2017年11月18日土曜日

大大阪観光地図と最新大大阪市街地図

 大正13(1924)年発行の「大阪市パノラマ地図」には、大大阪時代に入る直前の大阪の様子が描かれています。それからの約10年間で大阪は大きく変貌します。昭和12(1937)年には、「大大阪観光」という映画が、大阪市電気局と大阪市産業部によって制作されました。
 その時代の大阪の様子が分かる地図を探していると、国際日本文化研究センター(日文研)所蔵の地図の中に、「大大阪観光地図(以下、観光地図)」という名称の地図がありました。大阪市産業部の版本となっています。発行年月日は明確に書かれていませんが、地図に描かれている情報(例えば、昭和12年3月オープンの電気科学館が掲載されていること)や、裏面の地図に昭和11年5月29日由良要塞司令部検閲済とあることなどから、昭和12年ごろの発行と推定されます。パノラマ地図のような鳥瞰図ではありませんが、観光名所などには絵が描かれています。
大大阪観光地図(国際日本文化研究センター蔵)
 日文研の地図データベースには、この地図と近い時期に発行された地図として、昭和10年発行の「最新大大阪市街地図(以下、市街地図)」があります。こちらは、和楽路屋の版本です。2つの地図を見比べると面白いことが分かります。
最新大大阪市街地図(昭和10年:日文研蔵)
 市街地図では、行政区別が分かりやすいように色分けがされ、観光地や重要地名は「赤丸」をベースにして白抜きの文字で目立つようにしています。一方、観光地図を見ると、主な観光地や重要建物に挿絵が挿入され、それが目立つように市街地図の「赤丸」は消されて、赤い枠の中に赤い文字で表示されています。行政区別の色分けは無くなり、すべて白地になっています。これも挿絵が目立つようにするためと考えられます。

 具体例として、梅田付近を見てみましょう。まず、市街地図です。

昭和10年大大阪市街地図の梅田付近
 次に、観光地図の梅田付近です。
大大阪観光地図の梅田付近
 2つを見比べてみて、いかがでしょうか?下地の地図や文字は両者共通で、違っているのは、「赤丸」が消されて「赤枠」に代わり、挿絵が入っていることがわかります。
 観光地図の「阪神電車」の左側を見ると、路線の赤線が一部消えています。阪神の「赤丸」を消した痕と思われます。
 市街地図の「阪急」と「地下鐵」の「赤丸」は、観光地図では消され、阪急百貨店の挿絵が描かれています。堂島の毎日新聞社にも挿絵が付いています。

 次に、2つの地図の凡例を見比べてみましょう。

昭和10年大大阪市街地図の凡例
大大阪観光地図の凡例
 いかがでしょうか?凡例も両者共通であることがわかります。枠の外のインデックスも共通で、観光地図も市街地図と同じく「和楽路屋」のベースマップを利用していることがわかります。
 凡例の左上を見ると、市街地図には「和楽路屋」の奥付がありますが、観光地図では削除されています。観光地図は大阪市産業部の制作なので、消されているものと思われます。


 以上のことから、観光地図は、昭和10年発行の和楽路屋の大大阪市街地図をベースにして、観光名所に挿絵を入れて分かりやすくしたもので、映画「大大阪観光」の制作者と同じ「大阪市産業部」が「和楽路屋」に依頼して作成したものであると考えられます。
 大阪市パノラマ地図が発行された大正13年から、大大阪時代に入って大きく変貌していく大阪市の姿を見比べるうえで、約10年後の姿を描いた「大大阪観光地図」は挿絵があって分かりやすい地図ということもあり、大変便利な地図といえるでしょう。今後、活用していきたいと思います。

2017年10月25日水曜日

大神戸市を中心とせる名所鳥瞰図絵

 吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう、1884年3月4日~1955年8月16日)氏は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」と呼ばれました。

 初三郎と同時代には彼の作品を模した鳥瞰図作家が多数いましたが、初三郎作品には模倣作との決定的な違いがありました。それは彼が鳥瞰図製作の際に該当地の風土や歴史を事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行っていたことです。全国各地で現在有名になっている観光名所、景勝地には初三郎が踏査取材中に見いだし作品中で発表した所も少なくありません。

 今回は、昭和5(1930)年に出版された神戸市の地図を取り上げます。
 横長の地図ですので、東から西の順に4枚に分けて紹介します。
 1枚目は、大阪から灘にかけて。
 初三郎氏の鳥瞰図は独特のデフォルメが特徴で、必ずと言っていいほど富士山が描かれています。この地図にも、遠景として名古屋と東京の間に、富士山が描かれています。

