大阪あそ歩 20241115
アートな港町・築港散歩
~大阪メトロ中央線を歩く(大阪港)
日本一低い山・天保山の山頂に登って、築港の歴史に触れてから、個性が光るアートスポットや港風情が漂う赤レンガ倉庫や近代建築を巡ります。まちを歩いていると、時折、遠くの方から聞こえてくる船の汽笛にも、そっと耳を澄ませてください。
【コースの概要】
大阪港駅~天保山ハーバービレッジ~天保山~消防局水上消防署~港住吉神社~海岸通りギャラリーCASO・海岸通りハウス~赤レンガ倉庫・GLIONMUSEUM~築港高野山~築港温泉~piaNPO~商船三井築港ビル~天満屋ビル~大阪港駅(解散)
https://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/124?1731400738736
〇自分で作る色別標高図
(重ねるハザードマップより)
〇明治41年陸地測量部地図
(大阪こちずぶらりより)
〇大阪市パノラマ地図
(国際日本文化研究センターより)
https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=003023231_o
〇大大阪観光地図
(国際日本文化研究センターより)
〇市街化過程および戦災図
(大阪こちずぶらりより)
〇大阪メトロのオオサカマニアの最新号「文学碑」
https://osakamania.jp/mania/bungakuhi/
〇次回のまち歩き
いまはなき西横堀川を心に思い描いて
~大阪メトロ中央線を歩く(本町)~
集合日時:12月7日(土)13:00
集合場所:大阪メトロ四つ橋線肥後橋駅北改札口前
https://www.osaka-asobo.jp/course1348.html
古地図で愉しむ大阪まち物語
2024年11月12日火曜日
2024年11月5日火曜日
大阪高低差まち歩き 20241104 石清水八幡宮~淀(参考資料2)
2024年11月4日(月・振替休日)
9:30 京阪本線石清水八幡宮集合
17:05 京阪本線淀駅解散
【参考資料】
「上り船之部」下巻に入って2回目は、「淀城」をご紹介します。現在も堀の一部と石垣が残っており、城跡は神社や公園になっています。京阪電車淀駅から西にすぐのところです。
【淀城】 御茶屋
淀は江戸から数えて東海道五十五番目の宿場です。大坂からは「陸路行程九里」のおよそ35キロメートル、伏見からは一里十四町のおよそ5キロメートルの距離。本陣や脇本陣などはなく、旅籠が十数件ほど営業をするのみであったといいます。本文の解説には次のようにあります。
≪その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。≫
伏見の町に近いこともあり、大きな宿場として発展することはなかったようですが、風光明媚な城下町として「街道随一の繁華」を極めたとしています。
淀大橋を過ぎると、もうそろそろ船の右手に淀城の石垣が見えてきます。北は宇治川、南は木津川、東は巨椋池に接する淀城は天然の要害で、川の水を引いて城内に二重、三重の堀をめぐらしていました。
淀城といえば、秀吉の側室で淀殿の名で知られる「ちゃちゃ」の居城として有名です。しかし、三十石船から眺められる淀城はその居城ではなく、寛永2年(1625)に古城の南西に再興されたものです。伏見城の廃城を受けて、資材は伏見城の遺材を利用し、さらに、天守は二条城のものを移築したといわれます。
現在は競馬場で有名な淀も、当時は城下町であるとともに、京街道の宿場町でもあり、川岸にも、茶屋が建ち、この辺りは街道随一の繁華街でした。城の南に架かる大橋から北へ町を横断し、北の小橋に至る街道筋は、挿絵に描かれた城の裏手になり見えませんが、様々な商店が軒を連ね、揃わぬものはないと言われるほどの賑わいでした。
ここの景観を支えたのは、なんといっても豊かな水の流れ。天明七(1787)年に出版された「拾遺都名所図会」の本文には、次の藤原定家の「顕注密勘」を引用しています。「淀川両岸一覧」も同じ内容を本文に引用しています。
≪淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり≫
これをみると、「淀」の名の由来が流れの「よどみ」であることがわかります。この付近は、鴨川、桂川、宇治川、木津川という大河が合流するポイント。その流れに乗って人や物資が運ばれてくる。それほど大きくはないこの宿場が栄えたのは、このような理由によるのです。
絵は淀城の川面を、下流から順に、南西の方角から眺めた景色です。
現在、この三川合流の地は、重なる河川改修によって、往時とはまったく異なった景観となっていますので、注意が必要です。
賛は、次のとおりです。
宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
白露の しらけしまひや 淀の水 言水
本文には「茶亭、淀川の汀にありて美景なり。」という記述があります。この「茶亭」は絵のタイトルにある「御茶屋」のことであると知られます。「淀御城府内之図」をみてみると、淀城の南西に「水車茶屋」と記された場所があります。これが「茶亭」で、「其三」の奥に見える建物に相当します。淀から宇治川をさかのぼれば、そこは宇治茶の一大産地。さらに茶道は武家のたしなみのひとつでしたから、城の脇にこうした施設があっても、おかしくはありません。
茶の湯は数寄の道。茶を服しつつ、美しい景色を眺める。味覚と視覚の両方を満足させたことでしょう。
淀の名産に「淀鯉」があります。余所の鯉よりも「美味」であったとか。なかでも、水車の付近で獲れるのを「車下」と呼び、珍重していたといわれます。「其三」の絵をよく見ると、茶亭の南西隅で釣り糸を垂らす男が二人。本日の茶会には、淀鯉が供されるはず。淀鯉を吟じた桜井梅室の発句。
宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
其二の賛は次のとおりです。
〇(サンズイに奠)河(でんが)東に望む帝王の州 二月の春風、背に上る舟 却って訝(いぶか)る、蓬窓になほ月あるかと 夜来の白雪、汀洲に満つ 釈元皓
川風の菖蒲(あやめ)ふきけり淀の町 曲水
との様は 涼しからうぞ 淀の月 梅室
其三の賛は、次のとおりです。
さす棹も及ばずなれば行く水にまかせて下す淀の河ふね 冬降
西山雨晴るる暁 落花〇(サンズイに奠)津(でんしん)に漲(みなぎ)る 城頭の水車子 酌み取る、万斛(まんごく)の春 巌垣彦明
淀城、其二、其三を並べると、パノラマになります。
■水車
淀の名物の1つとして、城の用水を汲み上げる水車がありました。この水車は城の北(宇治川と桂川の合流点)と西(淀川)の2か所にあり、三十石船の川筋にあたります。
淀城を東に見るこの川筋は、城が川面に影を落とし、茶亭が並びます。淀川の景色の中でも最も美しいと言われる場所です。「淀川両岸一覧」の本文の中でも、「領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかいの意味)として足らずといふ事なし。」と絶賛しています。夏などは翻々(へんべん)と水しぶきを立てて回る水車がこの景観にさらに趣を添え、急流に棹差してゆっくりと進み行く船からの眺めは、乗客にとって得も言われぬ楽しみだったことでしょう。
挿絵にのせられている
子規(ほととぎす) まつやら淀の 水くるま
の宗因の句が夏の川辺の趣をよく伝えています。
京坂を船で往き来する旅人たちにとって、淀城の淀川面にあった水車はランドマークとなっていました。上り船の場合、三川が合流し、この水車が見えてくると、伏見まではあとわずか。寝ぼけ眼をこする者、近づいてくる貨食(にうり)舟を利用して腹ごしらえをする者、それぞれに降船の支度を始めます。絵の右にみえる上り船に、左から近づいてくるのが貨食舟です。こうした「くらわんか舟」は、下流の枚方だけの名物ではなかったのです。
その他の賛は、次のとおりです。
淀のくるまの 修理なりたるをみて 辺信
くだけても あられぬものか よど車 またも浮瀬に 立ちめぐるなる
名月や 汲まぬもさむき 水車 言水
そもそも淀城には、「淀古城」と「淀城」とがあります。前者は、室町時代中期、畠山政長によって築城され、その後、明智光秀、豊臣秀吉らによって改修されました。現在の淀城址よりも北東の、納所付近にあったと言います。秀吉の側室であった淀殿が住まったのもこちらです。
後者は、元和九(1623)年、徳川秀忠の命を受けた松平定綱によって築城されました。これが現在の淀城祉なのです。絵は後者の淀城を西北の方角から眺めたものです。
「其五」と題する絵をよくみると、右側中央、本丸付近に霧がかかっているのがわかります。「名所図会」の挿絵には当時の城郭を描くものがほとんどありません。あったとしても、遠景の一部として描き出されるのみで、詳細なものはありません。城郭の詳細は軍事的情報であったため、公刊される「図会」には掲載されなかったからです。
では、この絵の場合も同じ事情によって本丸を霧で隠しているのでしょうか。答えは否。というのは、淀城は宝暦六(1756)年の落雷によって大半が焼失し、その後、再建されることはありませんでした。軍事的情報を隠蔽しようにも、実際にそれが存在しなかったのです。絵の手前、上り船に乗る旅人たちは、かつての面影をとどめる城を眺めつつ、往時を偲んでいるのでしょう。
其五の賛は、次のとおりです。
ほととぎす 二ツの橋を 淀の景 惟然
曨々(おぼろおぼろ) 灯(ともしび)みるや 淀の橋 鬼貫
水影や 淀の城ふく あやめ草 順也
其四水車と其五も並べるとパノラマになります。前の4枚ともつながりますので、一応掲載しておきます。小さくて見にくいですが、クリックすると多少大きくなります。
本文は次のとおりです。一部重複しますが、淀城の前後の全文を掲載します。
■淀
大坂より陸路行程九里にあり。「顕注密勘」に云ふ、「淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり」云々。
■淀城
その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。
■淀河
城郭の際を流る
五畿内第一の大河にして、六国の水ここに帰会す(山城・近江・河内・伊賀・丹波・摂津)。河水は常に溶々としづかに流れ、難波津に往きかふ舟は昼夜ともに間断なく、城郭の汀には水車ありて、波に随ひ翻々(へんべん)とめぐる。領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかい)として足らずといふ事なし。またこの所は鯉の名産にして殊に美味あり。高貴の献上には城辺の魚を用ゆ(俗にこれを車下といふ)。ゆゑに常は遊猟を禁ず。
「拾遺」
いづかたに 鳴きて行くらん 時鳥(ほととぎす) 淀のわたりの まだ夜深きに 忠見
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀城付近を見てみましょう。
図の右端に「みつさと」の文字が見えます。「美豆の里」のことです。そこから「大はし」を渡ると「孫橋川」が見えます。「間小橋」が架かっている川です。
かつての街道は、まず南の入口に木津川が流れ、そこに架かる淀大橋を渡る。少し進んで、孫橋。この橋は「大橋と小橋の間にありて小さきゆゑ」に「間小橋」と呼ばれるようになったと言います。さらに北上し、宇治川に架かる淀小橋へとすすんでいくのです。なお、大橋と小橋はすでに失われていますが、孫橋は現存しています。
対岸には、右手から「こいづみ川」「大あらき森」「淀明神」「水垂」「神崎川」「納所(のうそ)」「小橋」「とみの森」の地名があります。小泉川は現在も大山崎ICの南を流れています。神埼川は現在の地図と照らすと「桂川」にあたるようです。この絵は、淀川の北側の上空から見た風景を描いていますので、当時の淀川(宇治川)は、淀城の北側を流れていたことがわかります。
淀城付近の地域の変遷は、前回ご紹介した内容と重なりますので、省略させていただきます。
9:30 京阪本線石清水八幡宮集合
17:05 京阪本線淀駅解散
【参考資料】
「上り船之部」下巻に入って2回目は、「淀城」をご紹介します。現在も堀の一部と石垣が残っており、城跡は神社や公園になっています。京阪電車淀駅から西にすぐのところです。
