9:30 京阪本線石清水八幡宮集合
17:05 京阪本線淀駅解散
【参考資料】
「上り船之部」下巻に入って2回目は、「淀城」をご紹介します。現在も堀の一部と石垣が残っており、城跡は神社や公園になっています。京阪電車淀駅から西にすぐのところです。
【淀城】 御茶屋
淀は江戸から数えて東海道五十五番目の宿場です。大坂からは「陸路行程九里」のおよそ35キロメートル、伏見からは一里十四町のおよそ5キロメートルの距離。本陣や脇本陣などはなく、旅籠が十数件ほど営業をするのみであったといいます。本文の解説には次のようにあります。
≪その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。≫
伏見の町に近いこともあり、大きな宿場として発展することはなかったようですが、風光明媚な城下町として「街道随一の繁華」を極めたとしています。
淀大橋を過ぎると、もうそろそろ船の右手に淀城の石垣が見えてきます。北は宇治川、南は木津川、東は巨椋池に接する淀城は天然の要害で、川の水を引いて城内に二重、三重の堀をめぐらしていました。
淀城といえば、秀吉の側室で淀殿の名で知られる「ちゃちゃ」の居城として有名です。しかし、三十石船から眺められる淀城はその居城ではなく、寛永2年(1625)に古城の南西に再興されたものです。伏見城の廃城を受けて、資材は伏見城の遺材を利用し、さらに、天守は二条城のものを移築したといわれます。
現在は競馬場で有名な淀も、当時は城下町であるとともに、京街道の宿場町でもあり、川岸にも、茶屋が建ち、この辺りは街道随一の繁華街でした。城の南に架かる大橋から北へ町を横断し、北の小橋に至る街道筋は、挿絵に描かれた城の裏手になり見えませんが、様々な商店が軒を連ね、揃わぬものはないと言われるほどの賑わいでした。
ここの景観を支えたのは、なんといっても豊かな水の流れ。天明七(1787)年に出版された「拾遺都名所図会」の本文には、次の藤原定家の「顕注密勘」を引用しています。「淀川両岸一覧」も同じ内容を本文に引用しています。
≪淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり≫
これをみると、「淀」の名の由来が流れの「よどみ」であることがわかります。この付近は、鴨川、桂川、宇治川、木津川という大河が合流するポイント。その流れに乗って人や物資が運ばれてくる。それほど大きくはないこの宿場が栄えたのは、このような理由によるのです。
絵は淀城の川面を、下流から順に、南西の方角から眺めた景色です。
現在、この三川合流の地は、重なる河川改修によって、往時とはまったく異なった景観となっていますので、注意が必要です。
淀川両岸一覧上船之巻「淀城 御茶屋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
賛は、次のとおりです。
宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
白露の しらけしまひや 淀の水 言水
本文には「茶亭、淀川の汀にありて美景なり。」という記述があります。この「茶亭」は絵のタイトルにある「御茶屋」のことであると知られます。「淀御城府内之図」をみてみると、淀城の南西に「水車茶屋」と記された場所があります。これが「茶亭」で、「其三」の奥に見える建物に相当します。淀から宇治川をさかのぼれば、そこは宇治茶の一大産地。さらに茶道は武家のたしなみのひとつでしたから、城の脇にこうした施設があっても、おかしくはありません。
茶の湯は数寄の道。茶を服しつつ、美しい景色を眺める。味覚と視覚の両方を満足させたことでしょう。
淀の名産に「淀鯉」があります。余所の鯉よりも「美味」であったとか。なかでも、水車の付近で獲れるのを「車下」と呼び、珍重していたといわれます。「其三」の絵をよく見ると、茶亭の南西隅で釣り糸を垂らす男が二人。本日の茶会には、淀鯉が供されるはず。淀鯉を吟じた桜井梅室の発句。
宵の間は 鯉のうはさや ほととぎす 梅室
淀川両岸一覧上船之巻「其二」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
其二の賛は次のとおりです。
〇(サンズイに奠)河(でんが)東に望む帝王の州 二月の春風、背に上る舟 却って訝(いぶか)る、蓬窓になほ月あるかと 夜来の白雪、汀洲に満つ 釈元皓
