2016年12月28日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(4-5)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。第4回の10問を順次解説していきます。

第4回第5問
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 堂島小橋が架かる川の名前は?
E 当時は何区でしたか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大日本紡績福島工場(もと日本紡績本社工場)
B 下福島公園
C 野田村の低湿地帯
D 曾根崎川(蜆川)
E 北区

 日本紡績は明治26年2月7日に創立し、本社工場は大阪市下福島(大阪市北区西野田平松町)に建設されました。この工場が後の大日本紡績福島工場であり、当時は野狐がさまよう寂しい所であったと記されています(『大日本紡績株式会社五十年記要』)。
 福島の本社工場は、その後周囲が市街地となって拡張の余地がなくなり、また建物も2階建ての旧式工場であったので、大日本紡績時代の昭和11年8月7日に閉鎖され、主要設備は一宮工場に移されました。
 戦後はユニチカの本店社宅白鳳荘が敷地の一角に建設され、その後昭和53年4月からユニチカ建設不動産事業本部によって「ユニライフ福島」が分譲マンションとして建設され、今日に至っています。

 かつての大日本紡績株式会社(現ユニチカ株式会社)の主力工場であった福島工場跡地には、大阪厚生年金病院などと共に下福島公園が建設されました。福島区内では福島公園に次いで古い公園であり、面積は区内で最大規模を誇っています。
 1894年(明治27年)に日本紡績株式会社本社工場が建設されたときの赤煉瓦壁の一部が公園東側の境界に現存しています。この壁は1945年(昭和20年)6月の大阪大空襲や1909年(明治42年)の北の大火の火災延焼を食い止めたものの一部です。(実際に延焼を食い止めたのは福島4丁目3番地付近の工場外壁で、壁の高さは3.5mほどあったといわれています。)

 公園内にはこの地が発祥の地といわれ、区の花にも指定されているノダフジ(野田藤)が栽培されています。また、足利義詮や豊臣秀吉も訪れた藤庵の庭も復元されて公園内に移設されています(ノダフジ発祥の地の碑は、玉川2丁目の春日神社内に建立されています)。

 2001年に下福島プールが改築され、新たに屋内プールおよびトレーニング施設がオープンしました。野球グラウンドが2面取れる下福島運動場では、平日は近隣の小中学生の授業やクラブ活動などが、休日には会社員などの野球チームが試合を行っています。 また、下福島運動場の外周に沿って1周480mのジョギングコース(舗装)も整備されています。



浪華名所獨案内の下福島付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の下福島付近
明治42年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の下福島付近(今昔マップ3より)


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_24.html

2016年12月26日月曜日

今週の今昔館(39) 20161226

〇大阪くらしの今昔館は、新年1月3日(火)から開館します
 「今昔館に初もうで」
 大人も子どもも楽しめる懐かしいお正月遊びのイベントを開催します。



〇収蔵資料紹介「浪花行事十二月 春待月 顔見世芝居」 二代貞信 作、昭和14(1939)年

 当館の所蔵資料「浪花行事十二月」には、江戸時代の浪花の年中行事風俗が旧暦の月ごとに描かれています。今月ご紹介するのは、旧暦12月(新暦1月)の行事「春待月 顔見世芝居」です。(大阪くらしの今昔館のホームページより)


 顔見世芝居は歌舞伎の年中行事のひとつで、年一度の役者の交代のあと、新規の顔ぶれで行う最初の興行のことです。大坂では十二月に行われました。手打連中という俳優を後援する仲間があり、顔見世のときには一座の俳優に進物を贈り、揃いの頭巾をかぶって手を打ちました。本図には「笹瀬」と「大手」の頭巾をかぶって拍子木を打つ連中が描かれています。



〇今昔館のあまり知られていない展示(その28)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の18回目は、こちらの写真です。


 今回は、立具屋のとなりの小間物屋です。小間物とは、細かいものという意味の他に紅や白粉、髪飾りなど女性の化粧用品や楊枝や歯ブラシなど、日常のこまごましたものを指します。小間物屋とはこうした女性の身の回りのおしゃれ小物を扱う店です。
 今昔館に再現した小間物屋は、「大坂商工銘家集」(弘化3年・1846年)に描かれた平野町の丸屋をモデルにしています。「御かもじ 萬小間物処 名古屋元結」と看板に書かれ、「お福」を商標に暖簾にもお福の顔が染め抜かれた店です。


 江戸時代のおしゃれ小物とはどのようなものだったのでしょうか?まず、髪を結うための道具・小物。「元結」とは、その名のとおり髪を束ねた元を結う紙製の紐のことで、関西では「もっとい」とも言います。小間物屋の店先に掛かる丸いドーナツ状の絵看板は、この元結からきているとも言われます。また、紙を結うための補助髪である「かもじ」や、形を整えるために中に入れる「つと」、さらに、「解き櫛、鬢掻き櫛、鬢あげ、鬢出し、際出し」などの櫛類も多様に揃っていました。また、鼈甲や漆に蒔絵・螺鈿を施した「飾り櫛・笄(こうがい)」は髪に挿す飾り用です。

 化粧としては、「白粉」「紅」は今も昔も変わりませんが、江戸時代の女性になくてはならないものが「お歯黒」です。これは、鉄釘を酢などで溶かした「お歯黒水」と「五倍子粉(ふしこ)」を混ぜて作ります。お歯黒水は自宅で作る場合もありますが、小間物屋でも販売されていました。

 その他、「伽羅(きゃら)の油」などの香油や鬢付け油、白粉刷毛や紅筆なども小間物屋の定番商品です。商品を入れた木製の段箱は重ねて蓋をし、紐を通すと持ち運びしやすいスタイルに作られており、これは、現在でも京都の小間物屋の店先で見ることができます。r />




〇今週のイベント・ワークショップ

12月26日(月)、28日(水)、1月3日(火)~7日(土)
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

1月8日(日)、9日(祝)
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


1月3日(火)~6日(金)
イベント 今昔館に初もうで

大人も子どもも楽しめる懐かしいお正月遊び
(福笑い・双六・百人一首等)
書初めもあります
(1/4~5、13:30~16:00、¥100)

【1月3日(火)だけのお楽しみ】
*甘酒のご接待・・10時~ 先着200名
*干支の折り紙・・13時30分~ ¥100
*あてもの・・先着200名(中学生以下)

【1月3日(火)4日(水)のお楽しみ】
*おみくじ・・無料
*絵馬・・¥100

1月7日(土)
ワークショップ ‘ハンカチを染めてみよう’
当日先着 各回10名 材料費300円
講師:町家衆
※当日12時より8階受付で参加整理券を販売します
1回目13時~、2回目14時30分~

1月8日(日)
町家衆イベント おじゃみ(有料)

古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00~16:00

イベント 筑前琵琶
和楽器の奏でる音をお楽しみください
出演:竹本旭将 他
14時~15時


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年12月21日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(4-4)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。第4回の10問を順次解説していきます。

第4回第4問
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 横を流れている川の名前は?
E 川の対岸に神社がありますが、その名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 三菱鉱業大阪精錬所
B 大阪アメニティパーク(OAP)
C 津藩蔵屋敷
D 淀川(大川)
E 桜宮神社

