2016年8月29日月曜日

今週の今昔館(22) 20160829

〇特別展 中井大和守の建築指図 -世界遺産をつくった大工棟梁- 終了しました
 多くの皆様のご来場ありがとうございました。


〇展示替えに伴う休館について
 大阪くらしの今昔館は、9月5日(月)から9日(金)まで、展示替えのため休館いたします。
 9月10日(土)からは、「商家の賑わい」の展示となります。
 江戸時代の大坂の店先を再現し、当時の賑やかな商家の様子を楽しめます。



 なお、9月10日からは通常通り、毎週火曜日と第三月曜日が休館日となります。
 9月は、13日、20日、27日の火曜日と、21日(水)が休館となります。
 第三月曜日19日は祝日のため開館しますので、21日(水)が休館となります。
 9月のカレンダーは、こちらでご確認ください。
http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=201609



〇今昔館のあまり知られていない展示(その12)
 近世のフロアのあまり知られていない展示の2回目は、こちらの写真です。
 何かわかりますか?今昔館のどこにあるでしょうか?



 答えは「しもたや」です。江戸時代のフロアの表通りの左側、一番奥にあります。
 しもたや(仕舞屋)は、店じまいをした家の意の〈仕舞(しも)うた屋〉から変化した言葉で,商売をしていない家をいいます。
 「しもう」は、「終える」「片付ける」を意味する動詞「仕舞う(しまう)」に由来し、漢字では「仕舞屋」「仕舞うた屋」「仕舞た屋」などと書きます。ここでの「しまう」は、「店をたたむ」「商売をやめる」といった意味で、江戸時代、ある程度の財産ができると店をたたんで、普通の家に住むことを言いました。
 今昔館では、表通り左側の一番奥が「しもたや」になっていて、桂米朝さんの案内でも「左の手前から、建具屋、小間物屋、唐物屋、呉服屋でんな、で一番向こうが「しもたや」です。「しもたや」てな言葉も使わんようになりましたが、商売をやめてしもた、しもうたというような意味なんでしょうな。つまり何もやってないちゅうことですな。」との解説があります。

 9月4日までの「夏祭りの飾り」の展示では、しもたやの前に「天神丸」が展示されていて、見学しにくい状況ですが、9月10日からの「商家の賑わい」の展示になると見学しやすくなります。その際に、しもたやの左側の壁をご覧いただくと、土壁の一部が塗り残された状態になっていて、伝統的な木舞壁(こまいかべ)の構造がわかるようになっています。
 今昔館の町家は、すべて伝統的な工法で施工されています。左官工事も、藁縄で竹を組んだ木舞下地を作り、そこにまず片面のみ藁スサを混ぜた壁土を塗り、これが乾燥する前に裏側を塗り、さらに中塗り、上塗りして仕上げられています。是非一度ご覧ください。




 
〇今週のイベント・ワークショップ

◆7月20日(水)から9月4日(日)までの間は、休まず開館いたします。
http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=201608

◆9月5日(月)から9日(金)まで、展示替えのため休館いたします。
http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=201609


29日~9月3日、10日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

9月4日、11日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


9月4日(日)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町で、落語をきいてみませんか
出演:桂出丸「皿屋敷」 桂慶治朗「はてなの茶碗」
14時~15時


9月4日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
時 間:13:00~16:00


9月10日(土)
ワークショップ 『張り子のお面を作ろう』

①13時30分 ②14時30分
当日先着各回10名、参加費300円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します
講師:大阪くらしの今昔館 町家衆

9月11日(日)
町家衆イベント おじゃみ(有料)

古布を四角く切って縫い合わせて作るおじゃみ(お手玉)。
作り方をていねいにお教えします。
開催日:第2日曜
時 間:14:00-16:00

9月11日(日)
イベント 第11回子ども落語大会

開催日時 : 午後12時~17時(予定)
開催場所 : 大阪くらしの今昔館 9階常設展示場 薬屋座敷
参 加 費 : 無料(参加者の御家族1名は無料です)
対 象 : 中学生以下
内 容 : 落語・小噺・おもしろい話など、なんでもOK!
持ち時間 : 一人10分以内(時間厳守のこと)
備 考  : 本大会の入賞者は、10月9日(日)午前10時から、
     天満天神繁昌亭の舞台に出演していただきます


そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年8月22日月曜日

今週の今昔館(21) 20160822

〇特別展 中井大和守の建築指図 -世界遺産をつくった大工棟梁-
 開催中です。残り少なくなりました。
 平成28年7月23日(土)~8月28日(日) (※会期中は休まず開館いたします。)


 重要文化財「大工頭中井家建築指図」は江戸時代の大工頭・中井大和守と配下の棟梁衆が作図した建築設計図です。中井大和守がつくった建物は、大阪城、江戸城、二条城、名古屋城、京都御所、清水寺、知恩院、北野天満宮、方広寺など日本を代表する建物で、現存する作品の多くは国宝や世界遺産になっています。建築指図の多くは300年以上の年月を経て、破損が進んでいました。そこで平成25年度から3ヵ年にわたって、国庫補助と住友財団の助成による保存修理を行いました。
 この展覧会では、修理された建築指図を中心に「大工頭中井家建築指図」を一堂に公開し、日本建築の意匠と技術の真髄に迫ります。

 詳しくはこちらをどうぞ。≫http://konjyakukan.com/kikakutenji.html


特別展 中井大和守の建築指図 -世界遺産をつくった大工棟梁-


 関連イベントとして、谷直樹館長によるギャラリートークを開催します。
開催日時:8月28日(日)14:00から30分程度の予定。





方広寺大仏殿 重要文化財 中井正知氏・中井正純氏蔵
清水寺絵図(部分) 重要文化財 中井正知氏・中井正純氏蔵
「知恩院(部分)」重要文化財 中井正知氏・中井正純氏蔵