 大阪と神戸の間には、北から順に、阪急神戸線、官鉄の東海道線、阪神国道線、阪神本線の4本の鉄道が描かれています。官鉄には蒸気機関車が走っています。大物~千鳥橋の阪神西大阪線(現在のなんば線)もちゃんと描かれています。
 背景には、六甲山と摩耶ケーブルが描かれています。

 2枚目は、灘から元町にかけて。
 阪急は、上筒井止まりで、そこから市内中心部へは神戸市電を使います。
 官鉄は灘から西は高架線で、当時は珍しかったためか、高架線がリアルに描かれています。灘で分岐して、貨物線が神戸港まで通っています。阪神は、春日野を経て、三ノ宮まで乗り入れています。
 背景には、摩耶山と布引の滝、神戸山、錨山が描かれています。
 3枚目は、神戸から兵庫にかけて。
 当時は、この辺りが中心街で、官鉄の高架線も兵庫の西まで続いています。市電が、東西南北、きめ細かく走っていることがよくわかります。
 和田岬、兵庫港には、たくさんの船が描かれています。
 背景には、再度山、烏原貯水池が描かれています。
 4枚目は、西の端で、 摩耶から須磨にかけてが描かれています。官鉄と神戸電鉄のほかに、市電が須磨まで通っています。背景には高取山。
 初三郎流のデフォルメで、明石から姫路、岡山、廣島、下関、左手には、淡路島、四国、九州、その先には、釜山、朝鮮が描かれています。
 手前に海、背景に山という、初三郎が最も得意とする構図で、細部にわたってきめ細かく描かれています。神戸の地理歴史に詳しい方の、コメント、ご意見をよろしくお願いします。地図は、京都府立京都学・歴彩館、京の記憶アーカイブからお借りしました。

2017年10月21日土曜日

網島駅と淀川駅

大阪市都島区に網島という駅があったことをご存知でしょうか?
近松門左衛門の心中天網島で有名なあの「網島(あみじま)」です。

浪花百景「あみ島風景」(大阪市立図書館蔵)

下の地図は、今昔マップを使って、①明治41年(左)と②昭和4年(右)の大阪市都島区の南部、京橋から桜ノ宮付近を示しています。
左右を見比べて、違っているところを探してみてください。


「淀川の色が違う」のは、地図の表記が変わったことによりますが、細かく見ると川幅が狭められて、河川敷になっているのがわかります。
①では農地だったところが、②では、区画道路が整備され市街化が進んでいることもわかります。
淀川沿いには工場の建設が進んでいます。よく見ると、①で水路や里道だったところは、そのままの位置で道路になっているところが多いこともわかります。古地図を見る愉しみの一つです。

鉄道についてはどうでしょうか?
桜ノ宮駅と京橋駅の間に、現在の環状線の南側に桜ノ宮駅から分岐して別の線があり、池の南には「あみじま」駅があります。この線は、寝屋川の手前で片町線と合流して、四条畷に向かいます。

地図の東のほう鴫野あたりを見ると、路線の名前は①では「櫻宮線」、②では「片町線」となっています。明治41年当時は、櫻宮駅から網島駅を経て四条畷に向かう路線の方が、片町駅からの路線よりもメインであったことがわかります。



現在は、無くなってしまった櫻宮線と網島駅、どのような経過でできたのか、そして無くなってしまったのか調べてみました。

現在の片町線(学研都市線)は、浪速鉄道が明治28(1895)年に片町~四条畷間を開業したのが起源ですが、名古屋と大阪を結ぶ目的を持っていた関西鉄道によって、明治30(1897)年に買収されました。関西鉄道は、未開業だった城河鉄道(四条畷~新木津間)の免許を得て明治31(1898)年にこの区間を建設し、加茂から新木津への路線を新設して、名古屋~大阪間をつなぎます。

しかし、片町駅は鯰江川と寝屋川に挟まれていて構内が狭く、大大阪の玄関としては不適当ということで、新たに整備されたのが「網島駅」です。放出~京橋間から線路を分岐し、環状線(当時は大阪鉄道梅田線)の下をくぐって網島駅と結びました。明治31(1898)年11月のことでした。放出~片町間は貨物専用線として残し、片町駅は貨物駅として利用されていました。

網島はその名前が示すとおり、もとは淀川が運んだ中洲であり、低地のため鉄道建設には向かない土地でしたが、関西鉄道は駅の北側に大きな池を掘り、その土砂を盛土に使用しました。この池が地図にも描かれており、関西池と呼ばれていました。
こうして網島駅は大大阪の玄関口としてデビューし、網島~名古屋間の直通列車が走っていました。当時新聞に掲載された全面広告です。