三菱鉱業大阪精錬所は、明治24年(1891年)に宮内庁御料局生野支庁付属大阪精錬所として発足し、明治29年(1896年)に三菱合資会社が払下げを受けたものです。
大正7年(1918年)4月に三菱鉱業(後の三菱鉱業セメント)が設立され、三菱合資会社より鉱業事業を継承しました。大阪市パノラマ地図にはこのころの様子が描かれています。
その後、昭和25年(1950年)4月に太平鉱業(後の三菱金属)が設立され、三菱鉱業の金属部門を継承しました。
平成元年(1989年)には、大阪製錬所を閉炉し、金製錬部門を直島製錬所、銅製錬部門を堺工場に移管しました。
平成2年(1990年)12月に、三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、三菱マテリアルが発足しました。

大阪アメニティパーク(おおさかアメニティパーク)は、大阪市北区天満橋一丁目を中心とした約5haのエリアにある複合施設です。略称はOAP。三菱マテリアルと三菱地所が共同で行った三菱金属(現・三菱マテリアル)大阪製錬所跡地の再開発として、1996年から2000年にかけて順次開業しました。

平成8年(1996年)1月:OAPタワー竣工
平成10年(1998年)2月:OAPアートコート竣工、3月:OAPレジデンスタワー東館入居開始
平成12年(2000年)12月:OAPレジデンスタワー西館入居開始

核となる高層ビルはOAPタワー(軒高176m)です。大川(旧淀川)のほとりのウォーターフロントという恵まれた立地を活かし、オフィス、ホテル(帝国ホテル大阪)、ショッピングエリア、高層住宅などが集約した大規模複合開発プロジェクトであった。所々に製錬所を模した建築デザインになっている。一部箇所は当時の建築物を移設・復元したものを使用しています。また、分譲されたOAPレジデンスタワーを除いた施設全体は「OAPタワーズ」と呼ばれています。

OAPに面して流れている大川では遊覧船「アクアライナー」、グルメ・ミュージック船「ひまわり」が運航しており、OAP内にある大阪水上バスOAP港から乗船することができます。
南側には、泉布観と旧桜宮公会堂があり、リニューアルされてイベント会場、レストランになっています。

浪華名所獨案内の川崎付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の川崎付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の川崎付近(今昔マップ3より)


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

2016年12月19日月曜日

今週の今昔館(38) 20161219

〇今昔館のあまり知られていない展示(その27)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の17回目は、こちらの写真です。


 木戸門を入ってすぐ左側の立具屋(建具屋)です。江戸時代の大坂の町には長屋つまり借家が多かった点に特色があります。長屋と言っても裏の路地に面した裏長屋ばかりでなく、表通りに面した表長屋も多くありました。そして、この借家に関して「裸貸し(はだかがし)」と呼ばれる独自のシステムが成立していました。京と大坂の借家を比較すると、京では建具は家に備えられており、また、天窓の張り替えや井戸の釣瓶・縄なども家主が負担するが、大坂では室内の建具をはじめとする内造作(うちぞうさく)は借り主が用意していました。

 大坂で裸貸しが成立した理由の一つとして、建築の設計方法が関係しています。部屋の大きさを決めるのに柱の真々の距離、すなわち柱間の間隔を用いる「柱割(はしらわり)」と呼ばれる方法に対して、大坂では、畳を基準に部屋の大きさを決定する「畳割(たたみわり)」という方法が普及していました。柱割では畳の寸法が部屋によって異なり交換できませんが、畳割では畳の寸法が一定することから交換が可能で、さらに、柱間の内法寸法も規格化されて、障子や襖など建具の規格も進んでいました。こうした設計方法を背景に、畳や建具の大量生産が可能となって、商品化されてきたのです。江戸時代後期に出された「浪華買物独案内」には、戸障子や襖などの建具を扱う店が多く名前を連ねていて、かなり流通していたことがわかります。



 畑屋次兵衛はそうした建具屋の一人で、阿波座戸屋町三丁目南側に店を構え、戸障子、屏風、襖、よし障子、衝立(ついたて)、衣桁(いこう)、額、欄間、引手、釘隠金物、床廻りなど多彩なものを扱っていました。今昔館の町並みで再現した建具屋はこの店を参考にしています。店の間には、引手金具や屏風などが並ぶほか、土間には「へっつい」(竃)や「走り」(流し)も置かれています。





〇今週のイベント・ワークショップ

12月21日、22日、24日、26日、28日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

12月23日、25日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


12月23日(金・祝)
イベント ヘルマンハープ コンサート

バリアフリー楽器ヘルマンハープと共に・・・
演奏と歌と、ワークショップで演奏体験を!
14時~15時
出演:シュトラーセ

12月24日(土)
町家衆イベント ワークショップ『正月祝箸袋』

①13時30分~ ②14時30分~
当日先着各回10名、1人200円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

12月25日(日)
イベント 町家のもちつき

当日先着各回20名:※中学生以下対象、参加費無料
※8階受付にて10時~整理券を配布します
①13時45分~ ②14時30分~


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年12月14日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(4-3)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。第4回の10問を順次解説していきます。

(第4回第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図の赤丸印の建物の場所にはその後何が建てられましたか?
E その建物はいつまで建っていましたか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。



解答と解説
A 加島銀行
B 大同生命保険本社ビル
C 加島屋
D 大同生命肥後橋ビル
E 1990年(平成2年)

 NHK朝のドラマ(連続テレビ小説)「あさが来た」のモデルとなり、一躍有名になった大同生命とその前身の加島銀行、加島屋です。加島銀行の歴史をウィキペディアにより振り返ると、
≪江戸時代から続く大阪の豪商・加島屋(かじまや)の両替店を母体に1888年(明治21年)設立。1902年(明治35年)には、大同生命保険の設立にも関与する。昭和恐慌のあおりを受け経営危機に陥り、1929年(昭和4年)鴻池銀行、野村銀行、山口銀行の3行に分割、買収される。1937年(昭和12年)廃業。行章は光を図案化した中央に「加」の字を配していた。≫
とあり、広岡家は大同生命に経営を集中し、加島銀行は現在の三菱東京UFJ銀行とりそな銀行につながっていることになります。

 一方、大同生命の歴史を同社のホームページに見ると、
≪明治35年7月 「加島屋」が主体となって、朝日生命(旧社名真宗生命:明治28年設立)、護国生命(明治29年設立)、北海生命(明治31年設立)の3社が合併、<加入者本位・堅実経営>を創業の精神として、大同生命保険株式会社を創業。社名は、「小異を捨てて大同につく」に由来。
明治42年1月  本社を大阪市西区江戸堀に移転。
大正14年6月  本社を大阪市西区土佐堀通1丁目1番地(現大阪本社所在地)に移転。
昭和22年7月  大同生命保険相互会社として再発足。
昭和47年10月 本社を大阪府吹田市江坂町1丁目23番101号に移転。
平成 5年10月 大阪本社を大阪市西区江戸堀1丁目2番1号に移転。≫