〇子ども落語大会、参加者募集中です

第11回子ども落語大会
開催日時 : 9月11日(日)午後12時~17時(予定)
開催場所 : 大阪くらしの今昔館 9階常設展示場 薬屋座敷
参 加 費 : 無料(参加者の御家族1名は入館料無料です)
対 象 : 中学生以下
内 容 : 落語・小噺・おもしろい話など、なんでもOK!
持ち時間 : 一人10分以内(時間厳守のこと)
申込方法 : 往復はがきに住所、氏名、年齢(学年)、電話番号、演目、ありましたら舞台名、
      見台の要否、「出場に際してひとこと!」を明記の上、
      下記申込先へ往復はがきでお申し込みください
      申込者が多い場合は抽選となります
      申込期間 : 平成28年7月23日(土)から8月26日(金)まで(締め切り間近です)
(申込・問合せ先)
     〒530-0041
     大阪市北区天神橋6丁目4-20
     大阪くらしの今昔館「子ども落語大会」係
     TEL 06-6242-1170
備 考  : 本大会の入賞者は、10月9日(日)午前10時から、
     天満天神繁昌亭の舞台に出演していただきます



〇今昔館のあまり知られていない展示(その11)

 前回まで8階近代のフロアの「近代都市住宅年表」をご紹介してきましたが、9階近世のフロアの江戸時代の町家の中にも、皆さんが気が付いておられない見どころがいろいろとあります。これから、順次いくつかご紹介していきましょう。
 今回はまずこの写真から。
 どこにあるでしょうか?何の値段表でしょうか?


 答えは風呂屋。まず、「湯銭 一、男女 八文」 とあります。
 つぎに「一、小供 六文」とあり、子どもは大人の半額ではなく、四分の三となっています。
 次には「一、ちのみ子 四文」とあり、赤ちゃんが大人の半額となっています。当時はお湯を沸かすのも大変ですから、お湯の利用量からすると、子どもは大人の半額ではなく四分の三、乳飲み子が大人の半額となっていました。
 最後の「一、ぬか袋 三文」は、石鹸のなかった当時、ぬか袋で身体を洗っていたそうです。

 当時の一文が今のいくらになるかは25円から40円程度と諸説ありますが、上方落語の「時うどん」(江戸では「時そば」)では、うどん一杯が十六文でした。風呂代はうどん一杯の半額の八文ですから、現在よりは若干割り安か、同程度といったところでしょうか?

 この値段表は風呂屋の番台の後ろに掲示されていますので、次回今昔館にお越しの際には、是非ご確認ください。


 
〇今週のイベント・ワークショップ

◆7月20日から9月4日までの間は、休まず開館いたします。
http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=201608


22日~27日、29日~9月3日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

8月28日、9月4日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


8月27日(土)
ワークショップ 『ミニすだれを作ろう』

①13時30分 ②14時30分
当日先着各回10名、参加費200円
*当日10時より受付で参加整理券を販売します
講師:大阪くらしの今昔館 町家衆


8月28日(日)
町家衆イベント 絵本で楽しい時間

むかし話などの絵本を表情豊かに読み聞かせます。じっくりとお聞きください。
開催日: 第4日曜
時 間:14:30~15:00


9月4日(日)
イベント 町家寄席-落語

江戸時代にタイムスリップ!大坂の町で、落語をきいてみませんか
出演:桂出丸「皿屋敷」 桂慶治朗「はてなの茶碗」
14時~15時


9月4日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。
当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
時 間:13:00~16:00



そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年8月15日月曜日

今週の今昔館(20) 20160815

〇特別展 中井大和守の建築指図 -世界遺産をつくった大工棟梁- 開催中です
 平成28年7月23日(土)~8月28日(日) (※会期中は休まず開館いたします。)


 重要文化財「大工頭中井家建築指図」は江戸時代の大工頭・中井大和守と配下の棟梁衆が作図した建築設計図です。中井大和守がつくった建物は、大阪城、江戸城、二条城、名古屋城、京都御所、清水寺、知恩院、北野天満宮、方広寺など日本を代表する建物で、現存する作品の多くは国宝や世界遺産になっています。建築指図の多くは300年以上の年月を経て、破損が進んでいました。そこで平成25年度から3ヵ年にわたって、国庫補助と住友財団の助成による保存修理を行いました。
 この展覧会では、修理された建築指図を中心に「大工頭中井家建築指図」を一堂に公開し、日本建築の意匠と技術の真髄に迫ります。

 詳しくはこちらをどうぞ。≫http://konjyakukan.com/kikakutenji.html


特別展 中井大和守の建築指図 -世界遺産をつくった大工棟梁-


 関連イベントとして、谷直樹館長による講演会「建築指図を深読みする-修復を終えた江戸時代の建築絵図から見えてきたもの」を、8月21日(日)10:30から開催します。詳しくは、こちらをどうぞ。
http://konjyakukan.com/kikakutenji.html#kikakutenji20160821

 また、講演会のほかに、谷直樹館長によるギャラリートークを開催します。
開催日時:8月28日(日)14:00から30分程度の予定。





方広寺大仏殿 重要文化財 中井正知氏・中井正純氏蔵
清水寺絵図(部分) 重要文化財 中井正知氏・中井正純氏蔵
「知恩院(部分)」重要文化財 中井正知氏・中井正純氏蔵


〇子ども落語大会、参加者募集中です

第11回子ども落語大会
開催日時 : 9月11日(日)午後12時~17時(予定)
開催場所 : 大阪くらしの今昔館 9階常設展示場 薬屋座敷
参 加 費 : 無料(参加者の御家族1名は入館料無料です)
対 象 : 中学生以下
内 容 : 落語・小噺・おもしろい話など、なんでもOK!
持ち時間 : 一人10分以内(時間厳守のこと)
申込方法 : 往復はがきに住所、氏名、年齢(学年)、電話番号、演目、ありましたら舞台名、
      見台の要否、「出場に際してひとこと!」を明記の上、
      下記申込先へ往復はがきでお申し込みください
      申込者が多い場合は抽選となります
      申込期間 : 平成28年7月23日(土)から8月26日(金)まで
(申込・問合せ先)
     〒530-0041
     大阪市北区天神橋6丁目4-20
     大阪くらしの今昔館「子ども落語大会」係
     TEL 06-6242-1170
備 考  : 本大会の入賞者は、10月9日(日)午前10時から、
     天満天神繁昌亭の舞台に出演していただきます