【淀城】 御茶屋
淀は江戸から数えて東海道五十五番目の宿場です。大坂からは「陸路行程九里」のおよそ35キロメートル、伏見からは一里十四町のおよそ5キロメートルの距離。本陣や脇本陣などはなく、旅籠が十数件ほど営業をするのみであったといいます。本文の解説には次のようにあります。
≪その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。≫
伏見の町に近いこともあり、大きな宿場として発展することはなかったようですが、風光明媚な城下町として「街道随一の繁華」を極めたとしています。
淀大橋を過ぎると、もうそろそろ船の右手に淀城の石垣が見えてきます。北は宇治川、南は木津川、東は巨椋池に接する淀城は天然の要害で、川の水を引いて城内に二重、三重の堀をめぐらしていました。
淀城といえば、秀吉の側室で淀殿の名で知られる「ちゃちゃ」の居城として有名です。しかし、三十石船から眺められる淀城はその居城ではなく、寛永2年(1625)に古城の南西に再興されたものです。伏見城の廃城を受けて、資材は伏見城の遺材を利用し、さらに、天守は二条城のものを移築したといわれます。
現在は競馬場で有名な淀も、当時は城下町であるとともに、京街道の宿場町でもあり、川岸にも、茶屋が建ち、この辺りは街道随一の繁華街でした。城の南に架かる大橋から北へ町を横断し、北の小橋に至る街道筋は、挿絵に描かれた城の裏手になり見えませんが、様々な商店が軒を連ね、揃わぬものはないと言われるほどの賑わいでした。
ここの景観を支えたのは、なんといっても豊かな水の流れ。天明七(1787)年に出版された「拾遺都名所図会」の本文には、次の藤原定家の「顕注密勘」を引用しています。「淀川両岸一覧」も同じ内容を本文に引用しています。
≪淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり≫
これをみると、「淀」の名の由来が流れの「よどみ」であることがわかります。この付近は、鴨川、桂川、宇治川、木津川という大河が合流するポイント。その流れに乗って人や物資が運ばれてくる。それほど大きくはないこの宿場が栄えたのは、このような理由によるのです。
絵は淀城の川面を、下流から順に、南西の方角から眺めた景色です。
現在、この三川合流の地は、重なる河川改修によって、往時とはまったく異なった景観となっていますので、注意が必要です。
淀川両岸一覧上船之巻「淀城 御茶屋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
賛は、次のとおりです。
宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
白露の しらけしまひや 淀の水 言水
本文には「茶亭、淀川の汀にありて美景なり。」という記述があります。この「茶亭」は絵のタイトルにある「御茶屋」のことであると知られます。「淀御城府内之図」をみてみると、淀城の南西に「水車茶屋」と記された場所があります。これが「茶亭」で、「其三」の奥に見える建物に相当します。淀から宇治川をさかのぼれば、そこは宇治茶の一大産地。さらに茶道は武家のたしなみのひとつでしたから、城の脇にこうした施設があっても、おかしくはありません。
茶の湯は数寄の道。茶を服しつつ、美しい景色を眺める。味覚と視覚の両方を満足させたことでしょう。
淀の名産に「淀鯉」があります。余所の鯉よりも「美味」であったとか。なかでも、水車の付近で獲れるのを「車下」と呼び、珍重していたといわれます。「其三」の絵をよく見ると、茶亭の南西隅で釣り糸を垂らす男が二人。本日の茶会には、淀鯉が供されるはず。淀鯉を吟じた桜井梅室の発句。
宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
淀川両岸一覧上船之巻「其二」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
其二の賛は次のとおりです。
〇(サンズイに奠)河(でんが)東に望む帝王の州 二月の春風、背に上る舟 却って訝(いぶか)る、蓬窓になほ月あるかと 夜来の白雪、汀洲に満つ 釈元皓
川風の菖蒲(あやめ)ふきけり淀の町 曲水
との様は 涼しからうぞ 淀の月 梅室
淀川両岸一覧上船之巻「其三」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
其三の賛は、次のとおりです。
さす棹も及ばずなれば行く水にまかせて下す淀の河ふね 冬降
西山雨晴るる暁 落花〇(サンズイに奠)津(でんしん)に漲(みなぎ)る 城頭の水車子 酌み取る、万斛(まんごく)の春 巌垣彦明
淀城、其二、其三を並べると、パノラマになります。
淀川両岸一覧上船之巻「淀城、其二、其三」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
■水車
淀の名物の1つとして、城の用水を汲み上げる水車がありました。この水車は城の北(宇治川と桂川の合流点)と西(淀川)の2か所にあり、三十石船の川筋にあたります。
淀城を東に見るこの川筋は、城が川面に影を落とし、茶亭が並びます。淀川の景色の中でも最も美しいと言われる場所です。「淀川両岸一覧」の本文の中でも、「領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかいの意味)として足らずといふ事なし。」と絶賛しています。夏などは翻々(へんべん)と水しぶきを立てて回る水車がこの景観にさらに趣を添え、急流に棹差してゆっくりと進み行く船からの眺めは、乗客にとって得も言われぬ楽しみだったことでしょう。
挿絵にのせられている
子規(ほととぎす) まつやら淀の 水くるま
の宗因の句が夏の川辺の趣をよく伝えています。
京坂を船で往き来する旅人たちにとって、淀城の淀川面にあった水車はランドマークとなっていました。上り船の場合、三川が合流し、この水車が見えてくると、伏見まではあとわずか。寝ぼけ眼をこする者、近づいてくる貨食(にうり)舟を利用して腹ごしらえをする者、それぞれに降船の支度を始めます。絵の右にみえる上り船に、左から近づいてくるのが貨食舟です。こうした「くらわんか舟」は、下流の枚方だけの名物ではなかったのです。
その他の賛は、次のとおりです。
淀のくるまの 修理なりたるをみて 辺信
くだけても あられぬものか よど車 またも浮瀬に 立ちめぐるなる
名月や 汲まぬもさむき 水車 言水
淀川両岸一覧上船之巻「其四 水車」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
そもそも淀城には、「淀古城」と「淀城」とがあります。前者は、室町時代中期、畠山政長によって築城され、その後、明智光秀、豊臣秀吉らによって改修されました。現在の淀城址よりも北東の、納所付近にあったと言います。秀吉の側室であった淀殿が住まったのもこちらです。
後者は、元和九(1623)年、徳川秀忠の命を受けた松平定綱によって築城されました。これが現在の淀城祉なのです。絵は後者の淀城を西北の方角から眺めたものです。
「其五」と題する絵をよくみると、右側中央、本丸付近に霧がかかっているのがわかります。「名所図会」の挿絵には当時の城郭を描くものがほとんどありません。あったとしても、遠景の一部として描き出されるのみで、詳細なものはありません。城郭の詳細は軍事的情報であったため、公刊される「図会」には掲載されなかったからです。
では、この絵の場合も同じ事情によって本丸を霧で隠しているのでしょうか。答えは否。というのは、淀城は宝暦六(1756)年の落雷によって大半が焼失し、その後、再建されることはありませんでした。軍事的情報を隠蔽しようにも、実際にそれが存在しなかったのです。絵の手前、上り船に乗る旅人たちは、かつての面影をとどめる城を眺めつつ、往時を偲んでいるのでしょう。
淀川両岸一覧上船之巻「其五」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
其五の賛は、次のとおりです。
ほととぎす 二ツの橋を 淀の景 惟然
曨々(おぼろおぼろ) 灯(ともしび)みるや 淀の橋 鬼貫
水影や 淀の城ふく あやめ草 順也
其四水車と其五も並べるとパノラマになります。前の4枚ともつながりますので、一応掲載しておきます。小さくて見にくいですが、クリックすると多少大きくなります。
淀川両岸一覧上船之巻「其四水車、其五」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋から淀城」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
本文は次のとおりです。一部重複しますが、淀城の前後の全文を掲載します。
■淀
大坂より陸路行程九里にあり。「顕注密勘」に云ふ、「淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり」云々。
■淀城
その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。
■淀河
城郭の際を流る
五畿内第一の大河にして、六国の水ここに帰会す(山城・近江・河内・伊賀・丹波・摂津)。河水は常に溶々としづかに流れ、難波津に往きかふ舟は昼夜ともに間断なく、城郭の汀には水車ありて、波に随ひ翻々(へんべん)とめぐる。領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかい)として足らずといふ事なし。またこの所は鯉の名産にして殊に美味あり。高貴の献上には城辺の魚を用ゆ(俗にこれを車下といふ)。ゆゑに常は遊猟を禁ず。
「拾遺」
いづかたに 鳴きて行くらん 時鳥(ほととぎす) 淀のわたりの まだ夜深きに 忠見
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀城付近を見てみましょう。
図の右端に「みつさと」の文字が見えます。「美豆の里」のことです。そこから「大はし」を渡ると「孫橋川」が見えます。「間小橋」が架かっている川です。
かつての街道は、まず南の入口に木津川が流れ、そこに架かる淀大橋を渡る。少し進んで、孫橋。この橋は「大橋と小橋の間にありて小さきゆゑ」に「間小橋」と呼ばれるようになったと言います。さらに北上し、宇治川に架かる淀小橋へとすすんでいくのです。なお、大橋と小橋はすでに失われていますが、孫橋は現存しています。
対岸には、右手から「こいづみ川」「大あらき森」「淀明神」「水垂」「神崎川」「納所(のうそ)」「小橋」「とみの森」の地名があります。小泉川は現在も大山崎ICの南を流れています。神埼川は現在の地図と照らすと「桂川」にあたるようです。この絵は、淀川の北側の上空から見た風景を描いていますので、当時の淀川(宇治川)は、淀城の北側を流れていたことがわかります。
「よと川の図」の淀城付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
淀城付近の地域の変遷は、前回ご紹介した内容と重なりますので、省略させていただきます。
1枚だけ、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われていますので、この地図には描かれていません。(地図の左手八幡の手前で淀川と合流しています。)
地図の中央やや下に「美津村」という文字があります。よと川の図の「みつさと」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道にあたります。当時の木津川は「美津村」の北西、少し池が残っているあたりで宇治川・桂川と合流していました。
最後に、前回と同じものですが、地理院の空中写真です。写真で見ると桂川と宇治川、京都競馬場が目に付きます。図の中央の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀城」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので、挿絵を見るときには、当時の地形を想像してご覧ください。