 以上の資料によると、大正13年1月発行の大阪市パノラマ地図に、土佐堀通と四つ橋筋が交わる肥後橋交差点に面して描かれている建物は加島銀行であることがわかります。

 ヴォーリズ建築事務所の設計による大同生命肥後橋ビルは、1922年(大正11年)10月4日着手されましたが、工事途中に突発した関東大震災をふまえて工事を中止しました。耐震性の向上のため当初計画の10階建てを9階建てにするなどの設計変更が加えられ、1925年(大正14年)6月6日に落成しました。完成に合わせて大同生命の本社はかつて加島屋本家があったこの地に移り、そのほか、加島銀行や広岡合名会社などの各社が居を構えました。

加島屋本家
大同生命肥後橋ビル
加島屋本家の碑

 現在の大同生命保険の大阪本社ビルは、ヴォーリズ設計の旧本社ビルを建て替えて誕生しました。大同生命の本社は昭和47年に吹田市江坂町に移転しましたが、本社ビルの完成にあわせて平成5年、再びここ土佐堀の地に戻ってきています。
 装飾的な部分は旧ビルの様式を引き継いでいますが、このビルを特徴付けている下層部の扇型の広がりは新ビルになってからのものです。 ヴォーリズの流れをくむ一粒社ヴォーリズ建築事務所と日建設計が設計しました。大阪都市建築景観賞を受賞しています。


浪華名所獨案内の肥後橋付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の肥後橋付近
明治42年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の肥後橋付近(今昔マップ3より)

第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

2016年12月12日月曜日

今週の今昔館(37) 20161212

〇町家で和の文化体験
 12月17日(土)、18日(日)は、大坂の伝統的な町家の中で、和の文化をプチ体験できる特別な2日間です。石臼でお茶を引いたり、昔遊びをしたり、風呂敷の便利な包み方などを体験してみましょう。
日時:12月17日(土)、18日(日)13:00~15:00
会場:大阪くらしの今昔館 9F 常設展示室内
参加費:無料(常設展示室への入館料が必要です)
事前申し込み:不要

海外からのお客様もぜひご参加ください。
詳細はこちらからどうぞ
日本語版(PDF)
英語版(PDF)
中国語版(PDF)
韓国語版(PDF)


〇収蔵資料紹介「浪花行事十二月 霜月 番船」 二代貞信 作、昭和14(1939)年

 当館の所蔵資料「浪花行事十二月」には、江戸時代の浪花の年中行事風俗が旧暦の月ごとに描かれています。今月ご紹介するのは、旧暦11月(新暦12月)の行事「霜月 番船」です。(大阪くらしの今昔館のホームページより)
 


 大坂から江戸へ新綿や新酒を送るため、到着する順番を競った廻船を称して新綿番船・新酒番船と呼びました。本図は安治川岸の切手場に切手(参加証)を受取りに来た船頭の乗る上荷船と、それを見物する多数の屋形船や住吉講など群衆の祭騒ぎの様子を描いた場面です。



〇今週のイベント・ワークショップ

12月12日、14日~17日、19日、21日、22日、24日、26日、28日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

12月18日、23日、25日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


12月17日(土)
町家衆イベント 折り紙

季節に合わせてさまざまな折り紙をお教えします。
作品は持ち帰っていただきます。
開催日:偶数月の第3土曜
時 間:13:30~15:00

12月18日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

12月23日(金・祝)
イベント ヘルマンハープ コンサート

バリアフリー楽器ヘルマンハープと共に・・・
演奏と歌と、ワークショップで演奏体験を!
14時~15時
出演:シュトラーセ

12月24日(土)
町家衆イベント ワークショップ『正月祝箸袋』

①13時30分~ ②14時30分~
当日先着各回10名、1人200円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

12月25日(日)
イベント 町家のもちつき

当日先着各回20名:※中学生以下対象、参加費無料
※8階受付にて10時~整理券を配布します
①13時45分~ ②14時30分~


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
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2016年12月7日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(4-2)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。第4回の10問を順次解説していきます。

(第4回第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の赤丸の建物の場所にはその後何が建てられたでしょうか?
E その建物はいつまで建っていたでしょうか? 

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。



解答と解説
A 大阪株式取引所
B 大阪取引所
C 金相場会所
D 大阪証券取引所
E 2000年(平成12年)3月閉館、2001年(平成13年)10月取り壊し

 大阪取引所(おおさかとりひきじょ)は、株式会社日本取引所グループの子会社で、金融商品取引所。所在地の大阪市中央区北浜一丁目にちなんで「北浜」とも呼ばれています。

 諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身で、金相場会所の跡地にあります。なお、1730年(享保15年)に設立された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引と言われます。この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていました(終戦後、証券業界では証券取引法に基づく証券取引所開設の際に証券業界で清算取引の再開を求めていたが、GHQにより清算取引の禁止を求められた経緯もあり個別株式の先物取引の復活は今日に至るまで実現されていません)。

 戦後は東京証券取引所とともに日本の株式市場の一翼をなしていたが、東証との経営統合や、持株会社の日本取引所グループの子会社化を経て、日本取引所グループでのデリバティブ(金融派生商品)専門取引所に位置付けられ、現物市場を東証に移管し、東証からデリバティブ市場の移管を受けて、2014年3月24日に現社名の「株式会社大阪取引所」に改名しています。

 現在の大阪取引所ビルは、平和不動産の所有で、下層階は旧市場館の外観を保存したものとなっています。エントランスホールの大型モニターには、大阪取引所の顔である日経225先物取引の取引値が表示されています。 テナントは、地下1階と1階に「ポンテベッキオ」など飲食店が、2階は銀行とクリニック、3階には大阪経済大学(北浜キャンパス)が入居し、社会人向けの実践的カリキュラムを提供している。5階は見学スペース「OSEギャラリー」(2015年2月2日オープン)となっています。オフィス棟の上層部にはオフィスや証券会社が多数入っています。

 旧市場館は1935年長谷部竹腰建築事務所の設計で竣工。施工は大林組。2004年の新ビルでも円形のエントランスホールの外観のみ残されています。

浪華名所獨案内の北浜付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の北浜付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の北浜付近(今昔マップ3より)

第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

2016年12月5日月曜日

今週の今昔館(36) 20161205

〇今昔館のあまり知られていない展示(その26)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の16回目は、こちらの写真です。



 風呂屋の洗い場に張られた「引き札」です。風呂屋は町の社交場でもあり、芝居興行の広告、店の引き札などが張られました。下の写真は、風呂屋の内部で、手前が脱衣場、奥が洗い場、柘榴口(ざくろぐち)を潜って浴槽に入ります。大坂の風呂屋は元旦を除いて年中無休でした。


 「引き札」という言葉は、聞いたこともないという方もおられると思います。
 主に広告チラシを指しますが、木製看板と同じ縦長をしており、のちのポスターの先駆けになった「紙看板」も引き札の一種です。広告チラシを家の壁や襖、銭湯に貼ったりもした。とあります。以下、ウィキペディアからの抜粋です。

