吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう、1884年3月4日~1955年8月16日)氏は、大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」と呼ばれました。
初三郎と同時代には彼の作品を模した鳥瞰図作家が多数いましたが、初三郎作品には模倣作との決定的な違いがありました。それは彼が鳥瞰図製作の際に該当地の風土や歴史を事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行っていたことです。全国各地で現在有名になっている観光名所、景勝地には初三郎が踏査取材中に見いだし作品中で発表した所も少なくありません。
今回は、昭和5(1930)年に出版された神戸市の地図を取り上げます。
横長の地図ですので、東から西の順に4枚に分けて紹介します。
1枚目は、大阪から灘にかけて。
初三郎氏の鳥瞰図は独特のデフォルメが特徴で、必ずと言っていいほど富士山が描かれています。この地図にも、遠景として名古屋と東京の間に、富士山が描かれています。
大阪と神戸の間には、北から順に、阪急神戸線、官鉄の東海道線、阪神国道線、阪神本線の4本の鉄道が描かれています。官鉄には蒸気機関車が走っています。大物~千鳥橋の阪神西大阪線(現在のなんば線)もちゃんと描かれています。
背景には、六甲山と摩耶ケーブルが描かれています。
2枚目は、灘から元町にかけて。
阪急は、上筒井止まりで、そこから市内中心部へは神戸市電を使います。
官鉄は灘から西は高架線で、当時は珍しかったためか、高架線がリアルに描かれています。灘で分岐して、貨物線が神戸港まで通っています。阪神は、春日野を経て、三ノ宮まで乗り入れています。
背景には、摩耶山と布引の滝、神戸山、錨山が描かれています。
3枚目は、神戸から兵庫にかけて。
当時は、この辺りが中心街で、官鉄の高架線も兵庫の西まで続いています。市電が、東西南北、きめ細かく走っていることがよくわかります。
和田岬、兵庫港には、たくさんの船が描かれています。
背景には、再度山、烏原貯水池が描かれています。
4枚目は、西の端で、 摩耶から須磨にかけてが描かれています。官鉄と神戸電鉄のほかに、市電が須磨まで通っています。背景には高取山。
初三郎流のデフォルメで、明石から姫路、岡山、廣島、下関、左手には、淡路島、四国、九州、その先には、釜山、朝鮮が描かれています。
手前に海、背景に山という、初三郎が最も得意とする構図で、細部にわたってきめ細かく描かれています。神戸の地理歴史に詳しい方の、コメント、ご意見をよろしくお願いします。地図は、京都府立京都学・歴彩館、京の記憶アーカイブからお借りしました。
2017年10月25日水曜日
2017年10月21日土曜日
網島駅と淀川駅
大阪市都島区に網島という駅があったことをご存知でしょうか?
近松門左衛門の心中天網島で有名なあの「網島(あみじま)」です。
下の地図は、今昔マップを使って、①明治41年(左)と②昭和4年(右)の大阪市都島区の南部、京橋から桜ノ宮付近を示しています。
左右を見比べて、違っているところを探してみてください。
「淀川の色が違う」のは、地図の表記が変わったことによりますが、細かく見ると川幅が狭められて、河川敷になっているのがわかります。
①では農地だったところが、②では、区画道路が整備され市街化が進んでいることもわかります。
淀川沿いには工場の建設が進んでいます。よく見ると、①で水路や里道だったところは、そのままの位置で道路になっているところが多いこともわかります。古地図を見る愉しみの一つです。
鉄道についてはどうでしょうか?