今回は「淀小橋」をご紹介します。淀城の北側で宇治川に架かっていた橋です。現在は宇治川が淀城の南側に付け替えられたため、橋の痕跡はありません。京阪電車淀駅の北西すぐ、納所(のうそ)交差点の手前あたりになります。
【淀小橋】
淀城に続く一枚には城郭の北側に架かる淀小橋が描かれています。絵の解説は次のとおりです。
≪橋の北詰に三嶋屋といふよき貨食店(りやうりや)あり。淀上がりの人はかねて蒿子(かこ)に約し置きて、此岸に船をよせて上陸す。是より宇治川の下流急なれば、綱引きの人夫を加ふるを例(ならひ)とす。伏見にいたる客衆も、やがて着船の支度に心いさみ、彼の柱本(はしらもと)の河堀に狸寝入せし親仁(おやぢ)も、目をひらきて綱引の割銭(わりせん)を出だす。彼方(かしこ)には荷物のふろしきをしめ直し、此方(こなた)には弁当の余りを調ぶるなど、皆、船中の通情なり。
橋の灯も おぼろに明けて 水ぐるま 千山≫
小橋の界隈には多くの旅籠や茶店が軒を連ねていました。そのなかのひとつ、北詰にあった「三嶋屋」はすこぶる評判がよく、淀で船を降りる上り船の客に人気があったそうです。
淀川筋でも淀小橋の辺りは特に流れが急で、その上橋脚の下は水流が巻いていて危険でした。棹の操作を誤れば、船を橋脚にぶつけ大事故になります。このため、橋脚には鉄燈籠が釣り下げられ、終夜灯火し、通船の便りとしました。
淀小橋を過ぎると宇治川の流れは速さを増します。淀からの曳き船の場合も、通常は四人である水主(かこ)を増員し、船を川岸から綱で曳きつつ伏見をめざすのが慣例でした。人夫を増員すると当然割り増し料金を取られます。他の場所なら話は別ですが、船頭も船客も緊張する淀の辺りでは狸寝入りをすることもできず、むしろここまで来ると、船客も着船の支度に心が勇み、金払いも良かったと言います。
橋を越え最後の曳き船が始まると、船内は急にざわめきたちます。荷物の風呂敷包みの口を締め直す人があるかと思うと、弁当の余りを確かめる人もいるといった様子です。長かった上りの船旅もそろそろ終着となります。
また、淀小橋の上流、納所(のうそ)には過書船の番所があったと言います。通常、風雨をしのぐため、船には苫が葺いてありました。ただし、番所を通過する際にはこの苫を開けさせ、船中を改めたのです。そもそも納所という地名は、船で運ばれてきた物資を「納」め置く場「所」だったことにちなみます。往古より川の道の要衝として機能していたことが知られます。そのため、江戸時代には大坂から淀川を上ってきた朝鮮通信使が使用したという船着き場がありました。現在は、旧京阪国道の納所交差点から千本通を少し上がった場所に、「唐人雁木(がんぎ)旧跡」と刻まれた石碑だけが残っています。
前回ご紹介した其五と淀小橋は、並べるとパノラマになります。また、淀大橋から淀小橋までの7枚はすべてつながり超ワイドなパノラマになります。
本文は次のとおりです。淀小橋から巨椋大池の全文を掲載しておきます。
■淀小橋
城郭の上にあり。長さ七十六間、橋下の大間に鉄燈炉(かなどうろ)を釣り終夜(よもすがら)灯を燈じ通船の便(たより)とす。美豆よりこの所まで水上およそ十二丁十間といふ。
■伊勢向宮(いせむかひのみや)
小橋の東にあり。天照太神をまつる。この所浮島なり。洪水の時といへどもあぶるることなし。この傍を大池口といふ。
■巨椋大池(おぐらのおほいけ)
川すぢの傍にあり。前に葭島ありて船中よりは見えず。おぐらの入江とも伏見の大池ともいふ。長さ二十九町、幅十五町といふ。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀小橋から上流にかけてを見てみましょう。
図の右端の淀城の傍を通り過ぎた京街道は、小橋を渡り宇治川の右岸を川に沿って進みます。街道に沿って船頭たちが綱で引き上げる三十石船が描かれています。宇治川の流れが急な箇所で、上り船の最後の曳舟となります。
小橋の左手に「浮嶋明神」が描かれ、「大池」「一口村」「いちたむら」「佐古むら」の文字が見えます。それぞれ、巨椋池、一口(いもあらい)、市田村、佐古村で、明治42年の地形図で確認することができます。なお、この絵は、宇治川の北側の上空から見た風景を描いています。絵の左手が上流側で、宇治川を遡ると伏見に至ります。
淀付近の地域の変遷は、前々回ご紹介した内容と重なりますので、簡単にご紹介します。
明治42年の地形図では、宇治川は淀の町の南側に付け替えられた後ですが、旧宇治川の川筋が残っており「小橋」の文字も見えます。京街道の道筋も読み取ることができます。
最新の国土地理院地図では、旧宇治川が埋め立てられて市街地化しており、川筋をたどることは難しくなっています。ここでは、地理院作成の「明治期の低湿地」を重ねましたので、水色の部分が旧宇治川の川筋です。納所(のうそ)交差点は、旧街道の交差する所に斜めに旧国道1号線が通ったため、変則的な交差点になっています。
地理院の空中写真です。図の中央やや下の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
最後にもう1枚、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われ、地図の左下の八幡付近で淀川と合流しています。付け替え前には地図に「木津川旧河道」と示したところを流れていました。淀から伏見までの京街道の道筋も確認することができます。
付け替え工事前には淀城の北側で桂川と宇治川が合流し淀川となり、城の西側で木津川と合流していました。淀城は、まさに水に浮かぶ要塞のようであったと想像できます。
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀小橋」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので注意が必要です。
地図の中央やや下に「美津村」という文字があります。よと川の図の「みつさと」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道にあたります。当時の木津川は「美津村」の北西、少し池が残っているあたりで宇治川・桂川と合流していました。
明治22年陸地測量部地図(仮製地図) 国際日本文化研究センター蔵 |
最後に、前回と同じものですが、地理院の空中写真です。写真で見ると桂川と宇治川、京都競馬場が目に付きます。図の中央の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
国土地理院空中写真 |
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀城」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので、挿絵を見るときには、当時の地形を想像してご覧ください。
今回は「淀小橋」をご紹介します。淀城の北側で宇治川に架かっていた橋です。現在は宇治川が淀城の南側に付け替えられたため、橋の痕跡はありません。京阪電車淀駅の北西すぐ、納所(のうそ)交差点の手前あたりになります。
【淀小橋】
淀城に続く一枚には城郭の北側に架かる淀小橋が描かれています。絵の解説は次のとおりです。
≪橋の北詰に三嶋屋といふよき貨食店(りやうりや)あり。淀上がりの人はかねて蒿子(かこ)に約し置きて、此岸に船をよせて上陸す。是より宇治川の下流急なれば、綱引きの人夫を加ふるを例(ならひ)とす。伏見にいたる客衆も、やがて着船の支度に心いさみ、彼の柱本(はしらもと)の河堀に狸寝入せし親仁(おやぢ)も、目をひらきて綱引の割銭(わりせん)を出だす。彼方(かしこ)には荷物のふろしきをしめ直し、此方(こなた)には弁当の余りを調ぶるなど、皆、船中の通情なり。
橋の灯も おぼろに明けて 水ぐるま 千山≫
小橋の界隈には多くの旅籠や茶店が軒を連ねていました。そのなかのひとつ、北詰にあった「三嶋屋」はすこぶる評判がよく、淀で船を降りる上り船の客に人気があったそうです。
淀川両岸一覧上船之巻「淀小橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川筋でも淀小橋の辺りは特に流れが急で、その上橋脚の下は水流が巻いていて危険でした。棹の操作を誤れば、船を橋脚にぶつけ大事故になります。このため、橋脚には鉄燈籠が釣り下げられ、終夜灯火し、通船の便りとしました。
淀小橋を過ぎると宇治川の流れは速さを増します。淀からの曳き船の場合も、通常は四人である水主(かこ)を増員し、船を川岸から綱で曳きつつ伏見をめざすのが慣例でした。人夫を増員すると当然割り増し料金を取られます。他の場所なら話は別ですが、船頭も船客も緊張する淀の辺りでは狸寝入りをすることもできず、むしろここまで来ると、船客も着船の支度に心が勇み、金払いも良かったと言います。
橋を越え最後の曳き船が始まると、船内は急にざわめきたちます。荷物の風呂敷包みの口を締め直す人があるかと思うと、弁当の余りを確かめる人もいるといった様子です。長かった上りの船旅もそろそろ終着となります。
また、淀小橋の上流、納所(のうそ)には過書船の番所があったと言います。通常、風雨をしのぐため、船には苫が葺いてありました。ただし、番所を通過する際にはこの苫を開けさせ、船中を改めたのです。そもそも納所という地名は、船で運ばれてきた物資を「納」め置く場「所」だったことにちなみます。往古より川の道の要衝として機能していたことが知られます。そのため、江戸時代には大坂から淀川を上ってきた朝鮮通信使が使用したという船着き場がありました。現在は、旧京阪国道の納所交差点から千本通を少し上がった場所に、「唐人雁木(がんぎ)旧跡」と刻まれた石碑だけが残っています。
前回ご紹介した其五と淀小橋は、並べるとパノラマになります。また、淀大橋から淀小橋までの7枚はすべてつながり超ワイドなパノラマになります。
淀川両岸一覧上船之巻「淀城其五、淀小橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋から淀小橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
本文は次のとおりです。淀小橋から巨椋大池の全文を掲載しておきます。
■淀小橋
城郭の上にあり。長さ七十六間、橋下の大間に鉄燈炉(かなどうろ)を釣り終夜(よもすがら)灯を燈じ通船の便(たより)とす。美豆よりこの所まで水上およそ十二丁十間といふ。
■伊勢向宮(いせむかひのみや)
小橋の東にあり。天照太神をまつる。この所浮島なり。洪水の時といへどもあぶるることなし。この傍を大池口といふ。
■巨椋大池(おぐらのおほいけ)
川すぢの傍にあり。前に葭島ありて船中よりは見えず。おぐらの入江とも伏見の大池ともいふ。長さ二十九町、幅十五町といふ。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀小橋から上流にかけてを見てみましょう。
図の右端の淀城の傍を通り過ぎた京街道は、小橋を渡り宇治川の右岸を川に沿って進みます。街道に沿って船頭たちが綱で引き上げる三十石船が描かれています。宇治川の流れが急な箇所で、上り船の最後の曳舟となります。
小橋の左手に「浮嶋明神」が描かれ、「大池」「一口村」「いちたむら」「佐古むら」の文字が見えます。それぞれ、巨椋池、一口(いもあらい)、市田村、佐古村で、明治42年の地形図で確認することができます。なお、この絵は、宇治川の北側の上空から見た風景を描いています。絵の左手が上流側で、宇治川を遡ると伏見に至ります。
「よと川の図」の淀小橋付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
淀付近の地域の変遷は、前々回ご紹介した内容と重なりますので、簡単にご紹介します。
明治42年の地形図では、宇治川は淀の町の南側に付け替えられた後ですが、旧宇治川の川筋が残っており「小橋」の文字も見えます。京街道の道筋も読み取ることができます。
最新の国土地理院地図では、旧宇治川が埋め立てられて市街地化しており、川筋をたどることは難しくなっています。ここでは、地理院作成の「明治期の低湿地」を重ねましたので、水色の部分が旧宇治川の川筋です。納所(のうそ)交差点は、旧街道の交差する所に斜めに旧国道1号線が通ったため、変則的な交差点になっています。