〇今昔館のあまり知られていない展示(その10)

 戦前大阪市には社会部という組織がありました。現在では新聞社にあるような名前の部署ですが、当時の大阪市社会部は、住宅政策や労働政策、児童保護政策などの社会事業を所管していました。社会事業に行政としての対応が始まったことは、都市政策の画期をなすものでした。不良住宅地区改良事業は社会部のもっとも重要な事業のひとつでした。その事業によって建設された住宅が 大阪くらしの今昔館に展示されています。常設展示の8階近代のフロア「モダン大阪 パノラマ遊覧」の近代都市住宅年表のコーナーにあります。
 明治以降から現代までの大阪の住まいと暮らしの歴史を、「都市住宅の変容」を軸に、市街地や郊外居住の変化などの流れも含めて年表にまとめたもので、この年表の下の段には各時代の代表的な住宅の立面図が同じスケールで描かれています。このパネルをよく見ると、北日東住宅が見つかります。



8階近代のフロアの「近代都市住宅年表」のコーナー

北日東町住宅

 不良住宅地区改良事業は大阪市社会部のもっとも重要な事業のひとつでした。大阪市は大正13年に住宅密集地区2か所の調査を行い、内務大臣の地区指定を待って昭和2(1927)年に住宅地区改良事業に着手しました。対象地区は19の不良住宅地区、約1900坪でした。
 現居住者を仮住宅に移転させ、土地建物を買収して敷地整備と改良住宅の建設を行った後に居住者を帰還居住させる計画で、昭和4年に今宮住宅が竣工したのを皮切りに、仮住宅5か所と改良住宅5か所が完成しました。当初は7年までに1534戸を建設する予定でしたが、利害関係の調査に手間取ったうえに、資材不足が次第に深刻になり、何回かの延長を重ねて17年度までに18地区中13地区を完了し、19年に打ち切られました。
 建設された改良住宅は木造2階建て280戸、鉄筋コンクリート3階建て共同住宅726戸で、木造の仮住宅は144戸でした。鉄筋コンクリートの共同住宅自体が珍しかった当時、最新の設備を備えた改良住宅は大きな注目を浴びました。
 大阪朝日新聞は、「通称カンテキ裏と呼ばれてゐた南日東町のスラム街が一変して、瀟洒たる客船を思はせる鉄筋コンクリートの三層建築がアスフアルトの舗道を挟んで五棟も出現したんだからまつたく隔世の感がある。」と地域の変貌ぶりと改良住宅の「堂々たるモダニズム」を紹介しています(昭和8(1933)年2月23日付け)。

 解説は、「まちに住まう -大阪都市住宅史-」を参考にさせていただきました。


 
〇今週のイベント・ワークショップ

◆7月20日から9月4日までの間は、休まず開館いたします。http://konjyakukan.com/kaikanjikan.php?nextm=201608


8月15日~20日、22日~27日、29日~9月3日
町家ツアー

住まいのミュージアム「大阪くらしの今昔館」の9階「なにわ町家の歳時記」では、楽しいガイドツアーをおこなっております。当日ご来館の方は、自由に参加していただけます。
※団体でお越しの場合は、事前にお申し込みください。
開催日:平日・土曜日(※日曜日は下記のとおり、町家衆による町家ツアーがあります。)
時 間:11:30、14:30

8月21日(日)、28日
町家衆イベント 町家ツアー

江戸時代大坂の町並みについて町の特色や見どころをわかりやすく解説します。
時 間:13:10~14:00


8月20日(土)
町家衆イベント 折り紙

季節に合わせてさまざまな折り紙をお教えします。作品は持ち帰っていただきます。
時 間:13:30~15:00


8月21日(日)
イベント 町家でお茶会

町家の座敷で「ほっと一息」一服いかがですか
先着順50名、茶菓代300円
※ 当日10時30分より8階ミュージアムショップでお茶券を販売します
協力:大阪市役所茶道部
時 間:13時~15時


8月21日(日)
町家衆イベント 今昔語り

大阪に残る昔ばなしを、町家の座敷でお聞かせします。あたたかくなつかしい風情をお楽しみください。
時 間:14:30~15:00


8月21日(日)
町家衆イベント 町の解説

江戸時代の大坂では人々はどのように暮らしていたのか。当時の史料(複製)とともに町会所で詳しく説明します。
時 間:13:00~16:00



そのほかのイベント・ワークショップはこちらからご覧いただけます。
そのほか定期開催のイベントはこちらからご覧ください。

大阪くらしの今昔館の展示内容や利用案内などについて詳しくはこちらからどうぞ。

 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse



2016年8月11日木曜日

島之内の通と筋と町の名前の考察

〇島之内(しまのうち)とは
 大阪市中央区の地域名および町名。東を東横堀川、南を道頓堀川、西を西横堀川、北を長堀川に囲まれた(囲まれていた)地域で、人工の堀川開削によってできた島の内側であることから島之内と呼ばれました。 
東横堀川:1585年もしくは1594年完成。現存。阪神高速1号環状線南行きの高架。 
道頓堀川:1615年完成。現存。 
西横堀川:1617年完成。1962年埋立。阪神高速1号環状線北行きの高架。 
長堀川:1622年完成(既存の小河川を拡幅したとも言われる)。1964年埋立(四ツ橋以西は1970年埋立)。長堀通。 
 それぞれの堀川を挟んで、東は上町、南は道頓堀、西は堀江、北は船場に接しています。1615年、大坂夏の陣後に復興が始まり、19世紀後半には、24町もの茶屋御免の町がありました。
 北部は船場とともに城下の中枢をなす職人町、南部は道頓堀とともに遊里が点在する色町を形成し、船場の「商いどころ」に対して「粋どころ」と呼ばれました。異名は「ミナミ」「江南」「南江」「南州」「南陽」「陽台」「崎陽(きよう)」と多数ありました。つまり「ミナミ」とは元々、島之内のことを指す名称でした。