桜ノ宮駅と京橋駅の間に、現在の環状線の南側に桜ノ宮駅から分岐して別の線があり、池の南には「あみじま」駅があります。この線は、寝屋川の手前で片町線と合流して、四条畷に向かいます。
地図の東のほう鴫野あたりを見ると、路線の名前は①では「櫻宮線」、②では「片町線」となっています。明治41年当時は、櫻宮駅から網島駅を経て四条畷に向かう路線の方が、片町駅からの路線よりもメインであったことがわかります。
現在は、無くなってしまった櫻宮線と網島駅、どのような経過でできたのか、そして無くなってしまったのか調べてみました。
現在の片町線(学研都市線)は、浪速鉄道が明治28(1895)年に片町~四条畷間を開業したのが起源ですが、名古屋と大阪を結ぶ目的を持っていた関西鉄道によって、明治30(1897)年に買収されました。関西鉄道は、未開業だった城河鉄道(四条畷~新木津間)の免許を得て明治31(1898)年にこの区間を建設し、加茂から新木津への路線を新設して、名古屋~大阪間をつなぎます。
しかし、片町駅は鯰江川と寝屋川に挟まれていて構内が狭く、大大阪の玄関としては不適当ということで、新たに整備されたのが「網島駅」です。放出~京橋間から線路を分岐し、環状線(当時は大阪鉄道梅田線)の下をくぐって網島駅と結びました。明治31(1898)年11月のことでした。放出~片町間は貨物専用線として残し、片町駅は貨物駅として利用されていました。
網島はその名前が示すとおり、もとは淀川が運んだ中洲であり、低地のため鉄道建設には向かない土地でしたが、関西鉄道は駅の北側に大きな池を掘り、その土砂を盛土に使用しました。この池が地図にも描かれており、関西池と呼ばれていました。
こうして網島駅は大大阪の玄関口としてデビューし、網島~名古屋間の直通列車が走っていました。当時新聞に掲載された全面広告です。
しかし、その後明治33(1900)年6月、関西鉄道は念願の大阪鉄道を買収し、現在の関西本線(大和路線)に当たる奈良~王寺~湊町間の路線を自社のものとし、こちらが名古屋~大阪間の本線となります。これにより、網島駅は主役の座を降りることとなります。さらに、陸軍からの要請を受けて明治31年(1898)11月に網島~桜ノ宮間の路線が整備されていましたが、明治34(1901)年には正式に旅客線として開業しました。これにより、網島駅は中間駅となりました。
網島駅の不幸はさらに続きます。明治40(1907)年、関西鉄道は国有化され、明治42年(1909)に木津駅~桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅~片町駅間を片町線とします。②の地図にあるように、片町線と城東線(国有化後、大阪環状線と改称する昭和36年(1961)までの呼称)との交差点に京橋駅が開設されたため、桜ノ宮線は不要となり、大正2年(1913)に放出駅~桜ノ宮駅間を廃止し、網島駅もこのとき廃止されました。その結果、木津駅~片町駅間が片町線となりました。これが現在の学研都市線です。
以上、長くなりましたが、網島駅誕生から廃止までの略史でした。
鉄道についてはこのほかに、①にはなかった市電が、②では天満橋~野田橋~都島、天神橋から都島橋を渡り、都島から北東へと延びています。
京阪電鉄は、蒲生の駅の東からまっすぐに北東に伸びる新線(高架線)ができています。この蒲生~守口間の高架線の建設に当たっても、盛り土の土砂を確保するため京阪電鉄によって多くの池が沿線に掘られ、昭和の中頃まで「京阪池」として残っていたそうです。土砂を節約して低い土手にしたため、この区間のガードは今でも低く大型車が通行できない支障をきたしています。新線の開業は昭和6(1931)年のことです。
さて、②の地図では、網島を通る線がなくなり、その代わりに、環状線の北側に新しい線ができています。また、野江から北の方へ伸びている路線は城東貨物線で、現在、旅客化の工事が進められていて2018年度末までに「おおさか東線」として、放出(はなてん)~新大阪間がつながる予定です。
その新しくできた環状線の北側の線路の終点には何があるでしょうか?