明治42年陸地測量部地図+明治期の低湿地 |
最新の国土地理院地図+明治期の低湿地 |
地理院の空中写真です。図の中央やや下の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
国土地理院空中写真 |
最後にもう1枚、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われ、地図の左下の八幡付近で淀川と合流しています。付け替え前には地図に「木津川旧河道」と示したところを流れていました。淀から伏見までの京街道の道筋も確認することができます。
付け替え工事前には淀城の北側で桂川と宇治川が合流し淀川となり、城の西側で木津川と合流していました。淀城は、まさに水に浮かぶ要塞のようであったと想像できます。
明治22年陸地測量部地図(仮製地図) 国際日本文化研究センター蔵 |
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀小橋」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので注意が必要です。
大阪高低差まち歩き 20241104 石清水八幡宮~淀(参考資料1)
2024年11月4日(月・振替休日)
9:30 京阪本線石清水八幡宮集合
17:05 京阪本線淀駅解散
〇【参考資料】淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂
琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。
「淀川両岸一覧」は、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は、河内と山城の国境を越えて山城国(京都府)に入り、宿場町「橋本」をご紹介します。
【橋本】
楠葉より引き始めた三十石船は、橋本を右に見て曳き船をしながら通過します。この曳き船が8度目になります。曳き船の様子は挿絵の右側に描かれているように、船の中央に立てた柱から綱を伸ばし、その端を川岸の綱引き道から引きます。
この地は京街道(京都から見ると大坂街道)の宿駅とされますが、東海道を五十七次とする場合には、枚方の次は淀で、橋本は含まれていません。いずれにしても、街道筋1km余りに渡って旅籠、茶屋等の人家が建ち並ぶ宿場町でした。橋本を通ったオランダ人ケンペルは、戸数300戸と記し、枚方と同様に客引きの女性が軒先に目立つ宿場独特の風景を記録に留めています。
挿絵のバックに広がる峰は男山で、石清水八幡宮が鎮座します。橋本はこの参道の登り口にあり、参拝客の遊興の地であったともいえます。
橋本の絵は、男山に月光のさす夜の風景を描いています。賛の二作も、男山と月の取り合わせになっています。
をとこ山 峰さし登る 月影に あらはれ渡る よどの川ふね 景樹
香川景樹の和歌は、雲の切れ間から月が上がる様子を描く絵と同じく満月の状景と推察されます。
新月や いつをむかしの 男山 其角
一方の其角の発句は、新月の闇につつまれた様子を吟じたものです。
絵の右端、中央あたりに描かれた酒楼に人影がみえます。おそらくは、月光に照らされた水無瀬から大山崎あたりにかけての風情を楽しみつつ、盃をかたむけるという趣向。そこを水主たちの引く三十石船が過ぎるさまは、景樹が詠んだ風景とイメージが重なります。
橋本の名前の由来は、神亀2年(725)に行基が架けたと伝えられる山崎橋の東詰めに位置したことからくると言われています。この橋はその後、損失と架設を繰り返しましたが、近世元禄の頃に架けられた橋が朽ち果てて洪水で流されると、その後復興はされず、地名だけが残りました。
山崎橋がなくなった後、その代役を務めたのが「橋本の渡し」で、対岸の摂州山崎へと渡したので、「山崎の渡し」とも呼ばれました。宿場筋を描いた挿絵の中ほど左手に渡し場が描かれ、4人の船客を乗せた渡し舟は渡し場を離れ、すでに川面に漕ぎ出しています。
橋本について、本文の解説には次のように記されています。
≪大坂街道の駅にして、人家の地十一丁あり、茶店、旅舎(はたご)多く、いたつて繁花なり。八幡へ参詣の人、この所より上りてよし。≫
石清水八幡宮をめざす篤信者で賑わっていたことがわかります。江戸時代の橋本には、名物の小豆餅を売る店があったといいます。現在では、大津の走井から伝わった走井餅がこの界隈の名物として知られています。
「其二」の絵は、男山の北西麓、橋本の東端あたりの風景を描いています。川面には、帆を張り流れをさかのぼる船が見えます、船の右手には、男山の山裾。山上の石清水八幡宮へは、この橋本からも登ることができました。本文には次のようにあります。
≪雄徳山参詣道
駅中の右の方に石壇、鳥居あり。山路十余町、中程に狩尾(とがのお)の社よて地主の神あり。八幡宮鎮座以前より在といひ伝ふ。≫
ここにある参詣道は、北西側から山上をめざします。途中にある狩尾社は、貞観2年(860)に石清水八幡宮が創建されるよりも前から、この地にあったとか。現存する石清水八幡宮の社殿や楼門は、近世になって造られたもので、国宝に指定されています。賛は次の狂歌、発句と漢詩です。
八はた山 梺に通ふ 淀ぶねの さしも仰がぬ 人やなからむ 古僲
尻むけて 八幡をたつるや 帰る雁 尚白
神滸溶々として匹練清む
西山影を写し新晴に媚ぶ
秭帰未だ叫ばざるに 春将に老いんとす
但警詞を誦して古情を為すのみ 島棕隠
2枚の絵を並べると、パノラマになっています。
本文の解説は、次のとおりです。橋本の前後の全文を掲載しておきます。
■金川(こがねがは)
楠葉村の北の端にあり。舟橋川よりこの所まで水上およそ三十二丁余。この川、河内・山城両国の境なり。
■金橋(こがねばし)
右金川にわたすゆゑにかくは号(なづ)く。北詰より山州綴喜郡なり。
■広瀬渡口
金橋の上にあり。摂州島上郡広瀬にわたす舟わたしゆゑかく号く。渡しの長さおよそ九十間といふ。俗に下の渡といふ。すなはちこの上にまた渡口あるゆゑなり。
■橋本駅
金橋の上にあり。大坂街道の駅にして、人家の地十一丁あり、茶店、旅舎(はたご)多く、いたつて繁花なり。八幡へ参詣の人、この所より上りてよし。
この地は往古山崎より架す大橋あって、その橋の詰めなるゆゑに橋本と号くよぞ。今中之町といへる所橋の渡口なり。山崎橋、「延喜式」および「文徳実録」に出でたり。今は船わたしとなる。
■橋本渡口
右駅よりのわたし場なり。すなはち淀川を山崎にわたす。また一説に、山崎の橋のあとは狐わたしの所なりともいへり。いづれが是なりや、詳らかならず。
■雄徳山参詣道
駅中の右の方に石壇、鳥居あり。山路十余町、中程に狩尾(とがのお)の社よて地主の神あり。八幡宮鎮座以前より在といひ伝ふ。
■樋之上
橋本の町はずれをいふ。名物の小豆餅をひさぐ家あり。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の橋本付近を見てみましょう。
図の右端の下島、上嶌、樟葉の左手に川が流れ、橋が架かっています。この橋が「こか祢はし(こがねばし)」で、「河内山城堺(国境)」になります。国境を越えたところに「橋本」、その先には「一里塚」が見えます。
対岸には、「うとの」「中村」「上牧」「高浜村」「廣瀬」「みなせ川」の地名が記され、岸に沿って船頭らによって綱で引き上げられている三十石船(上り船)が描かれています。「高浜村」は、樟葉と高浜を結ぶ渡しがあったところです。
橋本付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
1枚目は明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。男山が淀川に迫る山裾に橋本の宿場町があり、町の中ほどで道路がクランク状に曲がっています。その西側から対岸へ渡す渡し舟が描かれています。町の中央で折れ曲がっている様子は「よと川の図」とも合致しています。街道の名前が府境を挟んで大阪側では「京街道」、京都側では「大阪街道」と表示されています。
2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の堤防の位置がわかりやすくなりましたが、この辺りでは明治初年以降、水害を防ぐために木津川、宇治川、桂川の三川の合流地点をできるだけ下流にするよう、河川改修が行われました。図中に「新宇治川」の文字も見えます。地図の右下に男山、左上に天王山がせまり、左岸を京街道と京阪電車、右岸を西国街道と官営鉄道(現在のJR)が通っています。
3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。現在よりも上流で三川が合流して、左岸に近いところを流れていました。男山の南西側斜面が削られて、ニュータウンになっています。
4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。黄緑色の部分は山が削られてニュータウンとなった地域です。木津川・宇治川・桂川の間の堤が長く伸びています。背割堤として有名な桜の名所となっています。地図の左下に府境を流れる「こがね川」が描かれています。
最後は、地理院の空中写真です。写真で見ると山が削られてニュータウンとなっている様子がよくわかります。橋本との間にわずかに小山が残されています。三川の流れと背割堤もよくわかります。この写真は、木津川の水量が少ないときのようです。
今回は、「淀川両岸一覧」の「橋本」をご紹介しました。
今回は「狐渡口」をご紹介します。
【狐渡口】
橋本から北へ上がり、木津川、宇治川、桂川の3つの川が合流する地点の手前に狐渡しがあります。
本文の解説は次のように記しています。
《八幡宮御参向道の鳥居の傍らにより、此のわたし場に出づる。山州乙訓郡円明寺村に渡る淀川の舟渡しなり。
一説に、山崎の橋は桓武帝即位三年に是を造る。中頃より淀の橋をかけてより、此の橋絶えてなし。今は船渡しとなりて、狐渡と云ふ。俗に狐川といふは誤なり。往古の人家を南に移して、今橋本の宿といふ、是なりと云ふ。》
「狐渡口」の絵は、手前、淀川右岸の円明寺から、奥、左岸の八幡を眺めた景色を描いています。左手が淀川の上流になります。川面には帆を張る荷船、三十石船、渡し舟がみえます。淀を横断するここの渡しは、「狐の渡し」と呼ばれていました。
解説には鳥居の傍らとありますが、挿絵には鳥居は見当たりません。手前に右岸の渡し場が大きく描かれ、渡し守が煙管をくゆらす横に、八幡宮参詣客でしょうか、船待ちをする旅客が1人立っています。向こう岸に木陰になった船着き場らしき場所が見え、これが左岸の渡口でしょう。
橋本の地名の由緒である山崎橋は、一説に狐渡しの位置にあり、旧橋本の人家を南に移したのが橋本宿であるとも伝えられますが、定かではありません。また、狐渡しの辺りは淀川の本流でありながら狐川の誤称があり、謎の多い場所です。3つの川が合流するこの辺りの地形は複雑で、まさに狐に化かされたような川筋なのかもしれません。
絵の賛は、尾張の儒者熊谷荔齋(れいさい)の漢詩と、桜井梅室の発句です。
遙天中絶へて一川浮ぶ
白水青雲日夜流る
風急にして扁帆去鳥を追ふ
何人か千里滄洲に向ふ
踊笠 着てよきつねの わたし守
菅笠を被った旅人を、踊り笠を着た船頭が船渡しをする。ゆめゆめ化かされぬよう、ご注意を。梅室の句が、いかにも滑稽です。
そもそもこの渡しの付近には、平安時代の三大橋のひとつ、山崎橋が架かっていたといわれていました。その後、この橋は絶え、淀大橋が宇治橋、瀬田の唐橋とともに三大橋となりました。狐の渡しは、その名前の珍しさから、谷崎潤一郎の「蘆刈(あしかり)」の舞台としても登場します。絵の左下のあたりが、「わたし」と「男」とが出会った岸辺なのかもしれません。