〇島之内の街並み
 船場と同じく、街区は基本的に40間四方の正方形で、街路は碁盤目状に直交しています。必ずしも東西方向の街路を通(とおり)、南北方向の街路を筋(すじ)と称さない点や、東西方向の竪町割りより南北方向の横町割りが多い点が船場との大きな違いです。おおむね周防町筋以南は飲食店が集中する歓楽街となっています。

〇島之内の主な通・筋

東西方向(北から南の順)

長堀通(末吉橋通) - 厳密には船場に含まれる
鰻谷北通(鰻谷上之町通)
鰻谷南通(鰻谷中之町通)
大宝寺通(いちょう通り)
清水町筋(清水通)
周防町筋(ヨーロッパ通り)
八幡筋
三津寺筋(三ツ寺筋)
新屋敷筋
宗右衛門町通 - 御堂筋以西は久左衛門町通 

南北方向(東から西の順)

問屋町筋(安綿橋筋)
竹屋町筋
板屋橋筋
鍛冶屋町筋
堺筋(長堀橋筋) - 日本橋筋の呼称は道頓堀川以南
千年町筋(藤中橋筋)
玉屋町筋(中橋筋)
笠屋町筋(三休橋筋)
畳屋町筋(丼池筋)
心斎橋筋(はっ筋)- 戎橋筋の呼称は道頓堀川以南
御堂筋(国道25号)
佐野屋橋筋
炭屋町筋(炭屋橋筋)- 四ツ橋のひとつである東側の橋は炭屋橋

〇現在の住居表示
 昭和57(1982)年から堺筋以東において「島之内」の住居表示が実施されました。また、平成元年(1989年)から御堂筋以西において「西心斎橋」、畳屋町筋~堺筋間において「東心斎橋」の住居表示が実施され、同時に、既存の「心斎橋筋」と「宗右衛門町」もそれぞれ町域が拡大されました。宗右衛門町を除き、それぞれ周防町筋以北が1丁目、以南が2丁目となっています。
 これにより、北炭屋町・南炭屋町・鰻谷西之町・鰻谷中之町・鰻谷東之町・大宝寺町西之丁・大宝寺町中之丁・大宝寺町東之丁・西清水町・東清水町・周防町・八幡町・三津寺町・久左衛門町・畳屋町・笠屋町・玉屋町・千年町・長堀橋筋・鍛冶屋町・南綿屋町・竹屋町・問屋町・大和町の町名が消えることとなりました。以上、ウィキペディアを参考にさせていただきました。
 町家衆の湯川さんから『大阪春秋』#133心斎橋・島之内特集号の情報をいただきました。わかりやすい図が掲載されていましたので、転載させていただきます。

町名変更前の島之内地区略図(大阪春秋#133より)
いまの島之内地区略図(大阪春秋#133より)

〇島之内の通と筋と町の名前についての考察
 明治28年(1895年)発行の大阪市明細地図を見ると、北船場、南船場、島之内の通と筋の名前。町名、橋の名前がきっちりと書かれています。島之内について見てみると、心斎橋筋より東側の南半分だけが、南北の筋に沿って町名が記されています。名前も手工業の業種(畳屋、傘屋、玉屋、鍛冶屋、綿屋、竹屋)が多い点が特徴です。島之内は住居表示の変更で、島之内、心斎橋筋、東心斎橋、西心斎橋に統合され、残っている町名は、宗右衛門町だけになっています。

明治28年(1895年)発行の大阪市明細地図の島之内

 大正13(1924)年発行の大阪市パノラマ地図の島之内です。
 船場では、東西の通りがメイン、南北の筋がサブで、町名はホンマチ、ヒラノマチなど通りの名前となっていますが、島之内ではちょっと様子が違います。

大阪市パノラマ地図の島之内

 島之内の東半分を見ると、北側ではウナギダニヒガシ、ダイホージマチヒガシと東西の通に名前が表示されていますが、それより南の通には名前がありません。
 南北の筋について、東横堀から西に向かって、筋に記されている文字をたどると(右下から左上へ読みます)、トイヤマチ、タケヤマチ、ミナミワタヤマチ、カジヤマチ、ナガホリバシスジ(堺筋)、チトセ丁、タマヤ丁、カサヤ丁、タタミヤ丁・・・と書かれていて、〇〇スジではなく〇〇マチ、〇〇丁となっています。東西の道を見ると、はちまんすじ、の文字が見えます。マチと区別できるようにひらがな表記になっています。
 このように、島之内の東半分では、南北の筋がメインで町の名前になり、東西がサブでスジと呼ばれています。町の名前が手工業の職業名となっているものが多い点も特徴です。


大阪市パノラマ地図の島之内(東側の拡大)

 一方、心斎橋筋よりも西側は、北から順に、ウナギダニニシノ丁、ダイホージマチニシノ丁、ニシシミズマチ、スホマチ(周防町)、ハチマン丁、ミツテラ丁、キウザエモン丁(久左衛門町)と通りに町の名がついています。

大阪市パノラマ地図の島之内(西側の拡大)

 由来はよくわかりませんが、島之内の西と東とで町の作りが異なっている点は面白いと思います。船場では城と港を結ぶ東西の道がメインストリートで通、南北の道はサブで筋と明確でしたが、長堀よりも南の島之内では、特に東半分については南北の人の流れが多くなり、町も南北の道にそって形成されてきたとも考えられます。西半分は心斎橋筋から西方向への人の流れが多く東西の道がメインとなっていますが、ハチマンスジ、ミッテラスジのように「筋」で呼ばれている町がある点も興味深いです。