川風の菖蒲(あやめ)ふきけり淀の町 曲水
との様は 涼しからうぞ 淀の月 梅室
淀川両岸一覧上船之巻「其三」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
其三の賛は、次のとおりです。
さす棹も及ばずなれば行く水にまかせて下す淀の河ふね 冬降
西山雨晴るる暁 落花〇(サンズイに奠)津(でんしん)に漲(みなぎ)る 城頭の水車子 酌み取る、万斛(まんごく)の春 巌垣彦明
淀城、其二、其三を並べると、パノラマになります。
淀川両岸一覧上船之巻「淀城、其二、其三」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
■水車
淀の名物の1つとして、城の用水を汲み上げる水車がありました。この水車は城の北(宇治川と桂川の合流点)と西(淀川)の2か所にあり、三十石船の川筋にあたります。
淀城を東に見るこの川筋は、城が川面に影を落とし、茶亭が並びます。淀川の景色の中でも最も美しいと言われる場所です。「淀川両岸一覧」の本文の中でも、「領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかいの意味)として足らずといふ事なし。」と絶賛しています。夏などは翻々(へんべん)と水しぶきを立てて回る水車がこの景観にさらに趣を添え、急流に棹差してゆっくりと進み行く船からの眺めは、乗客にとって得も言われぬ楽しみだったことでしょう。
挿絵にのせられている
子規(ほととぎす) まつやら淀の 水くるま
の宗因の句が夏の川辺の趣をよく伝えています。
京坂を船で往き来する旅人たちにとって、淀城の淀川面にあった水車はランドマークとなっていました。上り船の場合、三川が合流し、この水車が見えてくると、伏見まではあとわずか。寝ぼけ眼をこする者、近づいてくる貨食(にうり)舟を利用して腹ごしらえをする者、それぞれに降船の支度を始めます。絵の右にみえる上り船に、左から近づいてくるのが貨食舟です。こうした「くらわんか舟」は、下流の枚方だけの名物ではなかったのです。
その他の賛は、次のとおりです。
淀のくるまの 修理なりたるをみて 辺信
くだけても あられぬものか よど車 またも浮瀬に 立ちめぐるなる
名月や 汲まぬもさむき 水車 言水
淀川両岸一覧上船之巻「其四 水車」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
そもそも淀城には、「淀古城」と「淀城」とがあります。前者は、室町時代中期、畠山政長によって築城され、その後、明智光秀、豊臣秀吉らによって改修されました。現在の淀城址よりも北東の、納所付近にあったと言います。秀吉の側室であった淀殿が住まったのもこちらです。
後者は、元和九(1623)年、徳川秀忠の命を受けた松平定綱によって築城されました。これが現在の淀城祉なのです。絵は後者の淀城を西北の方角から眺めたものです。
「其五」と題する絵をよくみると、右側中央、本丸付近に霧がかかっているのがわかります。「名所図会」の挿絵には当時の城郭を描くものがほとんどありません。あったとしても、遠景の一部として描き出されるのみで、詳細なものはありません。城郭の詳細は軍事的情報であったため、公刊される「図会」には掲載されなかったからです。
では、この絵の場合も同じ事情によって本丸を霧で隠しているのでしょうか。答えは否。というのは、淀城は宝暦六(1756)年の落雷によって大半が焼失し、その後、再建されることはありませんでした。軍事的情報を隠蔽しようにも、実際にそれが存在しなかったのです。絵の手前、上り船に乗る旅人たちは、かつての面影をとどめる城を眺めつつ、往時を偲んでいるのでしょう。
淀川両岸一覧上船之巻「其五」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
其五の賛は、次のとおりです。
ほととぎす 二ツの橋を 淀の景 惟然
曨々(おぼろおぼろ) 灯(ともしび)みるや 淀の橋 鬼貫
水影や 淀の城ふく あやめ草 順也
其四水車と其五も並べるとパノラマになります。前の4枚ともつながりますので、一応掲載しておきます。小さくて見にくいですが、クリックすると多少大きくなります。