 引き札 、または 引札 (ひきふだ)は、江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買、製造販売元などの宣伝のために作られた広告チラシです。広告の歴史資料としてだけでなく、独特の色合いと大胆な図柄から美術品としての価値もある印刷物として蒐集の対象ともなり、各地の博物館に所蔵されるほか、展覧会も開かれています。

 初期の引き札は一色か二色でしたが、色鮮やかな引き札は、浮世絵の衰退期に、文明開化で商業活動が盛んになったのに合わせて、日本の木版、石版、銅版、活版印刷の発展とともに大量に作られた、商店のチラシ、折り込み広告、手配りのビラ、景品、付録などの印刷物です。商品の広告だけでなく、開店、改装のお祝い、得意先配り、街頭配りなどにも使われました。

 浮世絵に次ぐ手作りの風合いを持った最後の一般印刷物で、近代広告の元祖であるとともに、キャッチコピーの先駆けでもあります。今では美術品として扱われ、また当時の時代的資料の価値もあります。当時商店が扱った衣食住、日用品や産業だけでなく、絵に描かれた出始めの電話、電柱、自動車、電車、飛行機などの歴史資料も見られます。江戸東京、大阪、京都など当時の都市圏のほか、全国に広がりました。サイズは浮世絵より小さいもの、大きいものなどさまざまです。家の壁や襖、銭湯に貼ったりもしました。

 13世紀に一遍上人が「南無阿弥陀仏」の札を出したとあるが、天和3年に越後屋が呉服の宣伝に「現金安売り掛け値なし」という引き札を十里四方に出したのが引き札の始まりと言われます。同業者の反発に幕府の検閲も入りましたが、井原西鶴はこれを大商人の手引きと引用しました。その後、平賀源内が1769年(明和6年)に知人の依頼で歯磨き粉の引き札を作ったのが有名になった他、多くの作家が引き札を作成し、話題になりました。

 明治、大正期には、浮世絵の伝統も残っており、機械木版刷り、石版摺りなどの導入で、手作りの味を残しながら、大量に印刷できる色鮮やかな引き札が登場しました。

 引き札の語源は、「お客を引く」、「引き付ける」、「配る」(配るを引くと言った)から来ているという諸説あります。当初は、札回し、安売り目録書き、口上書、書付、挿広告とも呼ばれました。江戸時代には何十万枚と出されたという記録があり、安政3年には松坂屋が5,500枚出したとある。ひろめ屋が配ったりもした。チラシの語源は、大阪で引き札をまき散らすから来ているといわれます。

明治5年に東京日日新聞から新聞附録で使われ、のちに新聞広告の隆盛とともに取って代わられました。


 今昔館では、展示解説のチラシを江戸時代の引き札風にデザインして作成しています。英語版の引き札もあります。



〇今週のイベント・ワークショップ

12月5日、7日~10日、12日、14日~17日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

12月11日、18日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


12月10日(土)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町家で、落語をきいてみませんか
出演:林家竹丸 笑福亭呂好
14時~15時

町家衆イベント ワークショップ 『はたき作り』
①13時30分~ ②14時30分~
当日各回先着10名、1人300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

12月11日(日)
町家衆イベント おじゃみ

古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00~16:00

12月17日(土)
町家衆イベント 折り紙

季節に合わせてさまざまな折り紙をお教えします。
作品は持ち帰っていただきます。
開催日:偶数月の第3土曜
時 間:13:30~15:00

12月18日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年11月30日水曜日

大阪市パノラマ地図検定解説編(4-1)

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。第4回の10問を順次解説していきます。

(第4回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 昭和30年には何があったでしょうか?
E 昭和40年には何があったでしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。



解答と解説
A 千日前楽天地
B エスカールなんばビックカメラ
C 千日前墓地
D 大阪歌舞伎座
E 千日デパートビル


 楽天地(らくてんち)は、1914年(大正3年)から1930年(昭和5年)まで大阪市南区難波新地四番町(現・中央区千日前)にあった劇場・演芸場・レジャーの殿堂。大正時代の大阪を代表するハイカラな名所でした。

 1912年(明治45年)1月16日、「ミナミの大火」によって難波新地から西高津新地、生国魂神社あたりまでが焼失しました。ミナミの壊滅的な被害で繁華街の灯が消えることを危惧した南海鉄道の社長は、近代的なレジャーセンターを作って復興したいと考え大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけました。彼は当時、活動写真館や演芸場を経営し役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主でした。南海の出資で彼はすべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想します。

 焼け跡整理にあたり、現在の千日前通にあたる東西の通りが拡幅され電車通りとなります。同時に、電車通りにできた新しい千日前交差点の南西隅に、山川吉太郎は1914年(大正3年)5月に一大娯楽センター「楽天地」を建設、一躍市内のハイカラな名所となりました。

 地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていました。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演。大劇場では主に外国の映画を上映、小劇場「朝陽殿」は男性向けの漫才などの演芸場、小劇場「月宮殿」は琵琶少女歌劇で、悲恋物など若い女性向けの泣ける芝居を上映していました。この中の少女スターが後の名優田中絹代です。地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館などもありました。屋上ドームを回る螺旋階段を登るとドーム上に大阪市内を見渡す展望台があり人気を集めました。

 楽天地も御堂筋沿いのデパートなどさらに新しい名所に押され、また山川吉太郎の映画制作で多額の借金を抱えたことで営業が立ち行かなくなってきました。帝国キネマが1930年(昭和5年)に撮影所を焼失したのと時を同じくして、同年、楽天地もついに閉鎖しました。

 その跡地には1932年(昭和7年)には松竹経営で7階建て、3000名弱収容の南欧風近代建築「大阪歌舞伎座」(御堂筋にある大阪新歌舞伎座(2009年6月30日閉鎖)の前身)が誕生しました。

 1958年(昭和33年)、新歌舞伎座竣工後は、旧歌舞伎座ビルは千日デパートとなりましたが、1972年(昭和47年)の千日デパート火災で多数の死者を出します。その後長らくビルは放置され、1983年(昭和58年)ようやく取り壊されダイエー系のデパート「プランタンなんば」に建て替わり、「カテプリなんば」と改称したのを経て、現在はビックカメラなんば店(エスカールなんば)となっている。以上、ウィキペディアより引用しました。


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
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2016年11月28日月曜日

今週の今昔館(35) 20161128

〇今昔館のあまり知られていない展示(その25)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の15回目は、こちらの写真です。


 唐高麗物屋の店構えです。本瓦ぶきの大屋根と通り庇を持った表構えは古風で、伝統と信用を重んじる老舗のイメージが伝わってきます。両隣やお向かいの店は、本瓦葺きではなく現代と同じ波型の桟瓦葺きとなっています。今昔館の再現された町家はそれぞれ建築時期が設定されています。唐高麗物屋だけは大火を免れて一時代前の建物が残っているということで、風格はあるものの痛みもひどく、庇が垂れ下がるのを防ぐためのつっかえ柱が通常柱を立ててはいけないところに立てられています。