「淀川駅」とあります。貨物駅です。淀川から水路が引き込まれ入り堀が掘られています。トラックのなかった当時、全国各地から鉄道で運ばれてきた荷物が水運によって市内の各地に運ばれていたのです。梅田貨物駅に入り堀があるのと同じ理由です。
かつては何があったのか①で見てみると、「水源地」の文字があり、浄水場であったことがわかります。明治28年11月、旧淀川左岸の桜の宮の当地に水源池を設け、大阪城内の配水池から自然流下により給水を開始しました。大阪の水道発祥の地です。大正3(1914)年に、新しく淀川の北に柴島(くにじま)浄水場が整備され、移転後の跡地に貨物駅が建設されたことがわかります。
その後どのように変化しているのか見てみましょう。
下の地図は、同じく今昔マップを使って、③昭和42年(左)と④最新の国土地理院地図(右)の大阪市都島区の南部を示しています。
左右を見比べながら、違うところを探してみてください。
③では市電が健在ですが、昭和44年までに廃止となり、地下鉄が整備されています。都島通には谷町線が通り、平成2年(1990)に開催された「花の万博」に合わせて整備された長堀鶴見緑地線が京橋から東へ伸びています。花の万博当時は。京橋~鶴見緑地間の開業でした。
淀川駅は廃止され、貨物線も廃線となり、跡地は道路や遊歩道などになっています。
淀川駅の跡地は、隣接していた市電車庫と一体活用されて、総合医療センターと桜宮リバーシティという住宅団地と都市計画公園になっています。都市型集合住宅プロジェクト開発設計競技(コンペ)に基づいて、超高層の民間マンションと、住宅・都市整備公団(現:UR都市機構)、大阪市住宅供給公社、勤労者住宅協会の住宅が合計約1000戸建設されています。
近松門左衛門の心中天網島で有名なあの「網島(あみじま)」です。
浪花百景「あみ島風景」(大阪市立図書館蔵) |
下の地図は、今昔マップを使って、①明治41年(左)と②昭和4年(右)の大阪市都島区の南部、京橋から桜ノ宮付近を示しています。
左右を見比べて、違っているところを探してみてください。
「淀川の色が違う」のは、地図の表記が変わったことによりますが、細かく見ると川幅が狭められて、河川敷になっているのがわかります。
①では農地だったところが、②では、区画道路が整備され市街化が進んでいることもわかります。
淀川沿いには工場の建設が進んでいます。よく見ると、①で水路や里道だったところは、そのままの位置で道路になっているところが多いこともわかります。古地図を見る愉しみの一つです。
鉄道についてはどうでしょうか?
桜ノ宮駅と京橋駅の間に、現在の環状線の南側に桜ノ宮駅から分岐して別の線があり、池の南には「あみじま」駅があります。この線は、寝屋川の手前で片町線と合流して、四条畷に向かいます。
地図の東のほう鴫野あたりを見ると、路線の名前は①では「櫻宮線」、②では「片町線」となっています。明治41年当時は、櫻宮駅から網島駅を経て四条畷に向かう路線の方が、片町駅からの路線よりもメインであったことがわかります。
現在は、無くなってしまった櫻宮線と網島駅、どのような経過でできたのか、そして無くなってしまったのか調べてみました。
現在の片町線(学研都市線)は、浪速鉄道が明治28(1895)年に片町~四条畷間を開業したのが起源ですが、名古屋と大阪を結ぶ目的を持っていた関西鉄道によって、明治30(1897)年に買収されました。関西鉄道は、未開業だった城河鉄道(四条畷~新木津間)の免許を得て明治31(1898)年にこの区間を建設し、加茂から新木津への路線を新設して、名古屋~大阪間をつなぎます。
しかし、片町駅は鯰江川と寝屋川に挟まれていて構内が狭く、大大阪の玄関としては不適当ということで、新たに整備されたのが「網島駅」です。放出~京橋間から線路を分岐し、環状線(当時は大阪鉄道梅田線)の下をくぐって網島駅と結びました。明治31(1898)年11月のことでした。放出~片町間は貨物専用線として残し、片町駅は貨物駅として利用されていました。
網島はその名前が示すとおり、もとは淀川が運んだ中洲であり、低地のため鉄道建設には向かない土地でしたが、関西鉄道は駅の北側に大きな池を掘り、その土砂を盛土に使用しました。この池が地図にも描かれており、関西池と呼ばれていました。