淀川両岸一覧上船之巻「其四水車、其五」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋から淀城」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
本文は次のとおりです。一部重複しますが、淀城の前後の全文を掲載します。
■淀
大坂より陸路行程九里にあり。「顕注密勘」に云ふ、「淀はよどみをいふ。水の流れもやらでとどこほりぬるくとまれるなり。それをば淀と云ふ。河淀ともよめり。この淀川といふも、桂川・鴨川・宇治川・木津川等のおち合ひてふかかればよどみぬるくながるるなり」云々。
■淀城
その始めは岩成主悦助がきづく所なり。その後豊公の御簾中この所に住みたまふにより、淀殿と号す。茶亭、淀川の汀にありて美景なり。城下は大橋より小橋まで工家(くか)・商家軒をつらね、万もとむるに欠くることなし。旅舎(はたごや)は小橋の両岸に多くありて上り下り船自由なり。いはゆる街道第一の繁花なり。
■淀河
城郭の際を流る
五畿内第一の大河にして、六国の水ここに帰会す(山城・近江・河内・伊賀・丹波・摂津)。河水は常に溶々としづかに流れ、難波津に往きかふ舟は昼夜ともに間断なく、城郭の汀には水車ありて、波に随ひ翻々(へんべん)とめぐる。領主の茶亭、橋上の往来の美景邃々(せいせい・おくぶかい)として足らずといふ事なし。またこの所は鯉の名産にして殊に美味あり。高貴の献上には城辺の魚を用ゆ(俗にこれを車下といふ)。ゆゑに常は遊猟を禁ず。
「拾遺」
いづかたに 鳴きて行くらん 時鳥(ほととぎす) 淀のわたりの まだ夜深きに 忠見
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀城付近を見てみましょう。
図の右端に「みつさと」の文字が見えます。「美豆の里」のことです。そこから「大はし」を渡ると「孫橋川」が見えます。「間小橋」が架かっている川です。
かつての街道は、まず南の入口に木津川が流れ、そこに架かる淀大橋を渡る。少し進んで、孫橋。この橋は「大橋と小橋の間にありて小さきゆゑ」に「間小橋」と呼ばれるようになったと言います。さらに北上し、宇治川に架かる淀小橋へとすすんでいくのです。なお、大橋と小橋はすでに失われていますが、孫橋は現存しています。
対岸には、右手から「こいづみ川」「大あらき森」「淀明神」「水垂」「神崎川」「納所(のうそ)」「小橋」「とみの森」の地名があります。小泉川は現在も大山崎ICの南を流れています。神埼川は現在の地図と照らすと「桂川」にあたるようです。この絵は、淀川の北側の上空から見た風景を描いていますので、当時の淀川(宇治川)は、淀城の北側を流れていたことがわかります。
「よと川の図」の淀城付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
淀城付近の地域の変遷は、前回ご紹介した内容と重なりますので、省略させていただきます。
1枚だけ、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われていますので、この地図には描かれていません。(地図の左手八幡の手前で淀川と合流しています。)
地図の中央やや下に「美津村」という文字があります。よと川の図の「みつさと」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道にあたります。当時の木津川は「美津村」の北西、少し池が残っているあたりで宇治川・桂川と合流していました。
最後に、前回と同じものですが、地理院の空中写真です。写真で見ると桂川と宇治川、京都競馬場が目に付きます。図の中央の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀城」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので、挿絵を見るときには、当時の地形を想像してご覧ください。
今回は「淀小橋」をご紹介します。淀城の北側で宇治川に架かっていた橋です。現在は宇治川が淀城の南側に付け替えられたため、橋の痕跡はありません。京阪電車淀駅の北西すぐ、納所(のうそ)交差点の手前あたりになります。
【淀小橋】
淀城に続く一枚には城郭の北側に架かる淀小橋が描かれています。絵の解説は次のとおりです。