しかし、その後明治33(1900)年6月、関西鉄道は念願の大阪鉄道を買収し、現在の関西本線(大和路線)に当たる奈良~王寺~湊町間の路線を自社のものとし、こちらが名古屋~大阪間の本線となります。これにより、網島駅は主役の座を降りることとなります。さらに、陸軍からの要請を受けて明治31年(1898)11月に網島~桜ノ宮間の路線が整備されていましたが、明治34(1901)年には正式に旅客線として開業しました。これにより、網島駅は中間駅となりました。

網島駅の不幸はさらに続きます。明治40(1907)年、関西鉄道は国有化され、明治42年(1909)に木津駅~桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅~片町駅間を片町線とします。②の地図にあるように、片町線と城東線(国有化後、大阪環状線と改称する昭和36年(1961)までの呼称)との交差点に京橋駅が開設されたため、桜ノ宮線は不要となり、大正2年(1913)に放出駅~桜ノ宮駅間を廃止し、網島駅もこのとき廃止されました。その結果、木津駅~片町駅間が片町線となりました。これが現在の学研都市線です。
以上、長くなりましたが、網島駅誕生から廃止までの略史でした。

鉄道についてはこのほかに、①にはなかった市電が、②では天満橋~野田橋~都島、天神橋から都島橋を渡り、都島から北東へと延びています。
京阪電鉄は、蒲生の駅の東からまっすぐに北東に伸びる新線(高架線)ができています。この蒲生~守口間の高架線の建設に当たっても、盛り土の土砂を確保するため京阪電鉄によって多くの池が沿線に掘られ、昭和の中頃まで「京阪池」として残っていたそうです。土砂を節約して低い土手にしたため、この区間のガードは今でも低く大型車が通行できない支障をきたしています。新線の開業は昭和6(1931)年のことです。

さて、②の地図では、網島を通る線がなくなり、その代わりに、環状線の北側に新しい線ができています。また、野江から北の方へ伸びている路線は城東貨物線で、現在、旅客化の工事が進められていて2018年度末までに「おおさか東線」として、放出(はなてん)~新大阪間がつながる予定です。

その新しくできた環状線の北側の線路の終点には何があるでしょうか?
「淀川駅」とあります。貨物駅です。淀川から水路が引き込まれ入り堀が掘られています。トラックのなかった当時、全国各地から鉄道で運ばれてきた荷物が水運によって市内の各地に運ばれていたのです。梅田貨物駅に入り堀があるのと同じ理由です。

かつては何があったのか①で見てみると、「水源地」の文字があり、浄水場であったことがわかります。明治28年11月、旧淀川左岸の桜の宮の当地に水源池を設け、大阪城内の配水池から自然流下により給水を開始しました。大阪の水道発祥の地です。大正3(1914)年に、新しく淀川の北に柴島(くにじま)浄水場が整備され、移転後の跡地に貨物駅が建設されたことがわかります。

その後どのように変化しているのか見てみましょう。
下の地図は、同じく今昔マップを使って、③昭和42年(左)と④最新の国土地理院地図(右)の大阪市都島区の南部を示しています。
左右を見比べながら、違うところを探してみてください。


③では市電が健在ですが、昭和44年までに廃止となり、地下鉄が整備されています。都島通には谷町線が通り、平成2年(1990)に開催された「花の万博」に合わせて整備された長堀鶴見緑地線が京橋から東へ伸びています。花の万博当時は。京橋~鶴見緑地間の開業でした。
淀川駅は廃止され、貨物線も廃線となり、跡地は道路や遊歩道などになっています。

淀川駅の跡地は、隣接していた市電車庫と一体活用されて、総合医療センターと桜宮リバーシティという住宅団地と都市計画公園になっています。都市型集合住宅プロジェクト開発設計競技(コンペ)に基づいて、超高層の民間マンションと、住宅・都市整備公団(現:UR都市機構)、大阪市住宅供給公社、勤労者住宅協会の住宅が合計約1000戸建設されています。

コンペの最優秀作品
完成した「桜宮リバーシティ」(北東より望む)
完成した「桜宮リバーシティ」(南より望む)

2017年5月30日火曜日

第5回大阪市パノラマ地図検定解説編

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。
第5回の10問をまとめて解説します。


(第5回第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 大きな字で「寺」とあるのは地名の一部です。何でしょうか?
E 市電が走っている道路の名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大阪外国語学校
B 大阪国際交流センター
C 天王寺村(中町と北平野町)
D 天王寺の「寺」
E 上町筋

