1879年)11月 京都・豊国神社大阪別社として創建。当初は大阪府北区中之島字山崎の鼻(現在、大阪市中央公会堂がある地点)に鎮座しました。大正元年(1912年) 中之島内で移動、現在の大阪府立中之島図書館西側へ遷座されました。
 大正10年(1921年)、京都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀しています。
 現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区中之島においての創建となりましたが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座されました。
大阪市パノラマ地図をよく見ると、大阪ホテルの前の通りに鳥居が描かれています。
 江戸時代の中之島は、浪華名所獨案内を見ると、ナニハバシの手前までしかありません。先端部に「山サキ」とあります。この先端部に豊国神社が遷座していましたが、公会堂の建設の際に図書館の西側に移動しました。鳥居があるのはその名残かもしれません。

 大正3年の地図に、難波橋と大川橋の2つの橋が架かっていますが、大川橋が現在の難波橋です。以前の難波橋は現在よりひと筋西の難波橋筋にかかっていました。市電敷設の際にひと筋東の堺筋に移動しましたが、名前は難波橋を引き継ぎました。
浪華名所獨案内の中之島東部
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の中之島東部
大阪市内詳細図(大正3年発行)の中之島東部
大阪市街大地図(大正14年発行)の中之島東部
明治42年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の中之島東部(今昔マップ3より)



第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

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