こうして網島駅は大大阪の玄関口としてデビューし、網島~名古屋間の直通列車が走っていました。当時新聞に掲載された全面広告です。
しかし、その後明治33(1900)年6月、関西鉄道は念願の大阪鉄道を買収し、現在の関西本線(大和路線)に当たる奈良~王寺~湊町間の路線を自社のものとし、こちらが名古屋~大阪間の本線となります。これにより、網島駅は主役の座を降りることとなります。さらに、陸軍からの要請を受けて明治31年(1898)11月に網島~桜ノ宮間の路線が整備されていましたが、明治34(1901)年には正式に旅客線として開業しました。これにより、網島駅は中間駅となりました。
網島駅の不幸はさらに続きます。明治40(1907)年、関西鉄道は国有化され、明治42年(1909)に木津駅~桜ノ宮駅間を桜ノ宮線、放出駅~片町駅間を片町線とします。②の地図にあるように、片町線と城東線(国有化後、大阪環状線と改称する昭和36年(1961)までの呼称)との交差点に京橋駅が開設されたため、桜ノ宮線は不要となり、大正2年(1913)に放出駅~桜ノ宮駅間を廃止し、網島駅もこのとき廃止されました。その結果、木津駅~片町駅間が片町線となりました。これが現在の学研都市線です。
以上、長くなりましたが、網島駅誕生から廃止までの略史でした。
鉄道についてはこのほかに、①にはなかった市電が、②では天満橋~野田橋~都島、天神橋から都島橋を渡り、都島から北東へと延びています。
京阪電鉄は、蒲生の駅の東からまっすぐに北東に伸びる新線(高架線)ができています。この蒲生~守口間の高架線の建設に当たっても、盛り土の土砂を確保するため京阪電鉄によって多くの池が沿線に掘られ、昭和の中頃まで「京阪池」として残っていたそうです。土砂を節約して低い土手にしたため、この区間のガードは今でも低く大型車が通行できない支障をきたしています。新線の開業は昭和6(1931)年のことです。
さて、②の地図では、網島を通る線がなくなり、その代わりに、環状線の北側に新しい線ができています。また、野江から北の方へ伸びている路線は城東貨物線で、現在、旅客化の工事が進められていて2018年度末までに「おおさか東線」として、放出(はなてん)~新大阪間がつながる予定です。
その新しくできた環状線の北側の線路の終点には何があるでしょうか?
「淀川駅」とあります。貨物駅です。淀川から水路が引き込まれ入り堀が掘られています。トラックのなかった当時、全国各地から鉄道で運ばれてきた荷物が水運によって市内の各地に運ばれていたのです。梅田貨物駅に入り堀があるのと同じ理由です。
かつては何があったのか①で見てみると、「水源地」の文字があり、浄水場であったことがわかります。明治28年11月、旧淀川左岸の桜の宮の当地に水源池を設け、大阪城内の配水池から自然流下により給水を開始しました。大阪の水道発祥の地です。大正3(1914)年に、新しく淀川の北に柴島(くにじま)浄水場が整備され、移転後の跡地に貨物駅が建設されたことがわかります。
その後どのように変化しているのか見てみましょう。
下の地図は、同じく今昔マップを使って、③昭和42年(左)と④最新の国土地理院地図(右)の大阪市都島区の南部を示しています。
左右を見比べながら、違うところを探してみてください。
③では市電が健在ですが、昭和44年までに廃止となり、地下鉄が整備されています。都島通には谷町線が通り、平成2年(1990)に開催された「花の万博」に合わせて整備された長堀鶴見緑地線が京橋から東へ伸びています。花の万博当時は。京橋~鶴見緑地間の開業でした。
淀川駅は廃止され、貨物線も廃線となり、跡地は道路や遊歩道などになっています。
淀川駅の跡地は、隣接していた市電車庫と一体活用されて、総合医療センターと桜宮リバーシティという住宅団地と都市計画公園になっています。都市型集合住宅プロジェクト開発設計競技(コンペ)に基づいて、超高層の民間マンションと、住宅・都市整備公団(現:UR都市機構)、大阪市住宅供給公社、勤労者住宅協会の住宅が合計約1000戸建設されています。
コンペの最優秀作品 |
完成した「桜宮リバーシティ」(北東より望む) |
完成した「桜宮リバーシティ」(南より望む) |
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