 大正9年(1920)3月 海運業者林竹三郎の遺志により、妻林蝶子が新設費100万円を寄付、9月に大阪市東区(現天王寺区)上本町8丁目187番地で校舎建設が始まりました。
 大正10年(1921)12月 大阪外国語学校の設置が公布され、正式に成立しました。パノラマ地図にはこの頃の大阪外国語学校が描かれています。
 昭和24年(1949)に新制大阪外国語大学として大阪市天王寺区上本町において設立され、昭和54年(1979)に箕面市へ移転し、平成19年(2007)10月に大阪大学と統合し、大阪大学外国語学部となりました。
 上本町の跡地には昭和62年(1987)9月に大阪国際交流センターが開設されました。


浪華名所獨案内の上本町付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の上本町付近
明治41年、昭和7年、昭和32年、最近の地形図の上本町付近(今昔マップ3より)





(第5回第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 「中学前」の停留所がある鉄道はどこの会社の何という線ですか?
E 「北野」の停留所があるもうひとつの鉄道はどこの会社の何という線ですか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 北野中学校
B 済生会中津病院
C 北野村
D 阪神北大阪線
E 箕面有馬電気軌道

 北野中学校は、明治6年(1873)に大阪東大組(後の東区、現在の中央区)の南御堂内に創立された欧学校に起源を持ち、集成学校に改称、進級学校との合併により、大阪府が最初に設置した旧制中学校「大阪府第一番中学校」の流れを汲みます。
 明治16年(1883)に、北区堂島浜通3丁目(現・大阪市福島区福島1丁目・「ほたるまち」)に移転し大阪府立堂島中学校と改称しました。
 明治29年(1896)には、生徒188名を新設の大阪府第五尋常中学校(現・大阪府立天王寺高等学校)へ分割しました。
 明治35年(1902)に 大阪市北区北野芝田町(現・大阪市北区芝田2丁目、大阪府済生会中津病院付近)に新築移転し、大阪府立北野中学校と改称しました。パノラマ地図にはこの北野中学校が描かれています。
 昭和6年(1931)4月に大阪市東淀川区十三南之町1丁目(現・大阪市淀川区新北野2丁目、現在地)の新校舎に移転しました。
 昭和23年(1948)4月に、学制改革により大阪府立大手前高等学校(旧制大阪府立大手前高等女学校)と教職員・生徒を半分ずつ交換して、大阪府立北野高等学校と改称しました。

 現在の校名は前所在地の北野に由来し、十三の現在地へ移転した際、十三中学校では13番目の府立中学校である豊中中学校(現在の大阪府立豊中高等学校)と紛らわしくなることや、一中のイメージが失われるとして反対運動が起こったため、改称が見送られたという経緯があります。校名が変更されなかっただけではなく、逆に、地名のほうが十三南之町から新北野に変更になっています。
 昭和60年(1985)4月には、大阪府済生会中津病院前庭に北野中学校跡記念碑が建てられました。
 以上、ウィキペディアより抜粋し、一部加筆しました。

済生会中津病院前庭の北野中学校跡記念碑
浪華名所獨案内の北野付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の北野付近
明治41年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の北野付近(今昔マップ3より)


(第5回第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 明治時代後半には何があったでしょうか?
E 隣の空き地には大阪府庁が移転してきますが、どこから移転して来たのでしょうか? 

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大阪府立大手前高等女学校
B 大阪府立大手前高校
C 大手前馬場弓奉行
D 輜重兵第4大隊兵舎
E 西区江之子島から

 明治19年(1886)府立大阪師範学校女学科より分離独立し、北区常安町に大阪府女学校として創立され、明治20年(1887)大阪府高等女学校に改編、明治22年(1889)大阪市(同年発足)に移管され、大阪市立大阪高等女学校と改称。
 明治34年(1901)大阪府に再移管され、大阪府中之島高等女学校と改称。
 同年5月に大阪市北区堂島浜通3丁目の大阪府立堂島中学校跡に移転し、大阪府立堂島高等女学校と改称。
 明治43年(1910)大阪市北区北梅田町に新築移転し、大阪府立梅田高等女学校と改称。
 大正12年(1923)大阪市東区大手前之町の現在地に新築移転し、大阪府立大手前高等女学校と改称。大阪市パノラマ地図には、この直後の様子が描かれています。
 戦時中、昭和20年(1945)年4月、大手前校舎を去り、大阪府立豊中高等女学校内に疎開移転。10月から上級生より逐次大手前校舎に復帰し12月に復帰完了。
 昭和23年(1948)、学制改革により大阪府立大手前高等学校に改編。大阪府立北野高等学校と教職員、生徒を半分ずつ交換しました。