≪橋の北詰に三嶋屋といふよき貨食店(りやうりや)あり。淀上がりの人はかねて蒿子(かこ)に約し置きて、此岸に船をよせて上陸す。是より宇治川の下流急なれば、綱引きの人夫を加ふるを例(ならひ)とす。伏見にいたる客衆も、やがて着船の支度に心いさみ、彼の柱本(はしらもと)の河堀に狸寝入せし親仁(おやぢ)も、目をひらきて綱引の割銭(わりせん)を出だす。彼方(かしこ)には荷物のふろしきをしめ直し、此方(こなた)には弁当の余りを調ぶるなど、皆、船中の通情なり。
橋の灯も おぼろに明けて 水ぐるま 千山≫
小橋の界隈には多くの旅籠や茶店が軒を連ねていました。そのなかのひとつ、北詰にあった「三嶋屋」はすこぶる評判がよく、淀で船を降りる上り船の客に人気があったそうです。
淀川筋でも淀小橋の辺りは特に流れが急で、その上橋脚の下は水流が巻いていて危険でした。棹の操作を誤れば、船を橋脚にぶつけ大事故になります。このため、橋脚には鉄燈籠が釣り下げられ、終夜灯火し、通船の便りとしました。
淀小橋を過ぎると宇治川の流れは速さを増します。淀からの曳き船の場合も、通常は四人である水主(かこ)を増員し、船を川岸から綱で曳きつつ伏見をめざすのが慣例でした。人夫を増員すると当然割り増し料金を取られます。他の場所なら話は別ですが、船頭も船客も緊張する淀の辺りでは狸寝入りをすることもできず、むしろここまで来ると、船客も着船の支度に心が勇み、金払いも良かったと言います。
橋を越え最後の曳き船が始まると、船内は急にざわめきたちます。荷物の風呂敷包みの口を締め直す人があるかと思うと、弁当の余りを確かめる人もいるといった様子です。長かった上りの船旅もそろそろ終着となります。
また、淀小橋の上流、納所(のうそ)には過書船の番所があったと言います。通常、風雨をしのぐため、船には苫が葺いてありました。ただし、番所を通過する際にはこの苫を開けさせ、船中を改めたのです。そもそも納所という地名は、船で運ばれてきた物資を「納」め置く場「所」だったことにちなみます。往古より川の道の要衝として機能していたことが知られます。そのため、江戸時代には大坂から淀川を上ってきた朝鮮通信使が使用したという船着き場がありました。現在は、旧京阪国道の納所交差点から千本通を少し上がった場所に、「唐人雁木(がんぎ)旧跡」と刻まれた石碑だけが残っています。
前回ご紹介した其五と淀小橋は、並べるとパノラマになります。また、淀大橋から淀小橋までの7枚はすべてつながり超ワイドなパノラマになります。
本文は次のとおりです。淀小橋から巨椋大池の全文を掲載しておきます。
■淀小橋
城郭の上にあり。長さ七十六間、橋下の大間に鉄燈炉(かなどうろ)を釣り終夜(よもすがら)灯を燈じ通船の便(たより)とす。美豆よりこの所まで水上およそ十二丁十間といふ。
■伊勢向宮(いせむかひのみや)
小橋の東にあり。天照太神をまつる。この所浮島なり。洪水の時といへどもあぶるることなし。この傍を大池口といふ。
■巨椋大池(おぐらのおほいけ)
川すぢの傍にあり。前に葭島ありて船中よりは見えず。おぐらの入江とも伏見の大池ともいふ。長さ二十九町、幅十五町といふ。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀小橋から上流にかけてを見てみましょう。
図の右端の淀城の傍を通り過ぎた京街道は、小橋を渡り宇治川の右岸を川に沿って進みます。街道に沿って船頭たちが綱で引き上げる三十石船が描かれています。宇治川の流れが急な箇所で、上り船の最後の曳舟となります。
小橋の左手に「浮嶋明神」が描かれ、「大池」「一口村」「いちたむら」「佐古むら」の文字が見えます。それぞれ、巨椋池、一口(いもあらい)、市田村、佐古村で、明治42年の地形図で確認することができます。なお、この絵は、宇治川の北側の上空から見た風景を描いています。絵の左手が上流側で、宇治川を遡ると伏見に至ります。
淀付近の地域の変遷は、前々回ご紹介した内容と重なりますので、簡単にご紹介します。
明治42年の地形図では、宇治川は淀の町の南側に付け替えられた後ですが、旧宇治川の川筋が残っており「小橋」の文字も見えます。京街道の道筋も読み取ることができます。
最新の国土地理院地図では、旧宇治川が埋め立てられて市街地化しており、川筋をたどることは難しくなっています。ここでは、地理院作成の「明治期の低湿地」を重ねましたので、水色の部分が旧宇治川の川筋です。納所(のうそ)交差点は、旧街道の交差する所に斜めに旧国道1号線が通ったため、変則的な交差点になっています。
