第4回の10問を順次解説していきます。
第4回第6問
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の右側の川の名前は?
E 赤丸の左上の大きな文字「新」は何でしょうか?
※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。
解答と解説
A 住友伸銅所
B 大阪市中央卸売市場
C 安治川新地と野田村
D 安治川
E 新堀
住友伸銅所は、明治30年(1897)4月1日 日本製銅株式会社を買収して住友伸銅場として開設され、銅・真鍮類の板・棒・線等の製造を始めました。大正2年(1913)6月に住友伸銅所に改称され、大正10年(1921)2月に、住友合資会社伸銅所が発足しています。昭和10年(1935年)9月に、住友製鋼所(旧・住友鋳鋼場)と合併し、住友金属工業株式会社が発足しました。
住友伸銅所安治川工場全景(大正年間) (株式会社UACJ銅管HPより) |
≪毎日の食卓にならぶ野菜、果実、水産物などの取引の場である市場が大阪に誕生したのは、大坂城が築かれた頃でした。その後、江戸時代に入って、人口が増え、「天下の台所」として大阪の町が栄えるにつれて市場は各地の水路と陸路交通の要所に発展し、庶民の暮らしに広く定着するようになりました。なかでも、昭和のはじめまでにぎわった有名な市場として、天満、ざこば、靭(うつぼ)、木津、難波などがありました。
第一次大戦が終わった大正7年頃は、経済情勢が不安定であったため、物価への影響を危惧した本市は、大正7年4月に公設小売市場を設置し、日用品の廉売と物価の安定を図った。同年7月に起きた「米騒動」は、国民の食生活に影響が多大であったことから、国においてもその対策を検討することになり、本市の公設小売市場の設置に刺激され、生鮮食料品の取引の正常化、適正な価格形成を目的として、大正12年3月に中央卸売市場法を制定されました。
本市においても、市民の食生活安定のために公設小売市場の親市場として、中央卸売市場の開設が必要であると判断し調査委員会等を設置し、検討を重ねました。その結果、水陸運ともに至便な福島区野田を最適地として決定し、全国に先がけて大正14年3月に国の認可を得て着工し、当時東洋一を誇る堂々たる総合市場として、昭和6年11月11日に現在の中央卸売市場(本場)が敷地面積約126,000平方メートルで開場しました。この開場と同時に従来から繁栄していた私設卸売市場については、中央卸売市場にほとんどが収容され、開場後1年間(昭和7年)の取扱量は39万トンに達しました。
また、第二次大戦終戦直後の統制中は、生鮮食料品の集荷配給機関として本来の市場機能を一時中断しましたが、統制の解除とともに、昭和25年5月から仲買制度の復活など再び本来の市場の姿に戻り、取扱量も45万トンまで回復しました。
昭和39年には、高度経済成長等により本場の取扱量も開場当時の2倍強の82万トンを超え、11月には取扱数量の増大に対応するため、東住吉区今林に東部市場を開場し、本場とともに、市民の台所として大きな役割を果たしてきました。また、食肉市場については、昭和33年、西成区津守に「市立と畜場」に併設して食肉卸売市場を全国に先がけて開場しました。
その後も毎年1割近くの増加を示し、昭和45年に120万トンに達したことから、取扱量の増加や自動車輸送の激増に対処し、また、老朽施設の改善と狭あい・過密打開のため、拡張整備事業(現在の市場西棟)を実施し、昭和50年11月に果実・乾物等の部門を、昭和51年2月に漬物売場をそれぞれ移転しました。また、昭和51~55年度には東部市場の加工食料品売場と仲卸棟を整備し、昭和59年4月には、食肉市場が近代的で衛生的な食肉処理場などの設備を備えた南港市場として、住之江区南港に移転しました。
しかし、本場開場から60年余を経て、施設の老朽化が著しく、耐震構造の施設への建替えや、生鮮食料品等にかかる流通環境の変化や多種多様な消費者ニーズ、情報化の進展への対応が求められていたことから、食品流通の基幹的役割を充分果たすことができる機能を有するとともに、環境対策や衛生面に配慮した廃棄物の処理施設等を備えた近代的な市場をめざし、平成元年度より抜本的な施設整備事業に着手しました。平成4年9月に業務管理棟が竣工し、その後引続き市場棟(現在の市場東棟)及び関連棟の工事を進め、足かけ10年に及んだ現地建替が平成14年11月に完成した。現在、更なる物流機能の強化を図るため、平成15年6月から配送加工棟の整備に努め、平成16年7月に竣工しました。≫
浪華名所獨案内の野田付近 |
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の野田付近 |
明治42年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の野田付近(今昔マップ3より) |
第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
≫ http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html
第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
≫ http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html
第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
≫ http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_24.html
0 件のコメント:
コメントを投稿