浪華名所獨案内の大手前付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の大手前付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の大手前付近(今昔マップ3より)


(第5回第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 市電「小橋西之町」停留所のある道路の名前は?
E 市電「舟橋町」停留所のある道路の名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大阪府立高津中学校
B 大阪府立高津高等学校
C 小橋村吉右衛門肝煎地
D 千日前通
E 玉造筋

 大正7年(1918)に11番目の府立中学校として創立。中等教育機関の入学難を緩和させるため、大阪府が大正中期に新設した旧制中学校5校のひとつ。校内にある「高津宮址碑」は、大阪市歌の冒頭にある「高津宮」の起源と伝えられ、校名もこれに由来します。
 大正7年(1918)の文部省告示により、大阪府立第十一中学校が大阪市に設置されることが認可されたが、設置当初は正式な場所は決まっておらず、大阪市北区北野茶屋町・心華小学校を仮校舎として設置されました。翌大正8年(1919)大阪府立高津中学校と改称し、大阪市東区東高津北之町(当時)の現在地に校舎が竣工して移転しています。大正11年(1922)には大阪府の学校では初めてとなる、鉄筋コンクリート校舎が竣工しています。
 昭和23年(1948)の学制改革により、全日制普通科・定時制普通科を併設する大阪府立高津高等学校が発足しました。近隣の大阪府立清水谷高等学校(旧制清水谷高等女学校)と生徒・教職員を交流し、男女共学となりました。
 以上、ウィキペディアから抜粋しました。

浪華名所獨案内の高津付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の高津付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の高津付近(今昔マップ3より)


(第5回第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名、道路名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 市電が走っている道路の名前は?
E 清水谷の地名の由来は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。




解答と解説
A 大阪府立清水谷高等女学校
B 大阪府立清水谷高等学校
C 大坂城代の下屋敷御蔵方小揚屋敷
D 長堀通
E 上町台地の谷筋名

 明治33年(1900)、当時の大阪府知事・菊池侃二が『大阪府教育十カ年計画』を策定しました。当時高等女学校の生徒や入学希望者が急増していたことをふまえ、府費で高等女学校を大阪市内に増設することを決定しました。
 当時は府立の高等女学校は存在せず、大阪市内には大阪市立第一高等女学校・大阪市立第二高等女学校の2つの高等女学校が設置されていました。大阪市立第一高等女学校は明治22年(1889)に大阪市へ移管された経緯を持つ現在の大阪府立大手前高等学校です。大阪市立第二高等女学校は明治33年(1900)大阪市南区千年町(現大阪市中央区東心斎橋2丁目)にあった大阪市立千年小学校(大阪市立大宝小学校分校)の元校舎を使用して開校しました。
 新設の府立高等女学校は、大阪市東区清水谷東之町(現在地)に設置することに決まりました、清水谷は豊臣家の下屋敷や茶屋があったところで、江戸時代には大坂城代の下屋敷などがありました。しかし、明治時代になると武家屋敷は破却されて畑地となり、1872年に東成郡中道村へ編入されましたが、1874年に西成郡吉右衛門肝煎地へ編入されました。吉右衛門肝煎地は1882年に清堀村に改称、1889年に東成郡へ転属となり、1897年に大阪市へ編入されました。その後日本女子大学校(現在の日本女子大学)の開設予定地となりましたが、東京・目白に開設されることが決まったため、清水谷に高等女学校を設置することになりました。
 文部省告示により、府立高等女学校の明治34年度(1901)の開校が認可されました。新設の府立高等女学校の校名は当初、大阪府第一高等女学校と告示されました。しかし大阪府ではその直後、旧制中学校・高等女学校について、設置順の番号で名付けられていた従来の校名を廃止し、学校所在地の地名からとった校名へと一斉に改称することを決定しました。このため開校直前に大阪府清水谷高等女学校の校名が告示されました。
 一方で『大阪府教育十カ年計画』では大阪市内の中等教育について、大阪府は普通教育学校を中心に運営し、大阪市は実業教育学校を中心に運営することを原則としました。このため大阪府が高等女学校を一元的に運営することになり、従来の大阪市立の高等女学校2校は大阪府へ移管されることになりました。その際に、もともと大阪府の所管だった大阪市立第一高等女学校は大阪府中之島高等女学校として存続させ、大阪市が創設した大阪市立第二高等女学校は大阪府清水谷高等女学校に合併(生徒編入)させる形を取りました。
 大阪府清水谷高等女学校として開校してから2ヶ月後には、大阪府立清水谷高等女学校へと改称しました。文部省令により、中学校・高等女学校などの名称について「○○県立・○○郡立」などの形で設置者の名称を冠することが義務づけられたことに伴うものです。文部省は各道府県に対し、命名規則に沿っていない既存校については6ヶ月以内に変更することを指示しました。大阪府はこの指示を受け、同年4月に改称したばかりの「大阪府○○中学校/高等女学校」の校名について、「大阪府立○○中学校/高等女学校」へと一斉に再変更することになりました。
 昭和23年(1948)、大阪府立高津高等学校(旧制高津中学校)と生徒・教職員を交流し男女共学化しました。以上、ウィキペディアより抜粋しました。