 提言としては、船場と同様の内容になりますが、通と筋の名前を復活し、交差点ごとに表示することが、地域への愛着を高めることにもつながるように思います。
 住居表示では、大くくりに「島之内」「心斎橋筋」「東心斎橋」「西心斎橋」にまとめられましたが、繁華街ということもあって、「ミッテラ」や「八幡筋」、「千年町」、「鰻谷」など、よく耳にする地名もあります。これをうまく島之内全体に拡げることができれば地域振興にも役立つように思います。

 名前は「通」ではなく「筋」だけれども、メインストリートとなって町を形成している道として代表的なものは、心斎橋筋や堺筋(長堀橋筋、道頓堀よりも南は日本橋筋)があります。
 大川よりも北では、天神橋筋、天満橋筋も南北の筋に沿って町が形成されています。〇〇橋筋〇丁目という地名が1丁目から2丁目・3丁目の方向に町が形成されてきたことを表しているのではないでしょうか。
 大阪城の南方面でも、谷町筋、上町筋に沿って町が形成されていて、名前に「筋」は付きませんが、谷町〇丁目、上本町〇丁目と呼ばれています。


 大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアに、大阪市パノラマ地図を拡大して床面に展示していますので、じっくりとご確認ください。

大阪くらしの今昔館の近代のフロア


 大阪市パノラマ地図についてはこちらをどうぞ。

 御堂筋と堺筋についてはこちらをどうぞ。

 船場についての考察はこちらからどうぞ。


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。≫http://www.sumai-machi-net.com/howtouse

船場の通と筋の名前についての考察と提案

〇船場(せんば)とは
 船場は、大阪市中央区の地域名で、大阪市の中心業務地区にあたります。大坂の町人文化の中心となったところで、船場言葉は江戸時代から戦前期にかけて規範的・標準的な大阪弁とみなされていました。

 船場は河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域であり、範囲は
東端 - 東横堀川 (阪神高速1号環状線南行き)
西端 - 西横堀川 (阪神高速1号環状線北行き。1962年埋立)
南端 - 長堀川 (長堀通。1964年埋立)
北端 - 土佐堀川
の東西1km、南北2kmのエリアです。江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもあります。東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接しています。
現在ではまれですが、上町を東船場、下船場を西船場とみなして、船場を中船場と称することもあります。
明治39(1906)年発行の大阪市街精密地圖 舟場之部(東が上)

〇船場の通と筋の名前

 船場のまちは、大阪城と港を結ぶ東西の通(メインストリートで4間幅)とそれに直行する南北の筋(サブストリートで3間幅)とで構成され、東西の通りを挟んで北と南で1つの町を形成しています。両側町と呼ばれる形態で、町の名前は通の名前と一致していました。
 明治時代になって梅田、難波、天王寺に鉄道駅ができ、南北の交通量が増えたことから、市電の敷設と合わせて堺筋と四つ橋筋が拡幅され、さらに、昭和時代になって地下鉄の建設と合わせて御堂筋が整備されたことから、現在では南北の筋のほうがメインストリートとなっています。

 東西の通りでは、土佐堀通と本町通、末吉橋通(現在の長堀通)が市電の敷設と合わせて拡幅されて幹線となっていました。戦後になって、中央大通の整備と長堀の埋め立てによる長堀通の拡幅が行われ、新たな幹線となっています。

◆北船場の通(とおり)の名前(北から南へ)

土佐堀通 - 古くは北浜通、あるいは土佐堀浜通と呼ばれた。町名は北浜であるが、現在では北浜といえば堺筋と交わる北浜駅周辺を呼ぶことが多い。大阪取引所がある金融街。一方、御堂筋と交わる淀屋橋駅周辺は淀屋橋と呼ばれる。大阪を代表するオフィス街で、御堂筋の西側が住友村として知られるほか、淀屋の碑がある。

内北浜(うちきたはま)通 - 古くは梶木町通と呼ばれた。町名は北浜。適塾、大阪市立愛珠幼稚園がある。

淀屋小路(よどやしょうじ) - 心斎橋筋 - 御霊筋間にのみ敷かれた小路。もとは渡辺筋まであった。淀屋の屋敷に由来する。

今橋(いまばし)通 - 御堂筋に面して東側に日本生命、西側に淀屋橋odona、大阪倶楽部がある。

浮世小路(うきよしょうじ) - 今橋と高麗橋の間の通り。京都でいう突抜に相当する。本来は背割下水(太閤下水)の位置であるが、幅の狭い通りとなっている。

高麗橋(こうらいばし)通 - 2005年5月まで堺筋に面して三越大阪店があった。江戸時代、高麗橋の東詰には里程元標が置かれた。

伏見町(ふしみまち)通 - 芝川ビルが有名。御堂筋を挟んで西側に阪和興業、東側にKISCOがある。

道修町通 - 武田薬品や塩野義製薬をはじめとする製薬会社のオフィスが集中する、日本を代表する薬品街。神農(しんのう)さんとして知られる少彦名(すくなひこな)神社があり、11月22日から23日の神農祭にあたっては賑わいを見せる。境内には春琴抄の碑が、隣接してくすりの道修町資料館がある。

平野町(ひらのまち)通 - イトーキ資料館、湯木美術館があるほか、御堂筋に面してガスビル(大阪ガス本社)が、堺筋に面して生駒ビルヂングがある。

大阪市街精密地圖 舟場之部(部分、東が上)

淡路町(あわじまち)通 - 御堂筋を挟んで西側に御霊神社が、2丁目には船場ビルディングがある。

瓦町(かわらまち)通 - 江戸時代に角細工商や戸棚商、湯風呂細工職人、戸障子商、襖骨商など建築関係の商工業者が多かったという。

備後町(びんごまち)通 - 堺筋に面してりそな銀行本店、御堂筋に面して北御堂として知られる津村別院(住所は本町)がある。

安土町(あづちまち)通 - 近江安土から町人が移住してきたからという説と、当地で弓術の修練が行われ射場の「あづち(積み土)」があったからという説がある。

本町通 - 北船場と南船場の境界。丸紅大阪本社、大阪産業創造館(大阪企業家ミュージアム)、御堂筋に面して竹中工務店本社がある。


◆南船場の通りの名前(北から南へ)