≪むかしの『澱川(よどがわ)両岸一覧』という絵本に、これより少し上流に狐の渡しという渡船場があったことを記して渡(わたり)の長サ百十間(けん)と書いているからここはそれよりもっと川幅がひろいかも知れない。そして今いう洲は川のまん中にあるのではなくずっとこちら岸に近いところにある。河原の砂利に腰をおろして待っているとはるかな向うぎしに灯のちらちらしている橋本の町から船がその洲へ漕(こ)ぎ寄せる、と、客は船を乗り捨てて、洲を横ぎって、こちら側の船の着いている汀(みぎわ)まで歩いて来る。思えば久しく渡しぶねというものに乗ったことはなかったが子供の時分におぼえのある山谷(さんや)、竹屋、二子(ふたこ)、矢口(やぐち)などの渡しにくらべてもここのは洲を挟(はさ)んでいるだけに一層優長なおもむきがあっていまどき京と大阪のあいだにこんな古風な交通機関の残っていたことが意外でもあり、とんだ拾いものをしたような気がするのであった。
前に挙げた淀川両岸の絵本に出ている橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にかかっていて「をとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟」という景樹(かげき)の歌と、「新月やいつをむかしの男山」という其角(きかく)の句とが添えてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして鬱蒼(うっそう)とした木々の繁(しげ)みがびろうどのようなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残っている中空(なかぞら)に暗く濃く黒ずみわたっていた。わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いているのを、いや、いずれあとで乗せてもらうがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとそういい捨てると露にしめった雑草の中を蹈(ふ)みしだきながらひとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って蘆(あし)の生(は)えている汀(みぎわ)のあたりにうずくまった。まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたわる両岸のながめをほしいままにすることが出来るのである。わたしは月を左にし川下の方を向いているのであったが川はいつのまにか潤(うるおい)のあるあおい光りに包まれて、さっき、ゆうがたのあかりの下で見たよりもひろびろとしている。
洞庭湖(どうていこ)の杜詩(とし)や琵琶行(びわこう)の文句や赤壁(せきへき)の賦(ふ)の一節など、長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々(ろうろう)たるひびきを以(もっ)て唇(くちびる)にのぼって来る。そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が詠よんでいるようにむかしはこういう晩にも三十石船(こくぶね)をはじめとして沢山の船がここを上下していたのであろうが今はあの渡船(とせん)がたまに五、六人の客を運んでいる外にはまったく船らしいものの影もみえない。わたしは提げてきた正宗の罎(びん)を口につけて喇叭(らっぱ)飲みしながら潯陽江頭(じんようこうとう)夜送レ客(よるきゃくをおくる)、楓葉荻花秋瑟々(ふうようてきかあきしつしつ)と酔いの発するままにこえを挙げて吟じた。そして吟じながらふとかんがえたことというのはこの蘆荻(ろてき)の生(お)いしげるあたりにもかつては白楽天(はくらくてん)の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。≫
(以上、谷崎潤一郎「蘆刈」より、
初出:「改造」改造社 1932(昭和7)年11月号、12月号)
「蘆刈」に描かれている中洲は下の地図のあたりだったのかもしれません。中洲を挟んで両側に渡し船があり、対岸(左岸)には橋本があります。「わたし」は、中洲の西の剣先(先端)から下流に向かってうずくまり、両岸を眺めていたのでしょうか。
前回の「橋本」のときにご紹介した方が良かったかもしれませんが、「狐の渡し」という文字がずばり書かれていましたので、今回ご紹介することにしました。
上り船の上巻は、ここまでです。次回からは、下巻となります。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の八幡付近を見てみましょう。
図の右端の「一里塚」から、途中少し省略されていますが、「やはた」「八幡御幸道」の文字が見えます。後ろには、男山と八幡宮も描かれています
対岸には、右手から「上牧」「高浜村」「廣瀬」「みなせ川」「離宮八幡」「山さき」「たから寺」「天王山」の地名が記されています。岸に沿って船頭らによって綱で引き上げられている三十石船(上り船)が描かれています。
八幡付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
この地域は3つの川が合流する洪水の多発地帯で、川の付け替えなどによって地形が大きく変わっています。少し丁寧に見ていきましょう。
1枚目は「京街道~東海道五十七次から五十四次を歩く」という本から、八幡付近の地図です。太い線が京街道です。「楠の木」から右上に点線で描かれていますが、京街道が淀川を斜めに横断しています。まさか川の中を歩いたわけでは無いと思われます。
2枚目は、明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)です。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。木津川は明治初年に既に付け替えられていますが、宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。
地図の右下から左上に向かって街道が通っています。その左手にも堤防跡のような道があります。この間が付け替え前の木津川の水路と思われます。「美津村」という文字のあるところです。「美津村」の北西で宇治川・桂川と合流していたとすると、先ほどの地図の点線は陸地(たぶん堤防上)になりますから、淀に向かって直進できたことがわかります。
3枚目の地図は、国土地理院地図の治水地形分類図というものです。4枚目はその拡大版です。
現在の地図に河川の堤防の状況や旧河道などを示したものです。この地図で、木津川のかつての河道が確認できます。水色に塗られた部分で、先ほどの推定どおりとなっています。
宇治川も、淀の町の南側に付け替えられています。直線状に流れていて、いかにも人工の川筋となっています。
川の中に流れに直角に線が引かれ、数字が書かれています。数字は河口からの距離を示しています。宇治川(中央の川)の37.0Kのところで桂川が分岐して、桂川にはここを起点にした数字が書かれています。また、宇治川の35.8K付近で木津川が分岐しています。
実際の川の流れは、宇治川と木津川が先に合流し、さらに下流で桂川と合流していますが、河川管理上は宇治川と桂川が先に合流しており順番が違っています。宇治川と木津川の間には、少し幅のある背割堤があるからでしょうか。
次の地図は、明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。宇治川には水色が塗られていません。合流地点付近を見ると「新宇治川」の名前が見えます。明治18年の淀川大洪水の後、明治39年に宇治川が巨椋池と分離され、現在の水路となっています。完成後間もないので「新」が付けられているのでしょう。街道の名前は京都府に入ってからは「大阪街道」と表示されています。
2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の堤防の位置がわかりやすくなりましたが、この辺りでは明治初年以降、水害を防ぐために木津川、宇治川、桂川の三川の合流地点をできるだけ下流にするよう、河川改修が行われました。図中に「新宇治川」の文字も見えます。地図の左下に男山がせまり、左岸を京街道と京阪電車が通っています。京阪電車は2つの川を鉄橋で渡るため、大きくカーブを描いて走っています。
3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。現在よりも上流で三川が合流して、左岸に近いところを流れていました。緑色は荒地、うす紫色は湿地を示しています。現在宇治川が流れている付近には、荒地や湿地が拡がっていたことがわかります。
4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。木津川・宇治川・桂川の間の堤が長く伸びています。淀川河川公園の文字の見えるあたりは、背割堤として有名な桜の名所となっています。
最後は、地理院の空中写真です。写真で見ると3つの川と河川敷の様子がよくわかります。この写真は、木津川の水量が少ないときのようです。木津川は川幅のわりに水面は少ないですが、豪雨の際には満水になるのでしょう。宇治川はいかにも人工の川という感じです。
「淀川両岸一覧」の本文にある「山州乙訓郡円明寺村」とは、どの辺りなのか、グーグルマップで検索してみました。大山崎町の大字名に「円明寺」がありました。地図の白く表示されている地域が「大字円明寺」です。桂川のすぐ北側までが地域に含まれていますので、ここから対岸の八幡まで渡しがあったことが納得できます。当時は、上流で宇治川・木津川とも合流したあとですから、もっと川幅は広かったかもしれません。
桂川河川敷公園の対岸には「狐川」の文字が見えます。この辺りに狐の渡しがあったのかもしれません。
もう一枚、マピオン地図でも確認しました。「狐川」の文字が確認でき、「誤りなり」と言われながらも、地名として残っているのは面白いことです。
今回は、「淀川両岸一覧」の「狐渡口」をご紹介しました。八幡周辺は川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっており、現地へ行っても昔の面影は実感できないかもしれませんね。
今回から「上り船之部」の下巻に入り、「淀大橋」をご紹介します。現在の「淀大橋」と違って、木津川に架かっていた大橋です。
【淀大橋】
淀大橋は木津川が淀川に落ち合う河口に架かる橋で、約150mの長さがありました。上り船がこの辺りを棹差して上りますが、木津川の合流地点まで遡ると、右手に大きく望める位置に橋が架かっていました。
「淀大橋」と題する絵は、大橋を北西から眺めたもの。絵の中央、橋の手前に「木ツ川落合」、絵の左下に「淀川」の文字が見えます。絵の左手が淀川の上流になります。
京街道筋にあたるこの橋は、西国大名の参勤に利用されました。ちょうど橋上を大名行列が通行している所です。参勤交代の諸大名は、ここから伏見へと向かい、藤森から山科を抜け、大津へと進みます。左手前に見える三十石船の船客は苫を持ち上げて、その隙間から思いがけない光景を興味深げに眺めていたことでしょう。
大名行列が通行する日は、少々物入りでも船を利用する方がよかったようです。三十石船もおそらくは定員いっぱいの客を乗せているはず。船をこぐ船頭たちも、平常よりも力が入ります。
ここから川筋は、木津川、宇治川、桂川の3本に分かれます。三十石船は、中央の宇治川を北東へと遡っていきます。
ひとつ注意が必要なことは、当時の宇治川は、この合流点で現在の川筋よりも北側を流れ、淀城よりも上流で桂川と合流していました。これから見えてくる淀城は宇治川を遡る上り船の右手に見えてきます。三十石船は、淀城を過ぎると、淀小橋をくぐって、宇治川を伏見へと向かうことになります。
木津川に架かる淀大橋は、淀城下の南の玄関口です。近世に架橋されるまでは、ながらく渡し舟が人々の足の役割を果たしていました。本文の解説は次のとおりです。
≪いにしへは木津川御牧の西より北に流れ、宇治川に合わせし大河なり。これを舟わたしにせしゆゑ、大渡りといへり。しかるを、豊太閤の御時、木津川を南へ通じ、大橋、間小橋等を架けさせ給ふとぞ。清少納言の「枕草紙」に、卯月の晦日に長谷寺にまうづとて淀のわたりといふものをせしとあり。≫