地理院の空中写真です。図の中央やや下の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
最後にもう1枚、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われ、地図の左下の八幡付近で淀川と合流しています。付け替え前には地図に「木津川旧河道」と示したところを流れていました。淀から伏見までの京街道の道筋も確認することができます。
付け替え工事前には淀城の北側で桂川と宇治川が合流し淀川となり、城の西側で木津川と合流していました。淀城は、まさに水に浮かぶ要塞のようであったと想像できます。
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀小橋」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので注意が必要です。
地図の中央やや下に「美津村」という文字があります。よと川の図の「みつさと」にあたります。ここが付け替え前の木津川の河道にあたります。当時の木津川は「美津村」の北西、少し池が残っているあたりで宇治川・桂川と合流していました。
明治22年陸地測量部地図(仮製地図) 国際日本文化研究センター蔵 |
最後に、前回と同じものですが、地理院の空中写真です。写真で見ると桂川と宇治川、京都競馬場が目に付きます。図の中央の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
国土地理院空中写真 |
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀城」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので、挿絵を見るときには、当時の地形を想像してご覧ください。
今回は「淀小橋」をご紹介します。淀城の北側で宇治川に架かっていた橋です。現在は宇治川が淀城の南側に付け替えられたため、橋の痕跡はありません。京阪電車淀駅の北西すぐ、納所(のうそ)交差点の手前あたりになります。
【淀小橋】
淀城に続く一枚には城郭の北側に架かる淀小橋が描かれています。絵の解説は次のとおりです。
≪橋の北詰に三嶋屋といふよき貨食店(りやうりや)あり。淀上がりの人はかねて蒿子(かこ)に約し置きて、此岸に船をよせて上陸す。是より宇治川の下流急なれば、綱引きの人夫を加ふるを例(ならひ)とす。伏見にいたる客衆も、やがて着船の支度に心いさみ、彼の柱本(はしらもと)の河堀に狸寝入せし親仁(おやぢ)も、目をひらきて綱引の割銭(わりせん)を出だす。彼方(かしこ)には荷物のふろしきをしめ直し、此方(こなた)には弁当の余りを調ぶるなど、皆、船中の通情なり。
橋の灯も おぼろに明けて 水ぐるま 千山≫
小橋の界隈には多くの旅籠や茶店が軒を連ねていました。そのなかのひとつ、北詰にあった「三嶋屋」はすこぶる評判がよく、淀で船を降りる上り船の客に人気があったそうです。
淀川両岸一覧上船之巻「淀小橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川筋でも淀小橋の辺りは特に流れが急で、その上橋脚の下は水流が巻いていて危険でした。棹の操作を誤れば、船を橋脚にぶつけ大事故になります。このため、橋脚には鉄燈籠が釣り下げられ、終夜灯火し、通船の便りとしました。
淀小橋を過ぎると宇治川の流れは速さを増します。淀からの曳き船の場合も、通常は四人である水主(かこ)を増員し、船を川岸から綱で曳きつつ伏見をめざすのが慣例でした。人夫を増員すると当然割り増し料金を取られます。他の場所なら話は別ですが、船頭も船客も緊張する淀の辺りでは狸寝入りをすることもできず、むしろここまで来ると、船客も着船の支度に心が勇み、金払いも良かったと言います。
橋を越え最後の曳き船が始まると、船内は急にざわめきたちます。荷物の風呂敷包みの口を締め直す人があるかと思うと、弁当の余りを確かめる人もいるといった様子です。長かった上りの船旅もそろそろ終着となります。