本町通 - 御堂筋に面して東側にセントレジスホテル大阪がある。

南本町通 - 古くは米屋町通と呼ばれた。御堂筋に面してヨドコウ本社がある。

中央大通 - 船場の区間は1970年に完成。唐物町(からものまち)通と北久太郎町(きたきゅうたろうまち)通の2本の通りとその間の街区が道路用地に充てられている。唐物町通が東行き、北久太郎町通が西行きの平面道路に拡幅され、平面道路の間に繊維問屋が集まる船場センタービルが建ち、その上を高架道路と阪神高速13号東大阪線が走っている。地下には地下鉄中央線が走る。町名は1970年より船場センタービルが船場中央となり、1989年より唐物町残余が南本町に編入、北久太郎町残余が南久太郎町と統合されて久太郎町となった。中央区役所がある。

久太郎町通 - 中央大通の整備までは南久太郎町通と呼ばれた。御堂筋に面して大阪センタービル(伊藤忠商事旧本社・阪神高速道路本社など)、南御堂として知られる真宗大谷派難波別院がある。


大阪市街精密地圖 舟場之部(部分、東が上)

北久宝寺町(きたきゅうほうじまち)通 - かつて久宝寺という寺院が存在したという説と道頓らが地元の河内久宝寺から住人を呼び寄せたという説がある。

南久宝寺町通 - 南久宝寺町問屋街として知られる。

博労町(ばくろうまち)通 - 御堂筋に面して西側に難波神社がある。この通りまでは旧東区に属し、現在も町名として残っている。

順慶町(じゅんけいまち)通 - この通りから南は旧南区に属し、現在の町名は南船場。三休橋筋との交差付近は宝石貴金属卸が集まる宝飾問屋街となっている。

安堂寺橋(あんどうじばし)通 - 現在の町名は南船場。

塩町(しおまち)通 - 現在の町名は南船場。

長堀通 - 1964年、長堀川が埋め立てられるまでは末吉橋(すえよしばし)通と呼ばれた。現在の町名は南船場。


◆船場の筋の名前(東から西へ)

東横堀筋 - 東横堀川沿い。

箒屋町(ほうきやまち)筋 - 「本町の曲り」で東へ追加される筋へ東横堀筋が移るため、同所以南で箒屋町筋と名称を変える。

板屋橋(いたやばし)筋 - 壱丁目筋と呼ばれることもある。

八百屋町(やおやまち)筋 - 今橋通から北は、平野屋五兵衛と天王寺屋五兵衛にちなんで、十兵衛横町(よこまち)と呼ばれた。

堺筋 - 市電が通っていた筋で、御堂筋の拡幅までは大阪を代表する通りであった。今なお、御堂筋に次いで重要な通り。

難波橋(なにわばし)筋 - 藤中橋(ふじなかばし)筋とも呼ぶ。かつては大川に難波橋が架橋され、中国街道に接続する往来の多い道路で、隣の堺筋と繁栄を二分していた。しかし、1911年の市電敷設計画に反対したことが明暗を分け、1915年にはシンボルだった難波橋が堺筋に架け替えられた。その7年前の1908年に長堀川に藤中橋が架橋され、難波橋を失った難波橋筋は藤中橋筋とも呼ばれるようになった。

中橋(なかばし)筋 - 長堀川に架かる橋の名前から。

三休橋筋 - 栴檀木橋(せんだんのきばし)筋とも呼ぶ。大阪市の道路整備計画により歩道幅が確保され、大阪ガスなどから寄贈されたガス灯が並び、風情のある景観となっている。

大阪市街精密地圖 舟場之部(部分、北が上)
丼池(どぶいけ)筋 - 繊維問屋街。大阪で最初にアーケードが出来たのが丼池筋である。1993年老朽化により大阪最古のアーケードは撤廃された。現在は丼池ストリートとも呼ばれている。

心斎橋筋 - 南船場側は心斎橋筋北商店街として賑わう。

御堂筋 - 1937年の拡幅までは淡路町通との交点で屈折していたため、同所以南の北御堂・南御堂のある区間を御堂筋、以北を淀屋橋筋と称した。大阪の象徴ともいえる目抜き通り。

御霊(ごりょう)筋 - 南御堂より南は佐野屋橋筋と呼ばれる。

渡辺(わたなべ)筋 - 御霊神社より北は魚(うお)の棚筋と呼ばれる。

西横堀筋 - 西横堀川沿い。かつて「横堀」という町名だったことから単に横堀筋とも呼ばれる。


 以上、通と筋の名前について主としてウィキペディアから引用し若干の加筆を行いました。
 明治39(1906)年発行の大阪市街精密地圖は国際日本文化研究センターさんのホームページからお借りしました。

 以下は個人的な考察と提案です。

〇通と筋の名前の考察と提案
 通の名前は旧東区では町名として残っているため、よく知られている名前が多いですが、筋の名前は堺筋、三休橋筋、丼池筋、心斎橋筋、御堂筋以外は、あまり知られていないのが実情です。

 京都の四条烏丸、河原町三条のように、東西・南北の通りの名前を組み合わせた地名だと、両方の名前が覚えやすくなります。交差点にも両方の通り名の案内表示があります。

 名古屋では、町名は新住居表示で「丸の内」、「錦」、「栄」のように大くくりの名前に変更になっていますが、東西・南北の両方の通り名が「長者町通」、「長島町通」、「広小路通」のように交差点に案内表示されていて、観光客にもわかりやすくなっています。

