2016年10月26日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(3-3、3-4)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。今回は第3回の第3問と第4問を合わせて解説します。

(第3回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「しほみばし」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪高野鉄道「汐見橋駅」
B 南海電気鉄道高野線「汐見橋駅」
C 難波村の田地
D 道頓堀川

 現在は南海高野線は汐見橋から高野山まで直通とはなっていません。近年まで駅構内に「南海沿線観光案内図(昭和30年代)」が掲示されていました。詳しくはこちらの記事をどうぞ。
http://www.sankei.com/west/news/160323/wst1603230038-n1.html



(第3回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「にぎはいばし(賑橋)」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 日本国有鉄道「湊町駅」
B 西日本旅客鉄道「JR難波駅」
C 難波村の田地
D 難波入堀川

 JR関西本線(大和路線)の終着で、湊町駅からの駅名の変更に当たり、近接の地下鉄、近鉄、阪神と区別するため、JRを付加した駅名「JR難波駅」が正式名となっています。


 江戸時代の大坂三郷南組の市街地は道頓堀川の南岸までで、そこから南は難波村の田地でした。
浪華名所獨案内(天保年間)の難波村付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の難波村付近


 汐見橋駅は、明治33年(1900)に高野鉄道が大小路駅(現・堺東駅)から延伸した際の終着駅にあたる道頓堀駅として開業し、翌明治34年(1901)汐見橋駅に改称されました。明治40年(1907)、 会社合併により高野登山鉄道、大正4年(1915)社名変更により大阪高野鉄道、昭和7年(1922)、会社合併により南海鉄道の駅となりました。かつては貨物専用ヤードも併設していました。
 高野線の起点であり、昭和60年(1985)に大阪市の立体交差事業が行われる以前は、岸ノ里駅(現・岸里玉出駅)以南と直通していたため、当駅から高野線本線との一部区間運転電車が存在していましたが、立体交差事業の実施後は線路が分断されたため直接高野線本線に乗り入れることが不可能となりました。それ以後は高野線本線は難波駅から岸里玉出駅まで南海本線を経由して極楽橋駅に乗り入れる電車のみとなりました。このため当駅からは岸里玉出駅との区間運転の電車だけが運転されており、事実上は支線となっています。このため、汐見橋駅~岸里玉出駅間は汐見橋線(しおみばしせん)という通称でも呼ばれています。当駅と新大阪駅を結ぶ計画路線であるなにわ筋線の開業時には、南海は木津川駅~当駅間を地下化する予定でしたが、最近になって南海のルートについて難波駅接続が有力候補となり、当駅の存続が危ぶまれている状況です。
 道頓堀川には駅名の由来になった汐見橋が架かり、新なにわ筋(大阪府道29号線)が通っています。現在の橋は昭和39年(1964)に架け替えられたものです。開業時は「道頓堀駅」と称しましたが、江戸時代からすでに道頓堀と言えば島之内の対岸にあたる繁華街を指すことが一般的だったこともあり、翌年には汐見橋駅に改称しています。なお、当駅と道頓堀川の間には桜川(埋立てられて現在の千日前通)も流れていました。

 湊町駅は、明治22年(1889)に、大阪鉄道の湊町駅(みなとまちえき、一般駅)として開業し、同社の創業路線である湊町駅~柏原駅間の起点となりました。明治33年(1900)に関西鉄道が承継、明治40年(1907)に国有化され、明治42年(1909)に、日本国有鉄道関西本線所属の駅となりました。
 西側に貨車入換用の線路が広がり、駅操車場内の南端には蒸気機関車の転車台が設けられていました。また、道頓堀川から入堀が開削されていました。南側には留置線が広がり、夜間滞泊の車両が留置されていました。駅には町の東西を結ぶ歩行者用の跨線橋(地元の人は「たかばし」と呼んでいた)がかけられていました。駅の東側の跨線橋上り口付近には、駅職員のための厚生施設(理髪室、浴場)も設けられており、地元の人も利用できたそうです。また、車両が通行できる踏切は駅南側にあり、それも貨車入換線を横切る長さ50m近い踏切だったため、時々「開かずの踏切」となっていました。
 駅開業から平成6年(1994)まで湊町駅(みなとまちえき)と称しており、道頓堀川八丁のひとつである道頓堀湊町(駅開業時は大阪市南区湊町)に開業したことによります。ただし、当時の湊町の範囲は道頓堀川に面した狭小なもので、西成郡難波村(のち大阪市に編入され、難波東円手町)にもまたがっていました(現在の湊町の範囲は1980年に拡大されたもの)。
 1989年の駅移転によって、元来の湊町から完全に離れて難波側にのみ位置するようになり、地下駅化して難波駅や大阪難波駅(当時は近鉄難波駅)と連絡する計画もあったため、1994年9月4日の関西国際空港開港と同日にJR難波駅に改称されました。駅名に「JR」を冠したのはJRグループ各社を通して初めてで、駅名にアルファベットが入ったのも日本では初めてです。


大阪市街大地図(大正14年発行)の京橋口付近
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の汐見橋駅付近(今昔マップ3より)
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の湊町付近(今昔マップ3より)


第3回第5問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/11/blog-post_02.html
第2回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/08/blog-post_10.html
第1回第1問はこちらからどうぞ。
http://sumai-osaka.blogspot.jp/2016/06/blog-post_1.html

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