平安時代、京から長谷寺へと行くためには、木津川を渡り、八幡から東高野街道を南へと向かうルートを利用しました。近世になると、豊臣秀吉による河川改修(文禄堤)や街道整備が行われ、橋が架けられることになりました。清少納言にとって難所であった「大渡り」も、江戸時代には「今は昔」のことでした。
絵の賛は、次のとおりです。
五月雨何を茶にくむ淀の人 鞭石
船よばふ声かあらぬか稀々に聞こえてふくる淀の川かぜ 欷城
淀川両岸一覧の本文は次のとおりです。
今回から「上り船之部」の「下巻」に入りました。
■美豆(みづ)
淀の大橋の南爪の里なり。すなはち京街道の順路にして、いにしへは美豆の御牧とて厩のありし所とぞ。小金川よりこの所まで水上およそ三十六丁と云ふ。入江・野・森等和歌に詠ず。
「後拾」
五月雨にみづの御牧のまこも草 刈りほす隙もあらじとぞ思ふ さがみ
「続千」
朝な朝なみづの上野に刈る草の きのふの跡はかつしげりつつ 順徳院
■木津川
水源は伊賀より出でて山城和束より出づる水と合流し、末は淀川に落つる。一名泉川といふ。また泉川は和束よりの流れをいふとも。両義決せず。
■淀大橋
右木津川にわたす。百三十六間。
■間小橋(まこばし)
大橋の北にあり。大橋と小橋の間にありて小さきゆゑかくは名づくるなるべし。
■淀大渡
いにしへは木津川御牧の西より北に流れ、宇治川に合せし大河なり。これを舟わたしにせしゆゑ、大渡りといへり。しかるを豊太閤の御時、木津川を南へ通じ、大橋・間小橋等を架けさせたまふとぞ。清少納言の「枕草紙」に、卯月の晦日に長谷寺にまうづとて淀のわたりといふものをせしとあり。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀大橋付近を見てみましょう。
図の右端に「やはた」「八幡御幸道」の文字が見えます。後ろには、男山と八幡宮も描かれています。「大はし」の手前に「みつさと」が見えます。「美豆の里」のことです。
橋を渡らずに木津川に沿って進むと「やまと道」、奈良へ向かう道です。「大はし」を渡ると「孫橋川」が見えます。「間小橋」が架かっている川です。
対岸には、右手から「離宮八幡」「山さき」「たから寺」「天王山」の地名があり、「こいづみ川」と「神崎川」が淀川に注いでいます。小泉川は現在も大山崎ICの南を流れています。神埼川は現在の小畑川にあたるのでしょうか。地図の左端に「納所(のうそ)」の地名も見えます。この絵は、淀川の北側の上空から見た風景を描いていますので、絵の左手に向かう淀川(宇治川)は、淀城の北側を流れていたことがわかります。
淀大橋付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
この地域は3つの川が合流する洪水の多発地帯で、川の付け替えなどによって地形が大きく変わっています。今回も少し丁寧に見ていきましょう。
1枚目と2枚目は「京街道~東海道五十七次から五十四次を歩く」という本から、八幡付近と淀附近の地図です。太い線が京街道です。1枚目の右上「西岸寺」の文字のある所がかつての木津川の流れで、ここに「淀大橋」が架かっていました。京街道は、2枚目の「淀新城」の南の城下町を通過して、「淀小橋」を渡り、伏見へと向かいます。
3枚目は、明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)です。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。
地図の左下に「美津村」という文字があります。本文の「美豆」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道です。「美津村」の北西で宇治川・桂川と合流しています。地図の左下から北東に向かう道が京街道で、「淀大橋」を渡ると、細い川を渡ります。ここが「間小橋」です。城下を折れ曲がりながら通り抜け「淀小橋」を渡ると「淀納所(のうそ)町」に至ります。京街道は橋の北詰から宇治川に沿って右手に進み、伏見に向かいます。
4枚目の地図は、国土地理院地図の治水地形分類図というものです。
現在の地図に河川の堤防の状況や旧河道などを示したものです。この地図で、木津川のかつての河道と、孫橋川、宇治川のかつての河道が確認できます。水色に塗られた部分です。
淀の町の南側に付け替えられた宇治川は直線状に流れていて、いかにも人工の川筋となっています。
次の地図は、明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。地図の右上から左下にかけて宇治川が流れていますが、水色が塗られていません。「新宇治川」の名前が見え、その下流側に「淀大橋」が見えます。これは、宇治川の付け替え後に新設された橋です。この橋の左上「美豆」の文字の見えるところに、淀川両岸一覧に描かれている「淀大橋」が木津川に架かっていました。
9:30 京阪本線石清水八幡宮集合
17:05 京阪本線淀駅解散
〇【参考資料】淀川両岸一覧にみる江戸時代の大坂
琵琶湖から大阪湾へと流れる淀川は、人の流れ、物の流れを担う交通の大動脈として機能してきただけでなく、人々の暮らしと大きく関わり、政治・経済・文化にも大きな影響を与えてきました。
「淀川両岸一覧」は、約160年前の江戸時代の大坂から京都までの淀川沿いの名所旧跡を挿絵を添えて紹介しています。このシリーズでは、淀川両岸一覧(上り船之部)に沿って、大坂から京都までの淀川左岸(川の流れから見て左側)沿いの風景を訪ねていきます。今回は、河内と山城の国境を越えて山城国(京都府)に入り、宿場町「橋本」をご紹介します。
【橋本】
楠葉より引き始めた三十石船は、橋本を右に見て曳き船をしながら通過します。この曳き船が8度目になります。曳き船の様子は挿絵の右側に描かれているように、船の中央に立てた柱から綱を伸ばし、その端を川岸の綱引き道から引きます。
この地は京街道(京都から見ると大坂街道)の宿駅とされますが、東海道を五十七次とする場合には、枚方の次は淀で、橋本は含まれていません。いずれにしても、街道筋1km余りに渡って旅籠、茶屋等の人家が建ち並ぶ宿場町でした。橋本を通ったオランダ人ケンペルは、戸数300戸と記し、枚方と同様に客引きの女性が軒先に目立つ宿場独特の風景を記録に留めています。
挿絵のバックに広がる峰は男山で、石清水八幡宮が鎮座します。橋本はこの参道の登り口にあり、参拝客の遊興の地であったともいえます。
淀川両岸一覧上船之巻「橋本」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
橋本の絵は、男山に月光のさす夜の風景を描いています。賛の二作も、男山と月の取り合わせになっています。
をとこ山 峰さし登る 月影に あらはれ渡る よどの川ふね 景樹
香川景樹の和歌は、雲の切れ間から月が上がる様子を描く絵と同じく満月の状景と推察されます。
新月や いつをむかしの 男山 其角
一方の其角の発句は、新月の闇につつまれた様子を吟じたものです。
絵の右端、中央あたりに描かれた酒楼に人影がみえます。おそらくは、月光に照らされた水無瀬から大山崎あたりにかけての風情を楽しみつつ、盃をかたむけるという趣向。そこを水主たちの引く三十石船が過ぎるさまは、景樹が詠んだ風景とイメージが重なります。
橋本の名前の由来は、神亀2年(725)に行基が架けたと伝えられる山崎橋の東詰めに位置したことからくると言われています。この橋はその後、損失と架設を繰り返しましたが、近世元禄の頃に架けられた橋が朽ち果てて洪水で流されると、その後復興はされず、地名だけが残りました。
山崎橋がなくなった後、その代役を務めたのが「橋本の渡し」で、対岸の摂州山崎へと渡したので、「山崎の渡し」とも呼ばれました。宿場筋を描いた挿絵の中ほど左手に渡し場が描かれ、4人の船客を乗せた渡し舟は渡し場を離れ、すでに川面に漕ぎ出しています。
橋本について、本文の解説には次のように記されています。
≪大坂街道の駅にして、人家の地十一丁あり、茶店、旅舎(はたご)多く、いたつて繁花なり。八幡へ参詣の人、この所より上りてよし。≫
石清水八幡宮をめざす篤信者で賑わっていたことがわかります。江戸時代の橋本には、名物の小豆餅を売る店があったといいます。現在では、大津の走井から伝わった走井餅がこの界隈の名物として知られています。
「其二」の絵は、男山の北西麓、橋本の東端あたりの風景を描いています。川面には、帆を張り流れをさかのぼる船が見えます、船の右手には、男山の山裾。山上の石清水八幡宮へは、この橋本からも登ることができました。本文には次のようにあります。
≪雄徳山参詣道
駅中の右の方に石壇、鳥居あり。山路十余町、中程に狩尾(とがのお)の社よて地主の神あり。八幡宮鎮座以前より在といひ伝ふ。≫
ここにある参詣道は、北西側から山上をめざします。途中にある狩尾社は、貞観2年(860)に石清水八幡宮が創建されるよりも前から、この地にあったとか。現存する石清水八幡宮の社殿や楼門は、近世になって造られたもので、国宝に指定されています。賛は次の狂歌、発句と漢詩です。
八はた山 梺に通ふ 淀ぶねの さしも仰がぬ 人やなからむ 古僲
尻むけて 八幡をたつるや 帰る雁 尚白
神滸溶々として匹練清む
西山影を写し新晴に媚ぶ
秭帰未だ叫ばざるに 春将に老いんとす
但警詞を誦して古情を為すのみ 島棕隠
2枚の絵を並べると、パノラマになっています。
淀川両岸一覧上船之巻「其二」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川両岸一覧上船之巻「橋本」と「其二」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
本文の解説は、次のとおりです。橋本の前後の全文を掲載しておきます。
■金川(こがねがは)
楠葉村の北の端にあり。舟橋川よりこの所まで水上およそ三十二丁余。この川、河内・山城両国の境なり。
■金橋(こがねばし)
右金川にわたすゆゑにかくは号(なづ)く。北詰より山州綴喜郡なり。
■広瀬渡口
金橋の上にあり。摂州島上郡広瀬にわたす舟わたしゆゑかく号く。渡しの長さおよそ九十間といふ。俗に下の渡といふ。すなはちこの上にまた渡口あるゆゑなり。
■橋本駅
金橋の上にあり。大坂街道の駅にして、人家の地十一丁あり、茶店、旅舎(はたご)多く、いたつて繁花なり。八幡へ参詣の人、この所より上りてよし。
この地は往古山崎より架す大橋あって、その橋の詰めなるゆゑに橋本と号くよぞ。今中之町といへる所橋の渡口なり。山崎橋、「延喜式」および「文徳実録」に出でたり。今は船わたしとなる。
■橋本渡口
右駅よりのわたし場なり。すなはち淀川を山崎にわたす。また一説に、山崎の橋のあとは狐わたしの所なりともいへり。いづれが是なりや、詳らかならず。
■雄徳山参詣道
駅中の右の方に石壇、鳥居あり。山路十余町、中程に狩尾(とがのお)の社よて地主の神あり。八幡宮鎮座以前より在といひ伝ふ。
■樋之上
橋本の町はずれをいふ。名物の小豆餅をひさぐ家あり。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の橋本付近を見てみましょう。
図の右端の下島、上嶌、樟葉の左手に川が流れ、橋が架かっています。この橋が「こか祢はし(こがねばし)」で、「河内山城堺(国境)」になります。国境を越えたところに「橋本」、その先には「一里塚」が見えます。
対岸には、「うとの」「中村」「上牧」「高浜村」「廣瀬」「みなせ川」の地名が記され、岸に沿って船頭らによって綱で引き上げられている三十石船(上り船)が描かれています。「高浜村」は、樟葉と高浜を結ぶ渡しがあったところです。
「よと川の図」の橋本付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
橋本付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
1枚目は明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。男山が淀川に迫る山裾に橋本の宿場町があり、町の中ほどで道路がクランク状に曲がっています。その西側から対岸へ渡す渡し舟が描かれています。町の中央で折れ曲がっている様子は「よと川の図」とも合致しています。街道の名前が府境を挟んで大阪側では「京街道」、京都側では「大阪街道」と表示されています。