 大阪では、江戸時代以来の伝統で、東西の通がメイン、南北の筋がサブという位置づけで、町名は通名と同じで、大阪城に近い方から1丁目、2丁目・・・と呼ばれてきました。これもわかりやすく合理的な表示ではありますが、1丁目といっても広いですから、地点を特定するには不便な面もあります。

 そこで、例えば「道修町三休橋」のように通と筋の交差点の名前で位置を表すようにすると、外から来た観光客にもわかりやすくなると思われます。忘れられている筋の名前を呼び起こし、例えば、「道修町八百屋町」、「道修町中橋」、「道修町丼池」のように、通を歩いていると交差点ごとに筋の名前が表示されるように、逆に筋を歩いているときには通の名前がわかるようにすると、便利になると思われます。

 船場センタービルが平成25年に外壁改修をされた際に交差点ごとに筋を強調したデザインとして筋の名前を表示しています。ビル10棟が東西約1kmにわたり横に連なっていますから、筋をアクセントとして活用し旧地名を復活させている点は面白い試みと思います。

外壁全面改修工事後の船場センタービル(パース)
(株式会社大阪市開発公社ホームページより)
船場センタービルの堺筋本町
中橋筋
八百屋町筋(ゾーンごとにテーマカラー)
八百屋町筋(拡大)
中橋筋(拡大)
丼池筋(どぶいけすじ)

 南船場に位置している心斎橋筋北商店街(しんきた)のホームページを見ると、「ようこそ心斎橋筋の発祥地へ」というキャッチフレーズがあったり、 住居表示が南船場に変わって町名が廃止された順慶町、安堂寺町、塩町の名前がマップに表示されていたり、心斎橋今昔のページがあったり、知名度の高い心斎橋を前面に出して、いろいろと工夫されています。


心斎橋筋北商店街のトップページ
交通アクセスマップには、順慶町通、安堂寺通、塩町通が表示されている
心斎橋今昔のページ
心斎橋今昔のページ(続き)


 北船場に戻りますが、三休橋筋には、船場HOPEゾーン事業の一環で、交差点ごとにその四隅に、通り名がわかるイラスト入りのタイルが埋め込まれていて、現在位置がわかりやすくなっています。

道修町三休橋(三休橋筋道修町通)


高麗橋三休橋(三休橋筋高麗橋通)

 タイルではなく標識でもいいと思いますが、これを船場全体に拡げて各交差点で通りと筋がわかるようにしてはどうでしょうか。南船場の順慶町通、安堂寺橋通、塩町通といった通り名も復活させて交差点の名前などに活用してはどうでしょうか。


 「住まい・まちづくり・ネット」では、大阪市立住まい情報センター主催のセミナーやイベントの紹介、専門家団体やNPOの方々と共催しているタイアップイベントの紹介などを行っています。イベント参加の申し込みやご意見ご感想なども、こちらから行える双方向のサイトとなっています。
「住まい・まちづくり・ネット」はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/
初めての方はこちらからどうぞ。
http://www.sumai-machi-net.com/howtouse


 大阪くらしの今昔館8階の近代のフロアに、大阪市パノラマ地図を拡大して床面に展示しています。パノラマ地図には通や筋の名前がきっちりと書かれていますので、じっくりとご確認ください。



 大阪市パノラマ地図についてはこちらをどうぞ。

 御堂筋と堺筋についてはこちらをどうぞ。

 島之内についての考察はこちらからどうぞ。

天神祭の歴史とお迎え人形 20160707

 今日は7月7日七夕です。大阪でも四天王寺はじめ各所でイベントが催されています。大阪くらしの今昔館でも、8階ロトンダに七夕飾りを展示しています。七夕飾りのそばに短冊もご用意しておりますので、この期間にご来館の方はぜひ、願い事を書いて笹に飾ってみてください。
大阪くらしの今昔館の七夕飾り
 さて、現在では天神祭は毎年7月25日に開催されていますが、かつて、天神祭が7月7日に行われていたことがあることをご存知でしょうか?現在、天満天神七夕祭、星愛七夕まつり、平成OSAKA天の川伝説が開催されていることにもつながっているそうです。7月に入って天神橋筋商店街もすでにお祭りモードに入っています。大阪くらしの今昔館も夏祭りの飾りの展示になっています。
大阪くらしの今昔館の「夏祭りの飾り」(公式ガイドブック「逍遥指南書」より)
 天神祭本番を迎える前に、天神祭の歴史と、祭に欠くことのできない御迎人形について、天神祭総合情報サイトから引用させていただき、ご紹介することとします。

〇天神祭の歴史
 大阪天満宮が創祀されたのは平安時代後期の天暦3年(949)のことです。その当時、都では落雷や疫病の流行などの天変地異が度重なり、人々はこれを配所で非業の死を遂げられた道真公の怨霊によるものと考え、その霊を鎮めるために「天満大自在天神」としてお祀りしました。いわゆる「天神信仰」の成立です。

〜天神祭の始まり〜
 大阪天満宮が創祀された翌々年の天暦5年(951)に鉾流神事が始まりました。鉾流神事とは、社頭の浜から大川に神鉾を流し、漂着した場所にその年の御旅所を設ける神事で、御旅所とは御神霊がご休憩される場所のことです。この御旅所の準備ができると御神霊は陸路で川岸まで出御、乗船して大川を下り御旅所へ向かうルートを辿りました。 この航行が船渡御で、天神祭の起源とされています。
  当時は旧暦6月に鉾流神事が行われ、6月25日に船渡御が行われたといいます。室町時代の宝徳元年(1499)の公家、中原康富の「康富日記」には7月7日に天神祭が行われたとの記録も残っており、また、戦国時代の公家、山科言経の日記「言経卿記」では、天正十四年(1586)6月25日に天神祭が記録されています。菅原道真の生誕の日に因んで旧暦の6月25日に変更されたといわれます。(明治11年、太陽暦の採用で7月25日に変更されました。)
  なお、江戸初期の御旅所の常設にともない鉾流神事は中止されましたが、昭和5年(1930)に古式にのって復活しました。現在では7月24日の朝に旧若松町浜(天満警察署前)で斎行される鉾流神事は当初と同じく、天神祭の幕開け行事となっています。