浪華名所獨案内の清水谷付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の清水谷付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の清水谷付近(今昔マップ3より)


(第5回第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の右端の市電が通っている道路の名前は?
E 日本初の市立専門学校で、後身は現在のA大学とB高等学校です。AとBは?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大阪市立大阪高等商業学校(大正10年より天王寺商業学校)
B 大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校
C 天王寺村
D 玉造筋
E 大阪市立大学と大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校(大阪市立天王寺商業高等学校)

 天王寺商業高校の源流は、明治13年(1880)に五代友厚が大阪・立売堀(現在の大阪市西区)に創立した大阪商業講習所にさかのぼります。明治14年(1881)に大阪府に移管され、府立大阪商業講習所と称しました。明治18年(1885)には府立大阪商業学校へと改編されたのち、明治22年(1889)の大阪市の発足に伴い大阪市に移管され、大阪市立大阪商業学校となった。明治25年(1892)には大阪市北区堂島浜通2丁目に校舎を構えています。
 明治34年(1901)には市立大阪高等商業学校に改編され、附属甲種商業科を設置しました。附属甲種商業科が天王寺商業高等学校の直接的なルーツとなります。(同じ大阪商業講習所にルーツを持つ教育機関として大阪市立大学があります)。
 明治42年(1909)に北の大火で堂島校舎を焼失しました。江戸堀に仮校舎を設置したのち、明治45年(1912)に大阪市南区天王寺烏ヶ辻町(現・天王寺区烏ヶ辻)の現在地に移転しています。
 学校では創立年を、大阪商業講習所の後身である大阪高等商業学校から大阪市立大阪甲種商業学校が独立開校した1912年としていました。
 大阪市立第二商業学校(のちの大阪市立市岡商業高等学校)の開校に伴い、大正8年(1919)に大阪市立第一商業学校へ改称し、大正10年(1921)には大阪市立天王寺商業学校へ改編されました。
 昭和23年(1948)学制改革により、大阪市立天王寺商業高等学校となります。大阪市立御津商業高等学校(旧・大阪市立御津女子商業学校)との合併で男女共学化しました。
 創立百周年にもあたる平成24年(2012)に大阪市立市岡商業高等学校・大阪市立東商業高等学校と統合し、大学との7年一貫教育を視野に入れた高度な商業教育をおこなう大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校を天王寺商業高等学校敷地に開設されました。これに伴い天王寺商業高等学校は新入生募集を停止し、最後の在校生が卒業した平成26年(2014)3月を以って閉校となりました。
 敷地内には、五代友厚氏の銅像がありますが、非公開となっています。以上ウィキペディアより抜粋し、一部加筆しました。

浪華名所獨案内の真法院町付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の真法院町付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の真法院町付近(今昔マップ3より)


(第5回第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名、道路名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 市電「東雲町」停留所のある道路の名前は?
E この学校の発祥の地はどこでしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A ウヰルミナ女学校
B 大阪女学院中・高・短大・大学
C 禰宜町(畑)吉右衛門肝煎地
D 長堀通
E 川口居留地22番地

1884(明治17)年「ウヰルミナ女学校」開校
 大阪女学院のルーツであるウヰルミナ女学校(Wilmina Girls’School、維耳美那女学校)が、米国カンバーランド長老教会外国宣教局(mission)のミッションスクールとして創設されました。
 創設者は外国宣教局の教育事業責任者A.D.ヘール(Alexander D.Hail)宣教師で、弟のJ.B.ヘール宣教師と協力して大阪市西区にあった川口外国人居留地19番Aとその隣接地22番(計約370坪)で開校しました。
 校名は最初の寄付者 William Saunders のWilと、その妻 Ermina の mina を組合わせ、「ウヰルミナ女学校」と名付けました。