また、淀小橋の上流、納所(のうそ)には過書船の番所があったと言います。通常、風雨をしのぐため、船には苫が葺いてありました。ただし、番所を通過する際にはこの苫を開けさせ、船中を改めたのです。そもそも納所という地名は、船で運ばれてきた物資を「納」め置く場「所」だったことにちなみます。往古より川の道の要衝として機能していたことが知られます。そのため、江戸時代には大坂から淀川を上ってきた朝鮮通信使が使用したという船着き場がありました。現在は、旧京阪国道の納所交差点から千本通を少し上がった場所に、「唐人雁木(がんぎ)旧跡」と刻まれた石碑だけが残っています。
前回ご紹介した其五と淀小橋は、並べるとパノラマになります。また、淀大橋から淀小橋までの7枚はすべてつながり超ワイドなパノラマになります。
淀川両岸一覧上船之巻「淀城其五、淀小橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
淀川両岸一覧上船之巻「淀大橋から淀小橋」 (大阪市立図書館デジタルアーカイブ) |
本文は次のとおりです。淀小橋から巨椋大池の全文を掲載しておきます。
■淀小橋
城郭の上にあり。長さ七十六間、橋下の大間に鉄燈炉(かなどうろ)を釣り終夜(よもすがら)灯を燈じ通船の便(たより)とす。美豆よりこの所まで水上およそ十二丁十間といふ。
■伊勢向宮(いせむかひのみや)
小橋の東にあり。天照太神をまつる。この所浮島なり。洪水の時といへどもあぶるることなし。この傍を大池口といふ。
■巨椋大池(おぐらのおほいけ)
川すぢの傍にあり。前に葭島ありて船中よりは見えず。おぐらの入江とも伏見の大池ともいふ。長さ二十九町、幅十五町といふ。
次に、大阪くらしの今昔館が所蔵する「よと川の図」の淀小橋から上流にかけてを見てみましょう。
図の右端の淀城の傍を通り過ぎた京街道は、小橋を渡り宇治川の右岸を川に沿って進みます。街道に沿って船頭たちが綱で引き上げる三十石船が描かれています。宇治川の流れが急な箇所で、上り船の最後の曳舟となります。
小橋の左手に「浮嶋明神」が描かれ、「大池」「一口村」「いちたむら」「佐古むら」の文字が見えます。それぞれ、巨椋池、一口(いもあらい)、市田村、佐古村で、明治42年の地形図で確認することができます。なお、この絵は、宇治川の北側の上空から見た風景を描いています。絵の左手が上流側で、宇治川を遡ると伏見に至ります。
「よと川の図」の淀小橋付近(大阪くらしの今昔館蔵) |
淀付近の地域の変遷は、前々回ご紹介した内容と重なりますので、簡単にご紹介します。
明治42年の地形図では、宇治川は淀の町の南側に付け替えられた後ですが、旧宇治川の川筋が残っており「小橋」の文字も見えます。京街道の道筋も読み取ることができます。
最新の国土地理院地図では、旧宇治川が埋め立てられて市街地化しており、川筋をたどることは難しくなっています。ここでは、地理院作成の「明治期の低湿地」を重ねましたので、水色の部分が旧宇治川の川筋です。納所(のうそ)交差点は、旧街道の交差する所に斜めに旧国道1号線が通ったため、変則的な交差点になっています。
明治42年陸地測量部地図+明治期の低湿地 |
最新の国土地理院地図+明治期の低湿地 |
地理院の空中写真です。図の中央やや下の濃い緑のところが淀城跡です。この写真から、付け替え前の宇治川の川筋をたどることは難しいと思われます。
国土地理院空中写真 |
最後にもう1枚、当時の景観に最も近いと思われる明治22年陸地測量部地図(仮製地図とも呼ばれる)を掲載しておきます。測量技術の水準が現在と異なるため、正確な比較は難しいですが、当時の大まかな地形を見ることができます。
宇治川は付け替え前の流れが描かれています。現在よりも北側、淀城よりも北を流れていました。木津川は明治初年に付け替え工事が行われ、地図の左下の八幡付近で淀川と合流しています。付け替え前には地図に「木津川旧河道」と示したところを流れていました。淀から伏見までの京街道の道筋も確認することができます。
付け替え工事前には淀城の北側で桂川と宇治川が合流し淀川となり、城の西側で木津川と合流していました。淀城は、まさに水に浮かぶ要塞のようであったと想像できます。
明治22年陸地測量部地図(仮製地図) 国際日本文化研究センター蔵 |
今回は、「淀川両岸一覧」の「淀小橋」をご紹介しました。淀周辺は木津川・宇治川の付け替え工事などによって地形が大きく変わっていますので注意が必要です。
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