 店構えの展示にあたっては、『摂津名所図会』の「疋田屋店頭図」に基づいて、できるだけ忠実に再現しています。床机には、中国製椅子、その上部には払子(ほっす)・如意棒・灯籠が釣り下がっています。棚にはイギリスやオランダ製のガラス杯・聯(れん)、床には清朝の染付けや赤絵の陶磁器壺、その中には孔雀の羽根も見えます。
 店の間の中央には平賀源内が製作したといわれるエレキテルが置かれていて実演の様子が描かれています。台座に座った人の髪の毛が静電気で立ち上がっています。


 今昔館では、展示解説のチラシを江戸時代の引き札風に作成していますが、唐高麗物屋の引き札には、『摂津名所図会』の「疋田屋店頭図」をご紹介しています。引き札と展示を見比べていただくと、忠実に再現されている様子がお分かりいただけると思います。



〇今週のイベント・ワークショップ

11月28日、30日、12月1日~3日、5日、7日~10日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日・祝日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

12月4日、11日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


12月4日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
開催日:第1・3日曜
時 間:13:00~16:00

イベント 町家寄席-落語“らくてん会”
江戸時代にタイムスリップ!大坂の町家で、落語をきいてみませんか
14時~15時30分頃
出演:らくてん会

12月10日(土)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町家で、落語をきいてみませんか
出演:林家竹丸 笑福亭呂好
14時~15時

町家衆イベント ワークショップ 『はたき作り』
①13時30分~ ②14時30分~
当日各回先着10名、1人300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します

12月11日(日)
町家衆イベント おじゃみ

古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00~16:00


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
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2016年11月24日木曜日

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。

(第3回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図中央の「阪神前」は市電の停留所名です。では、地図の右側の「崎」は何を表わしているでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 阪神電気鉄道「梅田駅」
B ハービスENT
C 曾根崎村の田地
D 曾根崎の「崎」
 阪神電気鉄道の開業当初、少し西の出入橋駅までの営業でしたが、明治39年に東へ延伸されました。現在の阪神梅田駅はさらに東へ延伸され、大阪駅前の地下駅となっています。


(第3回 第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「車庫前」は市電の停留所名です。さて何の車庫があったのでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 阪神急行電鉄梅田駅「阪急ビル」
B 阪急百貨店梅田店
C 北野村の田地
D 大阪市電の車庫

 当時は1階は阪急ではなく白木屋(大正9年~大正14年)に賃貸されていました。2階は阪急食堂が営業していました。



 江戸時代天保年間の梅田付近は、大坂三郷天満組の市街地の北の外れで、田地が拡がっていました。淀川の氾濫の多い地域でもあり、水に強い菜の花が多く植えられていたそうです。江戸時代には能勢街道の要所として、数多くの旅人が行き来して、鶴乃茶屋や萩乃茶屋といった名物茶屋が並んで賑わったという茶屋町界隈。菜の花畑が一面に広がり、それは大坂・毛馬生まれの漂泊詩人・与謝蕪村の心の故郷、原風景でもありました。菜の花を題材にした多くの句が詠まれています。今では大都会の中心部にありながらも、茶屋町界隈には、よく眺めれば、旧街道の名残がちらほら見えてきます。
 第1回大阪市パノラマ地図検定の第2問「大阪駅」のところでも触れましたが、大阪~神戸間の鉄道が引かれた際に、市街地の外れのこの地域に「梅田ステン所」が建設され、その後、現在の大阪環状線に当たる西成線と城東線の駅ができ、私鉄の阪神、阪急のターミナルもこの地域に整備されました。


浪華名所獨案内(天保年間)の梅田付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の梅田付近

 阪神電鉄は、明治32年(1899)6月に、社名を摂津電気鉄道株式会社として設立。同年7月に阪神電気鉄道株式会社に改称し、明治38年(1905)4月に神戸(三宮)~ 大阪(出入橋)間の営業を開始しました。翌明治39年(1906)12月21日に、それまでのターミナルだった出入橋駅より路線を延ばす形で梅田駅が開業しました。現在より西のハービスENTあたりにありました。パノラマ地図にはこの時の梅田駅が描かれています。その後昭和14年(1939)3月21日に、地下化され現在の梅田駅に移転しました。

 一方の阪急電鉄の梅田駅は、明治43年(1910)に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道が梅田駅~宝塚駅間で営業開始した際に開業しました。このときは東海道本線南側、現在の阪急百貨店うめだ本店の場所にある地上駅でした。大正7年(1918)2月4日、社名変更により阪神急行電鉄となり、大正9年(1920)7月16日に神戸本線が開業し、神戸本線の列車が乗り入れるようになりました。パノラマ地図にはこのころの梅田駅が描かれています。
 その後、大正15年(1926)7月5日、梅田駅~十三駅間の複々線高架完成により高架駅に移転しました。この際に国有鉄道大阪駅の高架化計画が既に立てられていたため、高架駅は鉄骨の仮建築として造られました。そして、大阪駅の高架化工事が部分完成するとともに、予定通り昭和9年(1934)に再び地上駅化されました。
 昭和18年(1943)に阪神急行電鉄と京阪電気鉄道の合併により京阪神急行電鉄となり、昭和34年(1959)には梅田駅~十三駅間に京都本線用の線路が増設されました。
 昭和41年(1966)から、現在地への移転高架化拡張工事に起工し、昭和42年(1967)に神戸本線ホームを高架に移転、以降順次移転を進め、昭和48年(1973)に高架化拡張工事が完成し、現在の阪急梅田駅となりました。
 阪急梅田駅の歴史については、新之介さんのブログ「十三のいま昔を歩こう」に3回シリーズでたくさんの写真や資料を使って紹介されています。詳しくはこちらをどうぞ。
≫ http://atamatote.blog119.fc2.com/blog-entry-118.html
 
大正14(1925)年発行の「大阪市街大地図」の梅田付近
明治41年、昭和7年、昭和42年、最近の地形図(今昔マップ3より)



(第3回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「しほみばし」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪高野鉄道「汐見橋駅」
B 南海電気鉄道高野線「汐見橋駅」
C 難波村の田地
D 道頓堀川

 現在は南海高野線は汐見橋から高野山まで直通とはなっていません。近年まで駅構内に「南海沿線観光案内図(昭和30年代)」が掲示されていました。詳しくはこちらの記事をどうぞ。
http://www.sankei.com/west/news/160323/wst1603230038-n1.html



(第3回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「にぎはいばし(賑橋)」の架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 日本国有鉄道「湊町駅」
B 西日本旅客鉄道「JR難波駅」
C 難波村の田地
D 難波入堀川

 JR関西本線(大和路線)の終着で、湊町駅からの駅名の変更に当たり、近接の地下鉄、近鉄、阪神と区別するため、JRを付加した駅名「JR難波駅」が正式名となっています。


 江戸時代の大坂三郷南組の市街地は道頓堀川の南岸までで、そこから南は難波村の田地でした。
浪華名所獨案内(天保年間)の難波村付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の難波村付近