1886(明治19)年「大阪一致女学校」開校
 大阪女学院のいまひとつのルーツである大阪一致女学校が、米国北長老教会宣教局のミッションスクールとして、教育宣教師のAnn E.Garvin校長を創設者として、川口外国人居留地16番(258.5坪)の宣教師館で開校しました。
 校名は、宣教局が大阪で創設した教会を一致教会と称したので、「大阪一致女学校」と名付けられました。
 翌1887(明治20)年に西区土佐堀3丁目の旅館を借り、改装してそこに移転し、さらに1888(明治21)年には西成群清堀村(現在の校地で、地名は幾度か変更した)に土地約2,400坪を購入し、校舎を新築して移りました。
 1892(明治25)年、大阪一致女学校の校名を「浪華女学校」と改称しました。

1899(明治32)年文部省「訓令12号」発令
 文部省は、訓令12号を発令し、法令による学校においては特定の宗教に基づいて教育を行うことを禁止しました。
ウヰルミナ女学校、浪華女学校はともに上級学校への入学資格を失う不利のなか、しかし建学の精神を守り、毎日礼拝を続け、キリスト教教育を続けました。
 そのため、1889(明治22)年頃から始まった反外国人キャンペーンとも重なって両校の入学者が激減しましたが、その後、その風潮もゆるみ、1903(明治36)年からは、生徒数は増加していきました。

1904(明治37)年ウヰルミナ女学校と浪華女学校が合併
 ウヰルミナ女学校の関係教会であるカンバーランド長老教会と、浪華女学校の関係教会である日本基督教会が1889(明治22)年10月に合同しました。
そこで同じ教育方針を持つ大阪の二つの学校を合併し、校名は「ウヰルミナ女学校」を継承、校地校舎は浪華女学校に統合しました。
 1939(昭和14)年からの皇民化政策で、異民族の人々に日本風の名前を用いる創氏改名を迫った政府が、外国人の名前に由来する校名の変更を強制することが必至となり、やむなく校名を大阪女学院高等女学部と改称しました。

1947(昭和22)年、学制改革で「大阪女学院中学校」設置。
1948(昭和23)年「大阪女学院高等学校」設置。
1968(昭和43)年「大阪女学院短期大学英語科」開学
2004(平成16)年「大阪女学院大学 国際・英語学部」開学
2009(平成21)年、大阪女学院大学大学院「21世紀国際共生研究科」開設
以上、大阪女学院のホームページから抜粋しました。

浪華名所獨案内の玉造付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の玉造付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の玉造付近(今昔マップ3より)


(第5回第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この学校の後身は何大学でしょうか?
E 丸で囲まれた「天」は何でしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
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解答と解説
A 大阪府女子師範学校
B 大阪府立夕陽丘高等学校と大阪警察病院
C 天王寺村
D 大阪教育大学
E 天王寺の「天」

大阪府女子師範学校は、現在の大阪教育大学の前身にあたります。
沿革は、1885年(明治18年)大阪府師範学校に附属女子師範学科・裁縫専習科が設置されたことに始まります。
1886年(明治19年)大阪府師範学校から女学科(附属女子師範学科)が分離し、大阪府女学校(大阪府立大手前高等学校の前身)として独立しました。
1890年(明治23年)大阪府尋常師範学校に女子師範学科が再設置されました。
1900年(明治33年)に分離独立し,南区天王寺北山・小宮(通称「桃山」と呼ばれていました。現在の大阪府立夕陽丘高等学校がある場所です。)に新校舎が竣工しました。大阪市パノラマ地図にはこのときの校舎の様子が描かれています。

大阪府尋常師範学校女子師範学科(桃山校舎)

大阪府女子師範学校は,1927年(昭和2年)に南区天王寺北山・小宮から住吉区平野流町に近代校舎を新設・移転しました。
1943年(昭和18年)の師範教育令改正により従来の師範学校が官立専門学校となった際,天王寺師範学校とともに大阪第一師範学校となり,この建物は,同校の女子部として用いられました。
以上、大阪教育大学のホームページ及びウィキペディアから引用しました。

浪華名所獨案内の小宮町付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の小宮町付近
明治41年、昭和7年、昭和32年、最近の地形図の小宮町付近(今昔マップ3より)


(第5回第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 市電が通っている道路のうち南北の道路の名前は?
E この学校は、どこに移転したでしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
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解答と解説
A 大阪府立夕陽丘女学校
B 空き地(猫の楽園)
C 天王寺町の雑木林、一部夕陽庵
D 谷町筋
E 天王寺区北山町