明治41年陸地測量部地図+明治期の低湿地 |
2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の堤防の位置がわかりやすくなりましたが、この辺りでは明治初年以降、水害を防ぐために木津川、宇治川、桂川の三川の合流地点をできるだけ下流にするよう、河川改修が行われました。図中に「新宇治川」の文字も見えます。地図の右下に男山、左上に天王山がせまり、左岸を京街道と京阪電車、右岸を西国街道と官営鉄道(現在のJR)が通っています。
明治41年陸地測量部地図+色別標高図 |
3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。現在よりも上流で三川が合流して、左岸に近いところを流れていました。男山の南西側斜面が削られて、ニュータウンになっています。
国土地理院地図+明治期の低湿地 |
4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。黄緑色の部分は山が削られてニュータウンとなった地域です。木津川・宇治川・桂川の間の堤が長く伸びています。背割堤として有名な桜の名所となっています。地図の左下に府境を流れる「こがね川」が描かれています。
国土地理院地図+色別標高図 |
最後は、地理院の空中写真です。写真で見ると山が削られてニュータウンとなっている様子がよくわかります。橋本との間にわずかに小山が残されています。三川の流れと背割堤もよくわかります。この写真は、木津川の水量が少ないときのようです。
国土地理院空中写真 |
今回は、「淀川両岸一覧」の「橋本」をご紹介しました。
今回は「狐渡口」をご紹介します。
【狐渡口】
橋本から北へ上がり、木津川、宇治川、桂川の3つの川が合流する地点の手前に狐渡しがあります。
本文の解説は次のように記しています。
《八幡宮御参向道の鳥居の傍らにより、此のわたし場に出づる。山州乙訓郡円明寺村に渡る淀川の舟渡しなり。
一説に、山崎の橋は桓武帝即位三年に是を造る。中頃より淀の橋をかけてより、此の橋絶えてなし。今は船渡しとなりて、狐渡と云ふ。俗に狐川といふは誤なり。往古の人家を南に移して、今橋本の宿といふ、是なりと云ふ。》
「狐渡口」の絵は、手前、淀川右岸の円明寺から、奥、左岸の八幡を眺めた景色を描いています。左手が淀川の上流になります。川面には帆を張る荷船、三十石船、渡し舟がみえます。淀を横断するここの渡しは、「狐の渡し」と呼ばれていました。
解説には鳥居の傍らとありますが、挿絵には鳥居は見当たりません。手前に右岸の渡し場が大きく描かれ、渡し守が煙管をくゆらす横に、八幡宮参詣客でしょうか、船待ちをする旅客が1人立っています。向こう岸に木陰になった船着き場らしき場所が見え、これが左岸の渡口でしょう。
淀川両岸一覧上船之巻「狐渡口」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
橋本の地名の由緒である山崎橋は、一説に狐渡しの位置にあり、旧橋本の人家を南に移したのが橋本宿であるとも伝えられますが、定かではありません。また、狐渡しの辺りは淀川の本流でありながら狐川の誤称があり、謎の多い場所です。3つの川が合流するこの辺りの地形は複雑で、まさに狐に化かされたような川筋なのかもしれません。
絵の賛は、尾張の儒者熊谷荔齋(れいさい)の漢詩と、桜井梅室の発句です。
遙天中絶へて一川浮ぶ
白水青雲日夜流る
風急にして扁帆去鳥を追ふ
何人か千里滄洲に向ふ
踊笠 着てよきつねの わたし守
菅笠を被った旅人を、踊り笠を着た船頭が船渡しをする。ゆめゆめ化かされぬよう、ご注意を。梅室の句が、いかにも滑稽です。
そもそもこの渡しの付近には、平安時代の三大橋のひとつ、山崎橋が架かっていたといわれていました。その後、この橋は絶え、淀大橋が宇治橋、瀬田の唐橋とともに三大橋となりました。狐の渡しは、その名前の珍しさから、谷崎潤一郎の「蘆刈(あしかり)」の舞台としても登場します。絵の左下のあたりが、「わたし」と「男」とが出会った岸辺なのかもしれません。
≪むかしの『澱川(よどがわ)両岸一覧』という絵本に、これより少し上流に狐の渡しという渡船場があったことを記して渡(わたり)の長サ百十間(けん)と書いているからここはそれよりもっと川幅がひろいかも知れない。そして今いう洲は川のまん中にあるのではなくずっとこちら岸に近いところにある。河原の砂利に腰をおろして待っているとはるかな向うぎしに灯のちらちらしている橋本の町から船がその洲へ漕(こ)ぎ寄せる、と、客は船を乗り捨てて、洲を横ぎって、こちら側の船の着いている汀(みぎわ)まで歩いて来る。思えば久しく渡しぶねというものに乗ったことはなかったが子供の時分におぼえのある山谷(さんや)、竹屋、二子(ふたこ)、矢口(やぐち)などの渡しにくらべてもここのは洲を挟(はさ)んでいるだけに一層優長なおもむきがあっていまどき京と大阪のあいだにこんな古風な交通機関の残っていたことが意外でもあり、とんだ拾いものをしたような気がするのであった。
前に挙げた淀川両岸の絵本に出ている橋本の図を見ると月が男山のうしろの空にかかっていて「をとこやま峰さしのぼる月かげにあらはれわたるよどの川舟」という景樹(かげき)の歌と、「新月やいつをむかしの男山」という其角(きかく)の句とが添えてある。わたしの乗った船が洲に漕ぎ寄せたとき男山はあだかもその絵にあるようにまんまるな月を背中にして鬱蒼(うっそう)とした木々の繁(しげ)みがびろうどのようなつやを含み、まだ何処やらに夕ばえの色が残っている中空(なかぞら)に暗く濃く黒ずみわたっていた。わたしは、さあこちらの船へ乗って下さいと洲のもう一方の岸で船頭が招いているのを、いや、いずれあとで乗せてもらうがしばらく此処で川風に吹かれて行きたいからとそういい捨てると露にしめった雑草の中を蹈(ふ)みしだきながらひとりでその洲の剣先の方へ歩いて行って蘆(あし)の生(は)えている汀(みぎわ)のあたりにうずくまった。まことに此処は中流に船を浮かべたのも同じで月下によこたわる両岸のながめをほしいままにすることが出来るのである。わたしは月を左にし川下の方を向いているのであったが川はいつのまにか潤(うるおい)のあるあおい光りに包まれて、さっき、ゆうがたのあかりの下で見たよりもひろびろとしている。
洞庭湖(どうていこ)の杜詩(とし)や琵琶行(びわこう)の文句や赤壁(せきへき)の賦(ふ)の一節など、長いこと想い出すおりもなかった耳ざわりのいい漢文のことばがおのずから朗々(ろうろう)たるひびきを以(もっ)て唇(くちびる)にのぼって来る。そういえば「あらはれわたるよどの川舟」と景樹が詠よんでいるようにむかしはこういう晩にも三十石船(こくぶね)をはじめとして沢山の船がここを上下していたのであろうが今はあの渡船(とせん)がたまに五、六人の客を運んでいる外にはまったく船らしいものの影もみえない。わたしは提げてきた正宗の罎(びん)を口につけて喇叭(らっぱ)飲みしながら潯陽江頭(じんようこうとう)夜送レ客(よるきゃくをおくる)、楓葉荻花秋瑟々(ふうようてきかあきしつしつ)と酔いの発するままにこえを挙げて吟じた。そして吟じながらふとかんがえたことというのはこの蘆荻(ろてき)の生(お)いしげるあたりにもかつては白楽天(はくらくてん)の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。≫
(以上、谷崎潤一郎「蘆刈」より、
初出:「改造」改造社 1932(昭和7)年11月号、12月号)
「蘆刈」に描かれている中洲は下の地図のあたりだったのかもしれません。中洲を挟んで両側に渡し船があり、対岸(左岸)には橋本があります。「わたし」は、中洲の西の剣先(先端)から下流に向かってうずくまり、両岸を眺めていたのでしょうか。
前回の「橋本」のときにご紹介した方が良かったかもしれませんが、「狐の渡し」という文字がずばり書かれていましたので、今回ご紹介することにしました。
昭和6年地形図の水無瀬・橋本付近 |
上り船の上巻は、ここまでです。次回からは、下巻となります。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の八幡付近を見てみましょう。
図の右端の「一里塚」から、途中少し省略されていますが、「やはた」「八幡御幸道」の文字が見えます。後ろには、男山と八幡宮も描かれています
対岸には、右手から「上牧」「高浜村」「廣瀬」「みなせ川」「離宮八幡」「山さき」「たから寺」「天王山」の地名が記されています。岸に沿って船頭らによって綱で引き上げられている三十石船(上り船)が描かれています。
「よと川の図」の八幡付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
八幡付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
この地域は3つの川が合流する洪水の多発地帯で、川の付け替えなどによって地形が大きく変わっています。少し丁寧に見ていきましょう。
1枚目は「京街道~東海道五十七次から五十四次を歩く」という本から、八幡付近の地図です。太い線が京街道です。「楠の木」から右上に点線で描かれていますが、京街道が淀川を斜めに横断しています。まさか川の中を歩いたわけでは無いと思われます。
八幡付近の京街道(「京街道」より) |
2枚目は、明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)です。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。木津川は明治初年に既に付け替えられていますが、宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。
地図の右下から左上に向かって街道が通っています。その左手にも堤防跡のような道があります。この間が付け替え前の木津川の水路と思われます。「美津村」という文字のあるところです。「美津村」の北西で宇治川・桂川と合流していたとすると、先ほどの地図の点線は陸地(たぶん堤防上)になりますから、淀に向かって直進できたことがわかります。
明治22年陸地測量部地図(仮製地図) |
3枚目の地図は、国土地理院地図の治水地形分類図というものです。4枚目はその拡大版です。
現在の地図に河川の堤防の状況や旧河道などを示したものです。この地図で、木津川のかつての河道が確認できます。水色に塗られた部分で、先ほどの推定どおりとなっています。
宇治川も、淀の町の南側に付け替えられています。直線状に流れていて、いかにも人工の川筋となっています。
地理院地図の治水地形分類図 |
川の中に流れに直角に線が引かれ、数字が書かれています。数字は河口からの距離を示しています。宇治川(中央の川)の37.0Kのところで桂川が分岐して、桂川にはここを起点にした数字が書かれています。また、宇治川の35.8K付近で木津川が分岐しています。
実際の川の流れは、宇治川と木津川が先に合流し、さらに下流で桂川と合流していますが、河川管理上は宇治川と桂川が先に合流しており順番が違っています。宇治川と木津川の間には、少し幅のある背割堤があるからでしょうか。
地理院地図の治水地形分類図(拡大) |
次の地図は、明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。宇治川には水色が塗られていません。合流地点付近を見ると「新宇治川」の名前が見えます。明治18年の淀川大洪水の後、明治39年に宇治川が巨椋池と分離され、現在の水路となっています。完成後間もないので「新」が付けられているのでしょう。街道の名前は京都府に入ってからは「大阪街道」と表示されています。
明治41年陸地測量部地図+明治期の低湿地 |
2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の堤防の位置がわかりやすくなりましたが、この辺りでは明治初年以降、水害を防ぐために木津川、宇治川、桂川の三川の合流地点をできるだけ下流にするよう、河川改修が行われました。図中に「新宇治川」の文字も見えます。地図の左下に男山がせまり、左岸を京街道と京阪電車が通っています。京阪電車は2つの川を鉄橋で渡るため、大きくカーブを描いて走っています。