 汐見橋駅は、明治33年(1900)に高野鉄道が大小路駅(現・堺東駅)から延伸した際の終着駅にあたる道頓堀駅として開業し、翌明治34年(1901)汐見橋駅に改称されました。明治40年(1907)、 会社合併により高野登山鉄道、大正4年(1915)社名変更により大阪高野鉄道、昭和7年(1922)、会社合併により南海鉄道の駅となりました。かつては貨物専用ヤードも併設していました。
 高野線の起点であり、昭和60年(1985)に大阪市の立体交差事業が行われる以前は、岸ノ里駅(現・岸里玉出駅)以南と直通していたため、当駅から高野線本線との一部区間運転電車が存在していましたが、立体交差事業の実施後は線路が分断されたため直接高野線本線に乗り入れることが不可能となりました。それ以後は高野線本線は難波駅から岸里玉出駅まで南海本線を経由して極楽橋駅に乗り入れる電車のみとなりました。このため当駅からは岸里玉出駅との区間運転の電車だけが運転されており、事実上は支線となっています。このため、汐見橋駅~岸里玉出駅間は汐見橋線(しおみばしせん)という通称でも呼ばれています。当駅と新大阪駅を結ぶ計画路線であるなにわ筋線の開業時には、南海は木津川駅~当駅間を地下化する予定でしたが、最近になって南海のルートについて難波駅接続が有力候補となり、当駅の存続が危ぶまれている状況です。
 道頓堀川には駅名の由来になった汐見橋が架かり、新なにわ筋(大阪府道29号線)が通っています。現在の橋は昭和39年(1964)に架け替えられたものです。開業時は「道頓堀駅」と称しましたが、江戸時代からすでに道頓堀と言えば島之内の対岸にあたる繁華街を指すことが一般的だったこともあり、翌年には汐見橋駅に改称しています。なお、当駅と道頓堀川の間には桜川(埋立てられて現在の千日前通)も流れていました。

 湊町駅は、明治22年(1889)に、大阪鉄道の湊町駅(みなとまちえき、一般駅)として開業し、同社の創業路線である湊町駅~柏原駅間の起点となりました。明治33年(1900)に関西鉄道が承継、明治40年(1907)に国有化され、明治42年(1909)に、日本国有鉄道関西本線所属の駅となりました。
 西側に貨車入換用の線路が広がり、駅操車場内の南端には蒸気機関車の転車台が設けられていました。また、道頓堀川から入堀が開削されていました。南側には留置線が広がり、夜間滞泊の車両が留置されていました。駅には町の東西を結ぶ歩行者用の跨線橋(地元の人は「たかばし」と呼んでいた)がかけられていました。駅の東側の跨線橋上り口付近には、駅職員のための厚生施設(理髪室、浴場)も設けられており、地元の人も利用できたそうです。また、車両が通行できる踏切は駅南側にあり、それも貨車入換線を横切る長さ50m近い踏切だったため、時々「開かずの踏切」となっていました。
 駅開業から平成6年(1994)まで湊町駅(みなとまちえき)と称しており、道頓堀川八丁のひとつである道頓堀湊町(駅開業時は大阪市南区湊町)に開業したことによります。ただし、当時の湊町の範囲は道頓堀川に面した狭小なもので、西成郡難波村(のち大阪市に編入され、難波東円手町)にもまたがっていました(現在の湊町の範囲は1980年に拡大されたもの)。
 1989年の駅移転によって、元来の湊町から完全に離れて難波側にのみ位置するようになり、地下駅化して難波駅や大阪難波駅(当時は近鉄難波駅)と連絡する計画もあったため、1994年9月4日の関西国際空港開港と同日にJR難波駅に改称されました。駅名に「JR」を冠したのはJRグループ各社を通して初めてで、駅名にアルファベットが入ったのも日本では初めてです。


大阪市街大地図(大正14年発行)の京橋口付近
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の汐見橋駅付近(今昔マップ3より)
明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図の湊町付近(今昔マップ3より)



(第3回 第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 扇橋の架かっている川の名前は?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 日本国有鉄道「天満駅」
B 西日本旅客鉄道「天満駅」
C 大坂三郷天満組池田町および夫婦町の町家と川崎村
D 天満堀川


 当時は現在のJR大阪環状線は環状になっておらず、大阪駅から東側は城東線と呼ばれており、地上を走っていました。このため、天神橋筋商店街の一筋西側に市電の敷設と合わせて天神橋西筋ができる際に、跨線橋によって国鉄を跨いでいました。パノラマ地図にその姿が描かれています。昭和8年(1933)に高架化され現在の天満駅が建設されました。
 ガード下のアーケードの天神橋筋商店街は自称「日本一長い商店街」で、古称は十丁目筋商店街。浪華名所獨案内にも、「十丁目筋と云う」と記されています。
 北側には天満市場があり、天満市場と天神橋筋商店街の間に商店が密集しており、駅周辺は大規模な商店街となっています。また、飲食店も数多く存在しており、庶民的な市場・盛り場となっています。


 天満駅周辺は江戸時代には大阪三郷天満組の北のはずれでした。浪華名所獨案内を見ると、東寺町より北には町の名前がなく、天保新改攝州大阪全圖を見ると、丁与力、丁同心より北には夫婦池があり、天神橋筋に沿って弁天丁・池田丁の文字がありますが、その東西には町の表示はなく農地が広がっていたと想定されます。
浪華名所獨案内(天保年間)の天満付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の天満付近

 現在の大阪環状線の東半分となる区間は、大阪鉄道 (初代) の本線(現在の関西本線)と官設鉄道東海道本線の間を結ぶために建設されましたが、その玉造駅 - 梅田駅(現在の大阪駅)間の開業時(明治28年)に、京橋駅と共に設置されたのが天満駅でした。駅名は、駅南方一帯の地名「天満」(大阪天満宮に由来・大阪三郷の天満組)に因んだものです。
 その後明治33年に関西鉄道が大阪鉄道の路線を承継し関西鉄道の駅となり、明治40年に関西鉄道が国有化され、国有鉄道の駅となりました。昭和8年(1933)に高架化され、昭和42年には現在の1番のりばが増設されました。
 「大阪環状線改造プロジェクト」の一環として、2015年3月22日から発車メロディにaikoの「花火」を導入している。大阪天満宮で夏に開かれる天神祭にちなんでおり、大阪出身のaikoの曲です。
 京阪電鉄の天満橋と名前が似ているためによく間違えられますが、約2km離れています。

大阪市街大地図(大正14年発行)の天満付近
明治41年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の天満駅付近(今昔マップ3より)


(第3回 第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「のだばし」が架かっている川の名前は?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 日本国有鉄道「片町駅」

B 西日本旅客鉄道JR東西線敷地
C 大坂三郷北組相生西ノ町および東ノ町の町家
D 鯰江川

 片町駅(かたまちえき)は、大阪市都島区にあった駅で、鯰江川(現在は埋立)に架かっていた野田橋を挟んで西日本旅客鉄道(JR西日本)片町線(学研都市線)の終点駅と、京阪電気鉄道京阪本線の天満橋駅~京橋駅間の駅の2つの駅がありましたが、京阪の駅は複々線高架化工事の際に、JRの駅は東西線の開業に伴い、いずれも廃止されました。また、大阪市電天満橋善源寺町線片町停留場も近くにありました。