大阪府立夕陽丘女学校の歴史は、明治39年(1906)に大阪府立島之内高等女学校として設立が認可されたことに始まります。大阪市南区千年町(現・大阪市中央区東心斎橋2丁目)にあった大阪市立第二高等女学校の元校舎(もとは大阪市立千年小学校(大阪市立大宝小学校分校)の元校舎)を利用して仮校舎を設置しました。

明治41年(1908)には大阪市南区天王寺夕陽丘町(現・大阪市天王寺区夕陽丘町)の校舎に移転しました。移転直後の明治42年(1909)1月に、移転先の地名をとった大阪府立夕陽丘高等女学校へと改称しています。大阪市パノラマ地図には、このころの女学校の様子が描かれています。
昭和9年(1934)大阪府女子師範学校および附属小学校・附属幼稚園の跡地(現在地)に校舎を新築し移転しました。移転後の改称は反対運動が起こったため見送られています。

学制改革により、昭和23年(1948)に大阪府立夕陽丘高等学校が発足し、全日制普通科を設置しました。大阪府立天王寺高等学校(旧制大阪府立天王寺中学校)と男女生徒および教職員を交流して男女共学となりました。生徒交流については、夕陽丘・天王寺両校とも原則として関西本線線路を境に、北部在住者は夕陽丘高校・南部在住者は天王寺高校へ振り分けられることになりました。
直後の1948年5月にはGHQの指示により、天王寺高等学校の校舎が新制中学校校舎に転用されることになりました。これに伴い、校舎を明け渡した天王寺高等学校が夕陽丘高等学校内に移転して2校同居する形となりました。夕陽丘・天王寺の2校同居は昭和26年(1951)まで続きましたが、天王寺高等学校は1951年までに元の校舎へと復帰しています。

浪華名所獨案内の夕陽丘付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の夕陽丘付近
明治41年、昭和7年、昭和32年、最近の地形図の夕陽丘付近(今昔マップ3より)


(第5回第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 丸で囲まれた「造」は何でしょうか?
E 1614年には、ここには何があったでしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
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解答と解説
A 明星商業学校
B 明星中学校・高等学校
C 東高津村(真田山)
D 玉造の「造」
E 真田丸

明星学園の歴史は、1898年(明治31年)、マリア会から派遣されたウォルフ先生により大阪市西区江戸堀に創立されたことに始まります。生徒数13名というささやかな出発でした。
南区千年町を経て、1903年(明治36年)現在地・真田山に移転しました。フランス風のハイカラな校舎の出現が人々を驚かせました。以来”明星商業”として多くの逸材を関西実業界に送り、とくにフランス語や英語に特色のある「語学の明星」として有名でした。大阪市パノラマ地図にはこのときの校舎の様子が描かれています。
第二次大戦後の1947~1948年(昭和22~23年)、学制改正にともない、明星高等学校・明星中学校を併設する大阪明星学園として再出発しました。

マリア会は1817年、シャミナード師によってフランスのボルドーに創設されたカトリック男子修道会で生涯を青少年教育に捧げようとする人々の集まりです。 現在会員は約2000名。世界の六大州にまたがる約135の大学・高校・中学・小学校の経営にあたっています。
日本においては、1887年(明治20年)5名のマリア会会員が東京に現在の暁星学園を創立。他に日本での姉妹校として海星学園(長崎)、光星学園(札幌)があります。
以上、大阪明星学園のホームページより引用しました。
グラウンドの脇には、平成28年1月に真田丸顕彰碑が建てられています。

真田丸は、大坂冬の陣の際に真田信繁(幸村)が徳川軍を破った出城で、大坂城の弱点である南面からの敵軍の進入を抑えるために築かれました。冬の陣の後に徳川軍によって徹底的に壊されましたが、昨年新しい資料も見つかり、存在場所がほぼ特定されました。真田丸関連の資料は新之介さんのブログからお借りしました。


真田丸顕彰碑

浪華名所獨案内の真田山付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の真田山付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の真田山付近(今昔マップ3より)

松江で新たに発見された絵図(左)と
広島市立図書館所蔵の「浅野文庫所蔵 諸国当城之図」(右)
地形図と重ねてみると
(南側の堀はそれらしい地形が見当たりません。完全に埋められたのでしょう。)
明治時代の大阪実測図と重ねてみると
現在の地図と重ねてみると


大阪市パノラマ地図検定全50問は、今回で終了します。
最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_24.html

第4回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2017/02/blog-post_9.html