明治41年陸地測量部地図+色別標高図 |
3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。現在よりも上流で三川が合流して、左岸に近いところを流れていました。緑色は荒地、うす紫色は湿地を示しています。現在宇治川が流れている付近には、荒地や湿地が拡がっていたことがわかります。
国土地理院地図+明治期の低湿地 |
4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。木津川・宇治川・桂川の間の堤が長く伸びています。淀川河川公園の文字の見えるあたりは、背割堤として有名な桜の名所となっています。
国土地理院地図+色別標高図 |
最後は、地理院の空中写真です。写真で見ると3つの川と河川敷の様子がよくわかります。この写真は、木津川の水量が少ないときのようです。木津川は川幅のわりに水面は少ないですが、豪雨の際には満水になるのでしょう。宇治川はいかにも人工の川という感じです。
国土地理院空中写真 |
「淀川両岸一覧」の本文にある「山州乙訓郡円明寺村」とは、どの辺りなのか、グーグルマップで検索してみました。大山崎町の大字名に「円明寺」がありました。地図の白く表示されている地域が「大字円明寺」です。桂川のすぐ北側までが地域に含まれていますので、ここから対岸の八幡まで渡しがあったことが納得できます。当時は、上流で宇治川・木津川とも合流したあとですから、もっと川幅は広かったかもしれません。
桂川河川敷公園の対岸には「狐川」の文字が見えます。この辺りに狐の渡しがあったのかもしれません。
グーグルマップの大山崎附近 |
もう一枚、マピオン地図でも確認しました。「狐川」の文字が確認でき、「誤りなり」と言われながらも、地名として残っているのは面白いことです。
マピオン地図の大山崎附近 |
今回は、「淀川両岸一覧」の「狐渡口」をご紹介しました。八幡周辺は川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっており、現地へ行っても昔の面影は実感できないかもしれませんね。
今回から「上り船之部」の下巻に入り、「淀大橋」をご紹介します。現在の「淀大橋」と違って、木津川に架かっていた大橋です。
【淀大橋】
淀大橋は木津川が淀川に落ち合う河口に架かる橋で、約150mの長さがありました。上り船がこの辺りを棹差して上りますが、木津川の合流地点まで遡ると、右手に大きく望める位置に橋が架かっていました。
「淀大橋」と題する絵は、大橋を北西から眺めたもの。絵の中央、橋の手前に「木ツ川落合」、絵の左下に「淀川」の文字が見えます。絵の左手が淀川の上流になります。
京街道筋にあたるこの橋は、西国大名の参勤に利用されました。ちょうど橋上を大名行列が通行している所です。参勤交代の諸大名は、ここから伏見へと向かい、藤森から山科を抜け、大津へと進みます。左手前に見える三十石船の船客は苫を持ち上げて、その隙間から思いがけない光景を興味深げに眺めていたことでしょう。
大名行列が通行する日は、少々物入りでも船を利用する方がよかったようです。三十石船もおそらくは定員いっぱいの客を乗せているはず。船をこぐ船頭たちも、平常よりも力が入ります。
ここから川筋は、木津川、宇治川、桂川の3本に分かれます。三十石船は、中央の宇治川を北東へと遡っていきます。
ひとつ注意が必要なことは、当時の宇治川は、この合流点で現在の川筋よりも北側を流れ、淀城よりも上流で桂川と合流していました。これから見えてくる淀城は宇治川を遡る上り船の右手に見えてきます。三十石船は、淀城を過ぎると、淀小橋をくぐって、宇治川を伏見へと向かうことになります。
淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
木津川に架かる淀大橋は、淀城下の南の玄関口です。近世に架橋されるまでは、ながらく渡し舟が人々の足の役割を果たしていました。本文の解説は次のとおりです。
≪いにしへは木津川御牧の西より北に流れ、宇治川に合わせし大河なり。これを舟わたしにせしゆゑ、大渡りといへり。しかるを、豊太閤の御時、木津川を南へ通じ、大橋、間小橋等を架けさせ給ふとぞ。清少納言の「枕草紙」に、卯月の晦日に長谷寺にまうづとて淀のわたりといふものをせしとあり。≫
平安時代、京から長谷寺へと行くためには、木津川を渡り、八幡から東高野街道を南へと向かうルートを利用しました。近世になると、豊臣秀吉による河川改修(文禄堤)や街道整備が行われ、橋が架けられることになりました。清少納言にとって難所であった「大渡り」も、江戸時代には「今は昔」のことでした。
絵の賛は、次のとおりです。
五月雨何を茶にくむ淀の人 鞭石
船よばふ声かあらぬか稀々に聞こえてふくる淀の川かぜ 欷城
淀川両岸一覧の本文は次のとおりです。
今回から「上り船之部」の「下巻」に入りました。
■美豆(みづ)
淀の大橋の南爪の里なり。すなはち京街道の順路にして、いにしへは美豆の御牧とて厩のありし所とぞ。小金川よりこの所まで水上およそ三十六丁と云ふ。入江・野・森等和歌に詠ず。
「後拾」
五月雨にみづの御牧のまこも草 刈りほす隙もあらじとぞ思ふ さがみ
「続千」
朝な朝なみづの上野に刈る草の きのふの跡はかつしげりつつ 順徳院
■木津川
水源は伊賀より出でて山城和束より出づる水と合流し、末は淀川に落つる。一名泉川といふ。また泉川は和束よりの流れをいふとも。両義決せず。
■淀大橋
右木津川にわたす。百三十六間。
■間小橋(まこばし)
大橋の北にあり。大橋と小橋の間にありて小さきゆゑかくは名づくるなるべし。
■淀大渡
いにしへは木津川御牧の西より北に流れ、宇治川に合せし大河なり。これを舟わたしにせしゆゑ、大渡りといへり。しかるを豊太閤の御時、木津川を南へ通じ、大橋・間小橋等を架けさせたまふとぞ。清少納言の「枕草紙」に、卯月の晦日に長谷寺にまうづとて淀のわたりといふものをせしとあり。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀大橋付近を見てみましょう。
図の右端に「やはた」「八幡御幸道」の文字が見えます。後ろには、男山と八幡宮も描かれています。「大はし」の手前に「みつさと」が見えます。「美豆の里」のことです。
橋を渡らずに木津川に沿って進むと「やまと道」、奈良へ向かう道です。「大はし」を渡ると「孫橋川」が見えます。「間小橋」が架かっている川です。
対岸には、右手から「離宮八幡」「山さき」「たから寺」「天王山」の地名があり、「こいづみ川」と「神崎川」が淀川に注いでいます。小泉川は現在も大山崎ICの南を流れています。神埼川は現在の小畑川にあたるのでしょうか。地図の左端に「納所(のうそ)」の地名も見えます。この絵は、淀川の北側の上空から見た風景を描いていますので、絵の左手に向かう淀川(宇治川)は、淀城の北側を流れていたことがわかります。
「よと川の図」の淀大橋付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
淀大橋付近の地域の変遷を地形図で見てみましょう。
この地域は3つの川が合流する洪水の多発地帯で、川の付け替えなどによって地形が大きく変わっています。今回も少し丁寧に見ていきましょう。
1枚目と2枚目は「京街道~東海道五十七次から五十四次を歩く」という本から、八幡付近と淀附近の地図です。太い線が京街道です。1枚目の右上「西岸寺」の文字のある所がかつての木津川の流れで、ここに「淀大橋」が架かっていました。京街道は、2枚目の「淀新城」の南の城下町を通過して、「淀小橋」を渡り、伏見へと向かいます。
八幡付近の京街道(「京街道」より) |
淀付近の京街道(「京街道」より) |
3枚目は、明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)です。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。
地図の左下に「美津村」という文字があります。本文の「美豆」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道です。「美津村」の北西で宇治川・桂川と合流しています。地図の左下から北東に向かう道が京街道で、「淀大橋」を渡ると、細い川を渡ります。ここが「間小橋」です。城下を折れ曲がりながら通り抜け「淀小橋」を渡ると「淀納所(のうそ)町」に至ります。京街道は橋の北詰から宇治川に沿って右手に進み、伏見に向かいます。
明治22年陸地測量部地図(仮製地図) 国際日本文化研究センター蔵 |
4枚目の地図は、国土地理院地図の治水地形分類図というものです。
現在の地図に河川の堤防の状況や旧河道などを示したものです。この地図で、木津川のかつての河道と、孫橋川、宇治川のかつての河道が確認できます。水色に塗られた部分です。
淀の町の南側に付け替えられた宇治川は直線状に流れていて、いかにも人工の川筋となっています。
地理院地図の治水地形分類図 |
次の地図は、明治42年陸地測量部地図に「明治期の低湿地」を重ねたもので、水色は明治20年ごろの水面、黄色は水田、緑色は荒地を表しています。地図の右上から左下にかけて宇治川が流れていますが、水色が塗られていません。「新宇治川」の名前が見え、その下流側に「淀大橋」が見えます。これは、宇治川の付け替え後に新設された橋です。この橋の左上「美豆」の文字の見えるところに、淀川両岸一覧に描かれている「淀大橋」が木津川に架かっていました。
明治20年ころの宇治川は地図の右上から中央に向かって水色の所(京阪電車に沿う形)を流れていました。「舊宇治川」の文字が見えます。江戸時代の三十石船は、地図の左下から桂川を遡り、納所村の南で「小橋」をくぐり、地図の右上に向かって舊宇治川を東に進み、伏見へと向かいました。
2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の宇治川と桂川の堤防の位置がわかりやすくなりました。
3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。宇治川は現在の京都競馬場の北側を流れ、納所町の西で桂川と合流していました。緑色は荒地、うす紫色は湿地を示しています。当時東側には巨椋池があり、宇治川が幾筋にも分かれて流れていた様子がわかります。競馬場の池のあたりにも、荒地や湿地が拡がっていたことがわかります。
4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。宇治川と桂川の流れがよくわかります。黄色の道路は府道で、図の左下から右上にかけて直線状の道路は旧国道1号線(府道13号線)、淀の城下町を抜ける京街道も府道(126号線)となっています。
明治41年陸地測量部地図+明治期の低湿地 |
2枚目は、明治42年陸地測量部地図に現在の「色別標高図」を重ねたものです。現在の宇治川と桂川の堤防の位置がわかりやすくなりました。
明治41年陸地測量部地図+色別標高図 |
3枚目は、最新の地理院地図に「明治期の低湿地」を重ねたものです。濃い水色が明治20年ごろの淀川の流れを示しています。宇治川は現在の京都競馬場の北側を流れ、納所町の西で桂川と合流していました。緑色は荒地、うす紫色は湿地を示しています。当時東側には巨椋池があり、宇治川が幾筋にも分かれて流れていた様子がわかります。競馬場の池のあたりにも、荒地や湿地が拡がっていたことがわかります。
国土地理院地図+明治期の低湿地 |
4枚目は、最新の地理院地図に「色別標高図」を重ねたものです。宇治川と桂川の流れがよくわかります。黄色の道路は府道で、図の左下から右上にかけて直線状の道路は旧国道1号線(府道13号線)、淀の城下町を抜ける京街道も府道(126号線)となっています。
旧国道1号線と京街道が交差する五差路の変形交差点である納所から、左手に延びる府道(204号線)は西国街道(現在の国道171号線)に通じる道で、桂川に架かる橋は宮前橋です。納所は、今も昔も交通の要所であることがわかります。
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