浪華名所獨案内(天保年間)の片ハラ町(片原町)付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の片丁(片町)付近
 JR西日本の片町駅は、明治28年(1895)に浪速鉄道の四条畷駅~当駅間の開業と同時に、都心側のターミナルとして、東成郡鯰江村大字新喜多新田(当時)に建設された駅です。当時の大阪市街の北東端であった相生町にできる限り近接させた駅で、駅名の「片町」は、相生町が1708年まで京街道の北側にしか家屋がない片側町「京橋片原町」だったことに由来します。
 江戸時代の地図には、片ハラ町、片丁の記載がみられます。
 鯰江川と寝屋川に挟まれた狭小な土地で駅前が非常に狭かったため、関西鉄道への合併後、一時は放出駅から路線を分岐させる形で近隣に設けられた網島駅へ旅客扱いを譲り、貨物駅となったこともありましたが、国有化後に城東線(現在の大阪環状線)の京橋駅に隣接するようにして設けられた片町駅京橋口を京橋駅として分離し、それと入れ替わる形で網島駅を廃止したことによって、片町線の起点駅としての地位に落ち着きました。
 しかし、京橋駅まで営業キロが0.5kmと短く、京橋駅が城東線や京阪本線との乗り換え駅として栄える反面、利用者が少なく、接続もない当駅の地位は低下したため、平成9年(1997)のJR東西線開業に伴い廃止となりました。同時に片町駅と入れ替わるようにしてJR東西線に大阪城北詰駅が近くに開業しています(同駅の仮称は「片町駅」でした)。
 廃止後も路線名(片町線)にその名を残していますが、JR西日本では「学研都市線」の愛称で案内しています。
 廃止から10年以上が経ちますが、「片町」という地名への愛着から、大阪城北詰駅を「片町」や「片町」を含む駅名に改称してほしいという意見もなお存在しています。

 京阪電気鉄道の片町駅は、京阪本線が、明治43年(1910)に天満橋駅~五条駅間で開業した際に設置された中間駅です。当初は片町交差点東側で野田橋駅と称し、区間急行と普通が停車していました。線路敷は寝屋川橋梁東側から片町交差点まで道路併用軌道でしたが、これを専用軌道化した昭和30年(1955)に片町交差点西側に移転し、「片町駅」と改称しました。この片町交差点では、大阪市電が廃止された昭和43年(1968)まで平面交差を行っていました。
 その後、天満橋駅~旧蒲生信号所間の高架複々線化工事のために京都方に移転、国鉄駅とは若干離れるようになりました。さらに、新高架線では駅の設置が困難で、高架線の京橋駅が地上線の京橋駅より片町駅寄りに設置されることになったため、昭和44年(1969)に廃止されました。代替として高架線京橋駅西側に片町口が設置されています。

大阪市街大地図(大正14年発行)の片町付近
明治41年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の片町付近(今昔マップ3より)



(第3回 第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「わたなべばし」が架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 朝日新聞社
B 中之島フェスティバルタワー・ウエスト(工事中)
C 宇和島藩および大洲藩大坂蔵屋敷
D 堂島川

 宇和島藩蔵屋敷に祭祀の稲荷社は向かいの中之島フェスティバルタワー13Fに遷座(朝日稲荷大明神)されました。


(第3回 第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「さいこくばし」が架かっている川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 郵便本局(大阪中央郵便局)
B 中之島フェスティバルタワー
C 平戸藩大坂蔵屋敷
D 西横堀川



 江戸時代の中之島は、浪華名所獨案内に記されているように諸藩の蔵屋敷が多く立地していました。天保新改攝州大阪全圖を見ると、現在の四ツ橋筋を挟んで西側には宇和島藩および大洲藩、東側には平戸藩の蔵屋敷がありました。
浪華名所獨案内(天保年間)の肥後橋付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の肥後橋付近
 明治28年(1895)発行の大阪市明細地圖を見ると、西側に朝日新聞社、東側に郵便電信局が立地しています。大阪市パノラマ地図と同様です。
 大正14年(1925)発行の大阪市街大地図では、西側は朝日新聞社、東側は中央郵便局となっています。
大阪市街大地図(大正14年発行)の肥後橋付近
明治42年、昭和7年、昭和42年、最近の地形図の肥後橋付近(今昔マップ3より)
 朝日会館は昭和元年(1926)から昭和37年(1962)まで大阪の中之島に存在していた総合文化施設です。朝日新聞社を経営母体とする会館は、内部に展覧会場やホールをそなえ、映画上映、舞踊公演、演劇公演、音楽会、講演会に美術展、さらには雑誌出版など 多彩な文化事業を行っていました。川沿いにそびえる地下一階、地上六階の建物は、全体が黒色に覆われていたこともあり、ひときわ目を引くものだったといいます。朝日会館が会館する際におこなわれた談話の中で、当時の大阪市長である関一はこんなふうに述べています。
 「この壮麗で『文化の殿堂』として申分のない建築物は大阪市民の多年熱望していたものです。(中略)その建築様式も異彩を放ち海外に誇るに足るべきものでシヴィック・センターの同所を中心として都市計画の完成とともにその偉観に接することのできるのは私の最も欣幸とするところであります。」(『朝日會館史』より)
 この時期、関はみずからが掲げる「大大阪」理念のもとに大阪を近代都市へと変貌させようと目論んでいましたが、この談話はそのなかで文化施設としての朝日会館に期待がかけられていたことを示しています。実際に会館はさまざまな 文化領域において主導的な役割をはたし、「ここが大阪文化の中心」(『まぼろしの大阪」』より、坪内氏との対談のなかでの谷沢永一氏の発言)とまで評される存在となりました。(以上、朝日会館・会館芸術研究会さんのホームページより)

 大阪朝日ビルは、朝日新聞大阪本社社屋として、昭和6年(1931)に竣工しました。北東部分にはダイビル(初代、2009年解体)と同様に客船をイメージしたアールがつけられ、朝日新聞の題字ロゴが取り付けられていました。内部にはガラス張りの階段室、屋上には艦橋を連想させる航空標識塔が設けられています。DOCOMOMO JAPAN選定の日本におけるモダン・ムーブメントの建築にも選ばれました。
 朝日新聞ビル(あさひしんぶんビル)は昭和43年(1968)に竣工し、大阪朝日ビル(1931年竣工、10階建)の西側および南側に設置され、朝日新聞大阪本社の編集・発行部門のほか、関連会社、外部のテナントなどが入居していました。建物は地上13階、地下5階。建物は、大阪朝日ビルの西側と南側をL字型に覆うような形になっており、四ツ橋筋に面した南東側は同じく四ツ橋筋に面する大阪朝日ビルの北東側と同様に湾曲したデザインとなっていて、大阪朝日ビルとの一体感を持たせるようになっていました。また建物の西側は、阪神高速11号池田線が通っており、建物が橋脚の一部となっています。