〜江戸時代の船渡御〜
 大坂の陣の戦火で一時吹田に避難した大阪天満宮でしたが、江戸初期に再び天満へ還座された後、天神祭の再開にあたっては鉾流神事で御旅所の地を決めるのをやめて、雑喉場町(西区)に常設の御旅所がおかれました。これによって船渡御のコースは固定化され、祭礼の一部始終を事前に計画できるようになりました。天満宮周辺の氏子・崇敬者が境内から川辺の乗船場まで徒歩で行列を組み(陸渡御)、乗船場からは船列を仕立てて下流の御旅所へ向かっていましたが(船渡御)、御旅所の常設後は天満宮周辺の氏子・崇敬者も御迎船を仕立てて川を遡行し、神霊奉安船と合流後に反転して、御旅所まで一緒に下航するようになったのです。
御迎船と御迎人形(大阪くらしの今昔館)
御迎船と御迎人形(大阪くらしの今昔館)

〜幕末・維新期〜
 十四代将軍徳川家茂が長州再征のために来阪した時期、世情不安を理由に天神祭の渡御列は中止となり、慶応元年から明治4年までの6年間、本殿での祭儀のみが斎行されていました。戎島付近が外国人居留地になったという理由もあり、その船渡御の復興の際には、従来の戎島の御旅所ではなく松島に移転されました。しかし、明治6年以降、再び船渡御は中止されます。維新以来、大阪の経済は沈滞したことが最大の理由で、再び土砂の堆積をとって船渡御が復興されたのは明治14年のことでした。天神祭は今も昔も大阪経済とともに歩んできたといえるのです。

大正時代の天神祭船渡御(大阪くらしの今昔館)

大正時代の天神祭船渡御(大阪くらしの今昔館)

〜現在の天神祭の形に〜
 昭和5年には江戸時代初期から途絶えていた鉾流神事が三百余年ぶりに復活されました。そして、第二次世界大戦後まもない昭和24年に、昭和13年以来中止されていた船渡御が再開されました。 ところが長年にわたる大阪一帯の地盤沈下のために大川の水位があがり、川に架かる橋の下を神輿が通れず、下流の松島にある御旅所への航行が不可能になったため、翌年(昭和25年)にはまたもや中止となりました。
 歴史ある船渡御を継続させるため、昭和28年(1953)に大川を上流に遡って航行するという、今までとは全く逆の新しいコースの船渡御が復活しました。このコースが現在の船渡御のコースです。 これによって、御旅所で行っていた神事を御鳳輦奉安船で行うようになり、両岸の大群衆が見守る中で「船上祭」を斎行するようになりました。それ以来、コースを少しづつ伸ばしながら天神祭を代表する船渡御は続いています。

〜新たな試みへ〜
 平成6年5月、関西国際空港の開港を記念して、大阪天満宮の神職および氏子・崇敬者ら約1000名がオーストラリアに渡り、ブリスベン市で天神祭を斎行しました。創祀以来、初めて異国で斎行された「天神フェスティバル」はその厳粛な祭儀と、豪壮華麗な渡御列によって、人々を魅了し大きな感動を与えました。
 また、当初は天神祭が7月7日に行われていたことも有り、七夕の祭り、星辰信仰との関係が深いこと、大阪天満宮の境内にある「星合池」がそのなごりを留めていることを踏まえて、平成7年(1995)に天満天神七夕祭りが復興しました。

〇御迎人形
 江戸時代、大坂の淀川沿いには諸藩の蔵屋敷が立ち並び、堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場と三大市場の繁栄とともに、天神祭は盛大化していきました。
 その江戸時代前期、町人文化(元禄文化)が花咲く元禄期に、御旅所は常設されました。この御旅所周辺の町々では、天神祭の様々な趣向を凝らした風流人形をこしらえました。これが、御迎船人形(御迎人形)の始まりです。
 当時、船渡御を迎えるため、御旅所周辺の町々が祭礼に先立ち各町で飾り付け、祭り当日に船に乗せて御旅所から大川を上り、船渡御の一行を御旅所まで導く役割を担っていました。この頃に登場した御迎人形は、七寸八寸(2.4m)ほどの大きさで、船上に立てた棒の先に高く飾られていましたが、享保期(1716〜36)頃から約一丈五尺(4.5m)の大型人形も作られたといいます。
 御迎人形の多くが、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物を題材としていました。 これらの人形は船上に設けられた舞台に人形をセットし、物語性が演出されるように工夫されました。文楽人形の細工人たちが作った御迎人形には頭や手足を動かすカラクリがほどこされていました。歌舞伎の見栄を切る人形もあれば恵比寿のように鯛を釣り上げる人形もありました。また、御迎人形が必ず赤(緋)色を身につけているのは「疫病(疱瘡)祓い」という意味があります。
 多いときには延べ数は50体を超えたといわれる御迎人形ですが、現在は16体しか残っていません。幕末・維新期の天神祭の中止や大戦の影響などにより人形数は減少してしまいました。人形たちを支えた町はその姿を変え、戦後は人形が船に乗せられることもなくなったのです。現在、毎年、天神祭の時期に天満宮境内と帝国ホテルのロビーなどに数体ずつ飾られています。
酒田公時の御迎人形(大阪くらしの今昔館で展示中)

【現存する御迎人形】
三番叟・雀踊・安倍保名・与勘平・酒田公時・関羽・胡蝶舞・鬼若丸・八幡太郎義家・羽柴秀吉・猩々・素盞嗚尊・鎮西八郎・佐々木高綱・木津勘助・豆蔵・恵比寿(頭のみ)

昭和48年に、このうち14体が大阪府の有形民俗文化財に指定されました。平成23年に残る2体も追加指定され16体が指定文化財となっています。