 昭和33年(1958)には、大阪朝日ビルの東向かいの郵便本局のあった敷地に、フェスティバルホール、リサイタルホール、大阪グランドホテル、日刊スポーツ大阪本社等が入っている新朝日ビルディングがオープンしました。ビルディング建設前は昭和27年(1952)から31年(1956)までスケートリンク・アサヒアリーナがありました。屋上には昭和37年(1962)から平成6年(1994)まで公共ヘリポートである朝日ヘリポートが設置されていました。
 大阪グランドホテルの開業当時は東洋一のホテルとも呼ばれ、フェスティバルホールで演奏会を開いたカラヤンやバーンスタインなど多くの世界的な音楽家や文化人も利用しました。
しかし、新朝日ビルは老朽化を理由に平成21(2009)年度中に解体され、高さ200mの超高層ビル(中之島フェスティバルタワー)に建替えられることとなり、ホテルも平成20年(2008)3月31日に閉館することとなりました。
 平成24年(2012)11月に新しいフェスティバルホール(2013年4月開業)などを含んだ中之島フェスティバルタワー(東地区)が完成しました。
 平成26年(2014)、朝日新聞社は向かい側の旧朝日新聞ビル・大阪朝日ビル跡に建設される「中之島フェルティバルタワーウエスト」内に、ロイヤルホテル運営の新しいホテルを2017年に開業させることを発表しました。新ホテルは同タワーの33~40階に170室を設置、全室が面積50平方メートル以上の高級ホテルとなる予定です。


 フェスティバルホールのあった旧「新朝日ビル」の南壁面のレリーフ「牧神、音楽を楽しむの図」が、建替えに当たって再現されています。新レリーフ6体はすべて旧レリーフと同じ大きさで製作されましたが、建物の大きさは旧ビルと新ビルでは大きく異なっており、特に新レリーフを設置する壁面は旧ビルの壁面に比べて広いスペースが確保されています。また、旧レリーフの最高高さは20mでしたが、新レリーフは最高40mと高い位置にあります。そのため、旧レリーフの配置を基本としながら、ビル全体の形状も考慮した上、旧レリーフの配置よりも「太陽」を高く、「牧神(鳥)」を低く配置し、バランスをとっています。また、旧レリーフは建物に埋め込まれていましたが、新レリーフは壁面から10cm浮いて取り付けられていることにより影が出て、それが、レリーフのシルエットをより強調しています。
 レリーフの再現については、大塚オーミ陶業株式会社さんのホームページに詳しいレポートがあります。
http://www.ohmi.co.jp/report/index.php?topics2_category_pk=1464062648



(第3回 第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 「なにはばし」が架かっている川は堂島川ともう1つの川の名前は?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪ホテル
B 東洋陶磁美術館
C 大川(旧淀川)の河川内
D 土佐堀川

 江戸時代後期になっても中之島は現大阪市中央公会堂の少し東まででその上流は大川でした。

 ロイヤルホテル新館の開業を記念して出版された随筆集「大阪讃歌」の中に宮本又次先生が書かれた「大阪ホテル」があります。60人の執筆者のうち何人かはロイヤルホテルの前身である新大阪ホテルの想い出などを綴っておられますが、大阪ホテルについて詳しく書かれているのは、この一編だけでした。
 宮本先生によると、大阪におけるホテルらしいものの最初は明治21年開業の自由亭で、その前身は西区本田にあった欧風亭という川口居留地の外国人専門の欧食料亭で旅館も兼業していました。明治21年に市有地であった中之島公園の地にホテルとして新たに自由亭が建てられました。和洋両様の二棟を有し、日本館の方を「洗身亭」となづけた。鉾流橋の南詰め東手で、木村重成の碑の西、のち大阪銀行協会があったあたり、今は関市長の銅像の建っている所と思われるとあります。
 明治32年に株式会社大阪倶楽部が組織され、自由亭の西館洋式の部の業務を受け継いで、大阪倶楽部ホテルと称しました。ところが、このホテルは明治34年11月に出火し、全館を焼いてしまいました。 その跡地には、明治35年8月、木造で外壁はコンクリート塗り、客室30を有する純洋式の大阪ホテルが新築されました。明治36年開催の第5回内国勧業博覧会に間に合うよう小路を急いだそうです。火災を免れた隣の日本料亭(旧洗身亭)をも買収してそれを大阪ホテル東店としました。
 当時、日本の五大ホテルとして、東京の帝国ホテル、箱根宮の下の富士屋、京都の都ホテル、日光の金谷ホテルと並び称されたそうです。
 大正8年には名古屋ホテルを買収して支店とし、大正9年には今橋西詰めにあった浪速ホテルを合併して支店とし、大正10年には今橋ホテルと改称しました。
 しかし、大正13年11月、中之島のホテル本店より出火、再度全焼するの悲運に見舞われます。しかもこの敷地は公園地帯になっていたので再築の許可を受けることができず、今橋ホテルを本店にして、中之島から消え去る運命になりました。今橋ホテルを改称した大阪ホテルは昭和16年2月まで営業を続けました。

 大阪市パノラマ地図は、大正12年12月印刷、13年1月発行ですので、地図に描かれている大阪ホテルは、その年の11月に消失したことになります。

 その後、真に大阪を代表するにふさわしい大ホテルの計画が進められ、大阪財界の要望を結集して、ついに昭和10年に豪華なる新大阪ホテルが出現することになります。そして、戦後に大阪グランドホテル、大阪ロイヤルホテルなど中之島の地に超一流のホテルがあらわれますが、これはかつて明治大正期に中之島の地にあってきわめて異色ある役割をはたしていた旧大阪ホテルと直接の関係はないにしても、非連続の連続と考えらるべきもので、その先駆と考えてよいであろう。と宮本先生は書いておられます。


(第3回 第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 豊國神社はその後どこに遷座されたでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 豊国神社
B 4代目大阪市庁舎第1期部分
C 唐津藩大坂蔵屋敷
D 大阪城内


 豊国神社は当初、中之島の最東端にあり、大阪市中央公会堂の建設の際にパノラマ地図の位置に移転、4代目市役所で大阪城内に再移転しました。

 豊国神社は、明治12年(1879年)11月 京都・豊国神社大阪別社として創建。当初は大阪府北区中之島字山崎の鼻(現在、大阪市中央公会堂がある地点)に鎮座しました。大正元年(1912年) 中之島内で移動、現在の大阪府立中之島図書館西側へ遷座されました。
 大正10年(1921年)、京都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊臣秀長も配祀しています。
 現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区中之島においての創建となりましたが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座されました。
大阪市パノラマ地図をよく見ると、大阪ホテルの前の通りに鳥居が描かれています。
 江戸時代の中之島は、浪華名所獨案内を見ると、ナニハバシの手前までしかありません。先端部に「山サキ」とあります。この先端部に豊国神社が遷座していましたが、公会堂の建設の際に図書館の西側に移動しました。鳥居があるのはその名残かもしれません。

 大正3年の地図に、難波橋と大川橋の2つの橋が架かっていますが、大川橋が現在の難波橋です。以前の難波橋は現在よりひと筋西の難波橋筋にかかっていました。市電敷設の際にひと筋東の堺筋に移動しましたが、名前は難波橋を引き継ぎました。
浪華名所獨案内の中之島東部
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の中之島東部
大阪市内詳細図(大正3年発行)の中之島東部
大阪市街大地図(大正14年発行)の中之島東部
明治42年、昭和4年、昭和42年、最近の地形図の中之島東部(今昔マップ3より)



第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html